敦盛 梯子 入手方法。 愛人隷属アレルギー (ビーボーイコミックス)

愛人隷属アレルギー (ビーボーイコミックス)

敦盛 梯子 入手方法

2020年7月• 6月10日.オンラインでPhysical Review B(米国物理学会APSの雑誌)の論文を読もうとしたところ,以下の文言が現れました. APS is closed today to stand in support and solidarity with the Black community and Strike4BlackLives, and to commit to eradicating systemic racism and discrimination, especially in academia and science. 日本物理学会もかくありたい.• 5月11日. 久しぶりに出勤. YWV6 ハツだけに溌溂とした味がします. 2020年4月• 4月20日. 今後の見通しについて益々悲観的にならざるを得ない今日この頃であります. YWV4 由比の酒だけに…,マスターがそう言い(ゆい)ました. YWV5 浜千鳥を呑んで何度千鳥足になったことか. 2020年3月• 3月23日. 検査しまくって信頼できるデータを集めないと,まともな感染症対策などできる訳がない.今後の見通しについて悲観的にならざるを得ない今日この頃であります.• 3月9日. YWV3 磐梯のお酒,万歳. 2020年2月• 2月6日.期末試験の採点に集中します.終わったら論文の執筆.おやじギャグについて語っている場合ではない.• 2月5日.吉田類氏のおやじギャグを記録する試み.氏の俳句は含蓄に富むとは言い難いものの,おやじギャグは大変味わい深い.吉田類おやじギャグ作品番号(YWV)なんて如何でしょうか.YWVはYoshida-Werke-Verzeichnisの略称. YWV1 甲類,乙類,吉田類. YWV2 マスターおすすめのマスタード. YWV1は記憶のメカニズムを破壊する劇薬的快作である.忘れようとしても忘れられない.YWV2は極めて単純な構成にもかかわらず後からじわじわと沁みてくる佳品であり,名作の条件を満たしている. 2020年1月• 1月4日.「モンテ・クリスト伯(1-7)」を読了.大変優れた娯楽小説なのでありました.心理描写を抑え伏線の回収を重視する点は巷に氾濫する現代的娯楽小説と良く似ているが,流石にそれらと比較しては大デュマに対して失礼でありましょう. 2019年12月• 12月27日.代休をいただいて今日から冬休み.「モンテ・クリスト伯」 山内義雄訳,岩波文庫 を読み始める.休みの間に読み切れるのであろうか.• 12月7日.出張から帰ったら2kgほど肥えておりました.私の目方は緩慢なる長期低落傾向を示していたので少し嬉しい.やればできる子なのだ! 2019年11月• 11月16日.毎日新聞によると,官邸幹部曰く「唐揚げ増やすなどやり方ある」とのこと.唐揚げが気の毒でなりません. 2019年10月• 10月29日.LINEてなんですか.Instagramてなんですか.twitterてなんですか.生きていてもいいですか.• 10月10日.「お好み焼きの日」は何事もなく過ぎにけり. 2019年9月• 9月25日.10月10日は「お好み焼きの日」です.お好み焼き文化の守護聖人・オタフクソース株式会社によると,鉄板やホットプレート上でジュージューとおいしそうな音を立てるからだそうです. 2019年8月• 8月29日.巻付き数の定義方法について考えながら生協の食堂へと向かう.研究科の玄関を出たあたりでちょっとした違和感を覚え,そこから100メートル程歩行すると違和感は決定的となり老眼鏡のまま外出してしまったことに気付く.怖いし目は疲れるし少々難儀しました.久しぶりに飯粒の形を明瞭に観察できたのが唯一の収穫なり.• 8月21日.近所の爛れたおっさん呑み屋で一人呑み.鰹のたたきと野菜炒め,ビール大瓶,酒一合でしばしくつろいでいたところ,カウンターに海外観光客の女性2人連れを発見し驚愕する.天ぷら定食を摂取したのち風のように去って行くのでありました.• 8月17日.6日かけてウンベルト・エーコ の「バウドリーノ(上,下)」(堤康徳 訳,岩波文庫)を読了.通奏低音は明るく開放的であり「薔薇の名前」や「プラハの墓地」とは対照をなす.前半部分にはエーコ大先生の故郷アレッサンドリアにまつわる挿話が織り込まれています.アレッサンドリアと言えばチェーザレ・パヴェーゼの「月と篝火」を思い出す.主人公の養父母はアレッサンドリア市の孤児院から僅かな援助を受けていると云う設定でした.個人的に愛好するBarbera d'Astiの産地であるアスティはアレッサンドリアの西側に位置する.• 8月1日.原稿執筆に没頭し時間感覚を失う.講義をすっぽかしてしまったことに気付き(既に30分経過),焦って部屋を飛び出し階段を駆け下りる.研究科の玄関に到達した時点で,講義は明日で有ることに気付く.作文や計算への超常的没入は一種の特技と自認してきましたが,おつむの不具合ではなかろうかと恐れを抱きはじめた今日この頃です. 2019年7月• 7月15日.二十数年ぶりに「終電車」(監督 フランソワ・トリュフォー)を観る.トリュフォー映画としては「隣の女」を偏愛してきたため本作とは疎遠でありましたが,記憶よりも大分良い印象を受けました.老化して初めて分かることもあるのですね.• 7月5日.近所の居酒屋でカープの負け試合をTV観戦しつつ単独小宴会.小鰯刺と手長蛸煮付け,焼売をあてに生ビール小と楽器正宗,亀齢を摂取.お隣の超ベテランお姉さま方は四十過ぎの店主をからかいながら,女子会と称して愚痴話に情念を燃やすのでありました. 2019年6月• 6月4日.薬研堀の小料理屋で小宴会.品書きを眺めていたら,鰻の隣に「ドラゴン」なる未確認物体を発見する.太刀魚の大物に対する呼称とのことですが,なんだか詩情に欠けますなあ. 2019年5月• 5月7日.今週は芸風に適合しない非定常業務が盛りだくさん.自転車操業モードで耐え抜きます.• 2月12日.久しぶりに流川の小料理屋に出掛けたら,もう筍が登場しておりました.季節感がおかしくなりそう.• 2月11日.ハーバービジネスオンラインに「黒川名誉教授緊急寄稿。 疑惑の被ばく線量論文著者、早野氏による「見解」の嘘と作為を正す」が掲載されました.黒川氏の主張は極めて正当. 2019年1月• 1月13日.今頃になって「雪の階」(奥泉光,中央公論新社)を読了.大変おもしゅろうございました.呉清源ネタで二度吹いてしまいましたとさ.• 1月4日.チェーザレ・パヴェーゼの短編集「祭の夜」(河島英昭訳,岩波文庫)を読了.息苦しさに身を苛まれ,容易には読み進めることができない.特に「新婚旅行」と「自殺」の二編が絶望的に切ない.• 1月1日.宮崎氏と早野氏の第二論文[M. Miyazaki and R. Hayano, J. Radiol. Prot. 37, 623-634 2017 ]の問題点を指摘する論文[S. Kurokawa, arXiv:1812. 11453]の存在に今朝気付きました.黒川眞一・高エネルギー加速器研究機構名誉教授は"serious inconsistencies in the second paper"に絞って問題点を指摘されていますが,2本の宮崎-早野論文に関して再検討すべき事項は多岐にわたるようです.この件に関しては,同氏の論述[被災地の被曝線量を過小評価してはならない, WEBRONZA, 2017年05月29日]が参考になります. 現時点において,私には何が「3分の1に過小評価」されてしまったのか理解できていません.宮崎氏と早野氏が明確に説明してくださることを庶幾します.[少々加筆修正,1月2日] 2018年12月• 12月31日.毎日新聞の報道(2018年12月27日 21時48分)によると,早野龍五・東大名誉教授らが英科学誌に発表した個人被ばく線量に関する2本の論文について,倫理的問題(本人の同意のないデータの使用)と解析結果に関する問題(線量を過小評価)が指摘されているそうです.これは聞き流せない問題です.後者に関しては計算ミスによって線量を3分の1に過小評価していたとのことですが,軽微な訂正では収まらないかもしれません.なにしろ,2016年出版の第一論文[M. Miyazaki and R. Hayano, J. Radiat. Prot. 37, 1-12 2016 ]の抄録には,"The results show that the individual doses were about 0. 15 times the ambient doses, the coefficient of 0. 15 being a factor of 4 smaller than the value employed by the Japanese government, throughout the period of the airborne surveys used. "と記述されているのですから. 大雑把に説明すると以下の通り.放射線量は室外と室内では異なる(遮蔽効果のため室内だと低減される)ので,個人の平均的被ばく量を推算する際には環境モニタリングで測定された空間線量に低減係数を掛けて調整します.お上はこの係数を0. 6と定めているが,実際に測ってみたら約0. 15(0. 6の4分の1)だったと云うのがこの論文の主たる結論です.つまり,お上の決めた計算式が大幅な余裕をもって安全側に立つことを支持する結果でした.もし,この結果も「3分の1に過小評価」されていたとすれば,その余裕は激減してしまうのです.[少々修正,1月1日]• 12月19日.近所の呑み屋にて,おっさんの単身赴任哀愁話を聞き流しつつ単独小宴会.〆鯖と焼き空豆を肴に一歩己,日輪田, 日置桜を各一合弱づつ摂取する.一歩己は「いぶき」と読むそうです. 2018年11月• 11月19日.ここ二週間,四極子トポロジカル絶縁体の端っこ局在状態とやらに執着しているのですが,どうしても解析解が見つからず難儀しておりました.先ほど神のお告げを賜り,大変すっきりさっぱりとした解を見出すことに成功しました.すこし幸せ.• 11月8日.近所の呑み屋にて,おっさん方のカープ哀愁話を聞き流しつつ単独小宴会.〆鯵と湯豆腐を肴に宙弧,竹鶴にごり,玉櫻を各一合弱づつ摂取する.適量なり.• 10月31日.先週のおはなし.国連人権理事会で有害物質の管理・処分などを担当するトゥンジャク特別報告者は,『東京電力福島第一原発事故で避難した子どもや出産年齢の女性について、事故前に安全とされた被ばく線量を上回る地域への帰還を見合わせるよう、日本政府に要請する声明を発表した』とのこと(東京新聞から引用).ごく真っ当な声明だと思います.• 10月27日.お久しぶりの流川の鮨屋で宴会.特別にお願いしなくても,偏愛する青魚を数種類ほど用意していただけるのが嬉しい.今期は北海道産の真鰯が大変激しくよろしいようです. 2018年9月• 9月7日.新幹線の代替輸送も今週でおしまい.と云う訳で,もうキティーちゃん新幹線に乗る機会はないでしょう.さよならキティーちゃん,お世話になりました.• 9月3日.アルゲリッチ大先生のピアノでバッハのパルティータ2番とイギリス組曲2番を聴く.大変久しぶり.若き日の大姉御様の演奏は激しく動的でチャキチャキ.普段はチェンバロの演奏しか聴いていないので,大変新鮮なのでありました. 2018年8月• 8月19日.「ハドリアヌス帝の回想」(マルグリット・ユルスナール,白水社)を読了.やっと読めました.• 8月16日.久しぶりにキティーちゃん新幹線で出勤.キティーちゃんの頭はとても大きい. 2018年7月• 6月21日.ワイル半金属の風変わりな電気磁気応答に関する論文を投稿する.底抜けワイル模型にまつわる問題点や注意点がほぼ明らかになったと自負しております.年度初めの病的な繁忙期に思いついた構想ですが,地獄のような雑務に耐えつつ何とか形にすることが出来て少し幸せ.• 6月10日.近所の音大で福田進一氏(g)のリサイタル.アランフェスの二重奏版をはじめて聴きました.武満徹の「ヒロシマという名の少年」もはじめて. 2018年5月• 5月8日.高度にお下劣な悪態を発したいと云う本能的な衝動を抑え難い今日この頃でございます. 2018年4月• Agnese 1995 を摂取して悦楽.20年以上の年月を経ているが,お疲れの様子はなく大変お元気なのでありました.• 4月3日.科研費あたって一安心.少し幸せ. 2018年3月• 3月27日.就職関連の調整で企業の人事部門に電話を掛けまくったり,学生さんと面談したり….芸風に適合しない不向きな仕事を延々とこなす.その合間に,レフェリー・リポートを書いたり,論文草稿を推敲したり….なんだかとんでもなく多忙な今日この頃でございます.とは言え,このくらい働いてやっと人並みなのかもしれませんが….• 3月14日.卒業生・終了生の皆様へのご連絡.O氏のご尽力により,3月24日(土)秋葉原にて同窓会的小宴会を開催することになりました.参加ご希望の方はご連絡をお願いいたします.• 3月13日.遠くからお客さんが来られたので未訪の人気居酒屋を予約したところ,当方が未成年ではないことを厳しく確認されてしまいました.相当十分しっかり大人なので安心してください. 2018年2月• 2月23日.どんぐりころころドンブリコ,雑務に追われてさあ大変.泥鰌でも猿や雉でもかまいませんから手伝ってください. 2018年1月• 1月13日.久しぶりに流川の鮨屋を訪れる.寒波のせいか精彩を欠く鮨種が散見されましたが,その分勘定も控えめ.真っ当な商売なのでありました.やはり女将はアンパンマンに似ている.• 1月10日.「薔薇の名前」(ウンベルト・エーコ,東京創元社)を読了.大変お久しぶり.「反キリストは、ほかならぬ敬虔の念から、神もしくは真実への過多な愛から生まれて来るのだ。 1月3日.半年ほど放置してしまった「土の記(上,下)」(高村薫,新潮社)を読了.郷里の風景や風習を思い出す.実家の水田に鯰は現われなかったなあ…. 2017年12月• 12月18日.柄にもなく予定が目白押しの毎日.一日に三つ以上の非定常的業務が重なると何れかを忘れてしまう性癖のある私としては神経の疲れる毎日でございます.• 12月9日.お気楽な中華料理屋で軽く宴会のつもりだったのに….ひょんなことからパトスに突き動かされ,お久しぶりの三段梯子. 2017年11月• 11月17日.共同研究に誘ってくれた韓国のグループから論文草稿が届く.彼等の実験結果は我々が5年前に発表した(が反響がほとんどなかった)理論と大変美しく一致するとのこと.私の理論が実験のお役に立つことは極めて稀なので大変嬉しゅうございます.• 11月14日.先週より広島駅西側の昭和的雑居店舗密集地帯(エキニシ)の呑み屋新規開拓事業に注力しており,その一環として大変評判のよい候補店に潜入.料理と酒のまりあーじゅを目指した店のようですが,肝心の料理が絶望的な惨状を呈しているのでありました.にもかかわらず,店は満席で大繁盛なり.私は味覚まで病的に世間ずれしてしまったのでありましょう.「われ既に勇気おとろへ暗澹として長なへに生きるに倦みたり.」• 11月8日.ベッセル関数だらけの少々異様な論文に対して掲載可の判定が下る.研究である以上,他人が未だ成し遂げていない仕事を志向しなければならない.多くの研究者は皆が興味を抱く重要な対象について他人より早く成果を挙げることを目指す.私自身はこれが正しい研究者の姿であると正当に認識しているにもかかわらず,どうしても中心的課題から外れた対象を偏愛してしまう.既に鬼籍に入って久しい母親は私が幼少の頃から発露していたこの病的な傾向に気を揉みつづけていたことを心苦しく思い出す. 2017年10月• 10月15日.破滅的天才料理人I氏よりご連絡をいただく.大変久しぶり.社会復帰したので,いま世話になっている店を訪ねて欲しいとのこと.来週伺います.アルコール摂取はほどほどに…. 2017年9月• 9月27日.科研費の申請書作りはしんどいが,流石にもういやだとは言えない.大人だもの!• 9月15日.refereeはもういやだ.• 9月12日.ベッセル関数いじりはもういやだ.• 8月24日.螺旋転位を含むワイル半金属の準粒子状態に興味を抱き,その振る舞いを解析的に記述しようと試行錯誤を繰り返しておりました.さきほど神のお告げを賜り,なんとか解を構成できそうな段階に到達する.少し幸せ.変形ベッセル関数は偉大なり.• 8月21日.Goteborgは気候と景観に優れた美しい街でしたが,酒類の調達には悩まされました(大型小売店等では低アルコール度数のビールしか見当たらず).Tourist Informationのお姉さんに質問したところ,笑いながら「ワインなどはSystembolaget(政府運営の小売店)でしか入手できない」と教えてくれました.と云う訳で,街中のSystembolagetに日参しましたが,どう考えても同業者にしか見えない人たちに高確率で遭遇するのでありました.• 8月16日.低温物理国際会議(LT28)のため一週間滞在したGoteborg(Sweden)から帰国.トポロジカル絶縁体と超伝導体の接合系におけるジョセフソン効果や一次元原子細線系におけるMajorana粒子の探索等,実験技術の進展に感銘を受けました.私ももう少し頑張らなければならないと思うのであります. 2017年7月• 7月16日.半年ほど放置してしまったウンベルト・エーコの遺作「ヌメロ・ゼロ」(中山エツコ訳,河出書房新社)を一気読み.記述がやや淡白なのは,掘り下げる時間が残されていなかったと云うことでありましょうか.• 7月15日.約十年ぶりに袋町の人気居酒屋に潜入.好印象を抱いた記憶に反して,素材にも技術にも満足できず.嗜好が老化したせいか?• 7月4日.出勤途中,広島名物「エルドレッド選手のママチャリ走行」を目撃する.ちょっと窮屈そうなのでありました. 2017年6月• 6月7日.必要に迫られ(これまで愛用してきたグラフ作成ソフトで)色つきのグラフを作成する方法を習得する.かれこれ20年以上,白黒のグラフで押し通してきましたが,これからは色彩感に溢れた高雅にして感傷的なグラフを作成しようと心に誓うのでありました.ほんの少しだけ人並みに近づけた気がいたします.• 6月1日.久しぶりに近所のおっさん呑み屋に潜入.鰹のたたきとモヤシ炒め,衣かつぎに,ビール中瓶と燗酒一合で2300円なり.勤続20年超のおばちゃんは今日もお元気なのでありました. 2017年5月• 5月10日.冷酷無比にして非人道的なマニュアルを解読し,疎行列用サブルーチンの活用に成功する.倒錯的な達成感を得てしまいました.• 5月3日.先日読み終えたアントニオ・タブッキの遺作「イザベルに ある曼荼羅」(和田忠彦訳,河出書房新社)のおはなし.この小説では同じ著者の「レクイエム」に脇役として登場したタデウシュとイザベルが主役を務めていますが,私自身は「レクイエム」のイザベルにまつわる挿話が全く想起できず少々落ち込んでいます.数年前に読んだばかりなのに.記憶力の減退が指数関数的に進行しているのでありましょうか. 2017年4月• 4月24日.某社の疎行列用サブルーチンを利用しようと試みるも,使い方が絶望的に分からない.マニュアルは愛想の欠片もなく冷酷無比なのでありました.• 4月1日.大手町まで出掛けてお久しぶりの西班牙料理.日頃,モナストレルと云う品種で醸されたスペイン産激安葡萄酒を大量摂取しておりますが,これは仏蘭西のムールヴェードルと同一品種なのだそうです.全く知りませんでした. 2017年3月• 3月28日.高熱が収まらず4日ほど寝て過ごす.食事もままならず体重は約4kg減少.所謂インフルエンザという奴でありましょうか.3日間断酒できたのが唯一の収穫なり.• 3月14日.ナノスケール構造においてワイル半金属が示す変態的な振る舞について数ヶ月のあいだ考え続けてきましたが,どうにも解決できず諦めかけておりました.本日なんだか突然ひらめいてしまい,うまく解決できそうな予感に包まれています.少し幸せ. 2017年2月• 2月14日.日曜日になんとなく手にとってしまったフランソワ・モーリヤックの「テレーズ・デスケイルゥ」(杉捷夫訳,新潮文庫)を読み終える.裏表紙の宣伝文句によれば,「情念の世界に生き、孤独と虚無の中で枯れはててゆく女テレーズを、独特の精緻な文体で描き、…」とのこと.この文庫本を入手したのは学部生の頃.学業そちのけで救いのない小説や映画に耽溺していた当時の私は,「枯れはててゆく」テレーズの姿に「孤独と虚無」の深淵を垣間見た(気になった)のであります.• 1月20日.数値計算ではいまだにFORTRAN77を利用しておりますが,このたびFORTRAN77仕様の昭和枯れすすき的計算プログラムを外部のグループに提供することになりました.いくらなんでもFORTRAN77では恥ずかしいと思い,一念発起してFortran 90仕様への書き換えを敢行したのであります.これで昭和枯れすすきともお別れ.• 1月11日.私個人も(なんちゃって)担当者である創発的物性物理研究拠点のセミナーと打ち上げに参加.良い刺激を受けました.• 1月8日.「レ・ミゼラブル(1,2,3,4)」を読了.通俗読み物として大変上質ですが,上部構造にも瞠目せざるを得ません.市民社会の進歩に対する文豪の熱い信念が叩き込まれているのでありました. 2016年12月• 12月24日.「レ・ミゼラブル」(豊島与志雄訳,岩波文庫)を読み始める.小学生の頃に子ども用の超短縮版を読んだことしかないので,実質的には初見となります.コゼットちゃんの挿絵はやはり可愛い. 2016年11月• 11月23日.ひろしま美術館までお散歩.たまたま開催されていた「安野光雅のものがたり絵本展」は素通りするつもりでしたが,絵本平家物語に魅入られてしまい予定が狂う.これを機会に,「忠度都落」や「忠度最期」,「敦盛最期」を読み返したのでありました.• 11月3日.八丁堀まで出掛けて「とうもろこしの島」(監督 ギオルギ・オヴァシュヴィリ)を観る.グルジアの紛争地帯に位置する小さな中州において,素朴にとうもろこしを育てる老人と孫娘のお話.よい映画でしたが,終幕部の筋書きは少し安直ではなかろうか.• 11月1日.ひろしま駅ビルでは,今日まで「広島東洋カープ感動をありがとう!セール」を開催中.ちなみに,ドトールコーヒーは「500円以上ご利用の方にもみじまんじゅう1個プレゼント」だそうです.おちゃめ. 2016年10月• 10月14日.近所の仏料理屋の大将が超格安で調達してくださった,1994年もののボルドーを恭しく摂取.大変激しくお久しぶりの五大なんとかでありました.• 10月8日.久しぶりの鮨屋にて.どう云う訳か米の品種が話題になる.かつて実家の水田では「日本晴」を植えていたが,隣のお客さんの家でもそうだったとのこと.亡母は「倒れにくくて扱いやすい」と評していたが,今となっては確かめようもなし.昨今の米屋では全く見かけないが,どんな風味であったものやら. 2016年9月• 9月25日.約三十年振りに「狭き門」(山内義雄訳,新潮文庫)を読了.懐かしいとしか言いようがありません.• 9月20日.久し振りに薬研掘の小料理屋でちょい呑み.若旦那曰く,カープが優勝を決めた当日(9月10日)の流川は狂乱状態となり,サーバーを担いでビールを噴霧しつつ歩く方まで登場したそうです.• 9月2日.上京のついでに,学生時代にお世話になった無気力サークルの先輩方と品川にて宴会を催す.Eさんは肝機能系の検査結果が全てC評価,かつて痩身であったBさんはマラドーナのように劇的に変貌,そしてHさんは会社で仕事がないそうです.上記3名は0次会と称して17:00からロケットスタート.賃金労働者がなぜ平日の17:00から宴会できるのか摩訶不思議なり.昔から酒の呑み方に関しては絶望的にだらしのない集団でしたが,(自分を含めて)50歳を過ぎても全く進歩がないのでありました. 2016年8月• 8月28日.近所の音大までMarcin Dylla氏のギターリサイタルを聴きに行く.超絶技巧を感じさせない優美にして繊細な響き.私のような素人をも全く飽きさせず集中させてしまう驚異的な演奏でありました.最終曲の演奏中に鳴り響いてしまった携帯電話の呼び出し音がなんとも悔やまれます.• 8月10日.異国雑誌の新規査読案件を一つ片付け解放感に浸っていたら,非新規案件(第二幕)が一度に二つ降ってきました.どうして面倒な仕事はこう見事に重なってしまうのでありましょうか. 2016年7月• 7月28日.近所の居酒屋は8月9日と10日に「全国で一番早いカープ優勝(祈願)セール」を決行するそうです.生ビールと酎ハイが200円!• 6月15日.午前中,久しぶりに激しく深く解析計算に没頭し時間感覚を失う.ふと机の上に放置した板書用ノートを視界の端に認識した瞬間,講義を完全にすっぽかしたことに気付く.今さら出掛けても全く間に合わないことを絶望的に確認し,暗澹たる気分のなかで善後策を模索しはじめた瞬間,講義は明日であったことを思い出す. 計算に没頭して講義をすっぽかしたことはこれまでに三度ありますが,最後にやらかしたのはもう10年以上前の大昔.今日はちょっとひやっとしましたが,まだまだ情念が衰えていないことを自己確認できて少し幸せ.• 6月4日.某鮨屋にて.大将が車海老にマヨネーズを塗布し海苔巻を作成するのを目の当たりにし,少々驚く.伝統を重んじる鮨屋はやりたがらない仕事なものですから.小上がりに子供さんがいたことを思い出し納得しかけていたら,なんと完成した海老マヨ巻は常連と思われる厳つい一人客氏に供されたのでありました.まあ,みんな好きなものを好きなように食べればよい訳ですが,ある意味で勇気があるなあと感心した次第でございます. 2016年5月• 5月22日.先月,プーランクの即興曲「エディット・ピアフを讃えて」を聞くためにピアノ曲集(パスカル・ロジェ)を入手した際,未見の夜想曲「幻の舞踏会」がジュリアン・グリーンに捧げられていることを知りました.日本語解説によれば,『冒頭にグリーンの「幻に生きる人々」の一節が引用されている。 「ワルツやスコットランド舞曲の一音さえ家中から消えた。 そこで病人は祭りに加わり、若き日の良き歳月を粗末な寝床で夢見ることができた」。 』とのこと.このやや不明瞭な翻訳がどうにも気になってしまい,十数年ぶりに「幻を追う人」(福永武彦訳,人文書院)を読み返しました.どうやら否定文を訳し損ねており,一音さえ家中から失われなかった(つまり,病人にも聞こえた)と訳すのが正しいようです.それはさておき,そこに描かれているのは幻に逃避した主人公が夢想するお城の情景であり,そこでは全てが死に憑かれているのでありました.• 5月17日.西条は田植えの季節となりました.私の郷里では6月に入ってからだったと記憶しています.私が幼少のころは手作業で行っていましたが,小学校低学年の頃に田植機が導入されました.初めて田植機を見たときは本当に感動したものです.• 5月2日.学部の講義で,ボルンの確率解釈とシュレーディンガー方程式の変数分離についておしゃべり.連休の谷間であるにもかかわらず,面倒な話をしてしまった罪深い私をお許しください. 2016年4月• 4月19日.学生さんからお下がりのiPadを相手に悪戦苦闘.画面がくるくる回転し始めたときは壊れたと思いました.なんとかインターネットとメイルは使えるようになりましたが,人並みに使いこなすことは永遠に不可能でありましょう.TwitterやLINEは未だに何の事だか分からないし,携帯電話も持っていません.将来が心配である.• 4月10日.ウンベルト・エーコの「プラハの墓地」(橋本勝雄訳,東京創元社)を読了.年の功として身に着けた雑多な知識が読解に役立ちました.大変面白い. 2016年3月• 3月16日.近所の居酒屋で大徳利を二本.しばらく見かけなかったバイトのTちゃんは内モンゴルに里帰りしていたそうで,お土産の蒸留酒を少々味見させてくれました.大陸の刺激的な香りが特徴的で,個人的には気に入りました.関係ありませんが,欧米人と同様に内モンゴル人も血液型には無関心なんだそうです.以前,お客さんから血液型を尋ねられて困ったTちゃんは,思わずC型と答えてしまったのでありました. 2016年2月• 2月1日.擦った揉んだの挙句,院生A氏との共著論文の雑誌掲載が決定する.後はしっかり修論を仕上げてください. 2016年1月• 1月22日.「科学の健全な発展のために」(日本学術振興会)によれば,『一つの研究を複数の小研究に分割して細切れに出版することは「サラミ出版」または「ボローニャ出版」と呼ばれて』いるそうです.サラミもボローニャ・ソーセージも薄く切って食べるからなんだそうですが,業績水増し攻撃なんぞに関連付けられて気の毒でなりません. ボローニャ・ソーセージは正式にはモルタデッラ(mortadella)と称します.確かに薄く切って食べるのが一般的だと思いますが,下町の食堂で賽の目に切ったモルタデッラを豪快に供され仰天した記憶があります.土性骨のすわったSangiovese di Romagnaと良く合うのでありました.• 1月10日.「デイヴィッド・コパフィールド(1,2,3,4)」を読了.古典的な勧善懲悪物語といった風情ですが,それなりに楽しめました.最後の方(第四巻)は終息を急ぎ過ぎか?• 1月9日.移転して再出発した鮨屋に赴く.アンパンマン似の可愛い女将さんは相変わらず働き者なのでありました.• 1月3日.年末から読み始めた「デイヴィッド・コパフィールド(1,2,3,4)」(中野好夫訳,新潮文庫)は,休み中に読み終えることができず. 2015年12月• 12月29日.大変久しぶりにシュトルムの「みずうみ」(高橋義孝訳,新潮文庫)を読む.「みずうみ」といえば「トニオ・クレーゲル」と云う訳で,以下は高橋義孝訳からの引用.ちなみに「湖畔」=「みずうみ」です.念のため. おまえの長く切れた青い陽気な目、金髪のインゲよ。 おまえのように美しく朗らかにしているには、間違っても「湖畔」を読んだり、また自分もそういうものを書いてみようなどと思ったりしてはならないのだ。 それは悲しいことなのだから。 12月9日.行きつけの店に三軒連続して振られ,すごすごと家路につく.師走の居酒屋行脚はちょっとだけ辛い. 2015年11月• 11月20日.甘く危険な五十の手習い論文を先週の水曜日に投稿したところ,二日後の金曜日には速攻でreferee reportが届き驚嘆.月曜日に修正稿を再投稿したところ,本日金曜日に掲載が決定してしまいました.最短記録更新.• 11月11日.二週間ほど相対論的場の量子論を勉強して,ディラック模型の量子異常に関連する論文をでっちあげる.電気出身の私は相対論的なお話にはほとんど触れたことがなく,明らかに無理筋の題材ではありますが,思い切って激しく危ない橋を渡ってみることにしました.五十間近の手習いは通用するのでありましょうか? 2015年10月• 10月25日.老眼症状の悪化に伴い財布に収めた硬貨の判別が困難となりつつあります.そのため,特に酔っている場合,硬貨を用いた細かい支払いを諦め,紙幣のみで対応することが多くなってしまいました.財布が所持金額に釣り合わない異常な重みを呈していたので中身を調べてみたところ,10円玉が13個と100円玉が12個,500円玉が2個見つかりましたとさ.昨晩の長梯子の成果なり.• 10月3日.近所のBarにて,葡萄酒など摂取しつつ変則三重奏団(vn, vc, g)の生演奏を楽しむ.古典は一曲だけで,あとはピアソラのOblivionやモリコーネ親子のNuovo Cinema Paradiso,チャップリンのSmileなどなど.終演後,お隣の人生経験豊富なご婦人方は「vn氏とvc氏のどちらが男前か」と云うどうでもよい問題について熱く論争するのでありました.ちなみに,両氏とも五十凸凹. 2015年9月• 9月28日.近所の仏料理屋で働くMちゃんは底知れぬ将来性を秘めた魅惑の天然娘です.売り切れ仕舞いの常套句,「なくなり次第終了」は店主が亡くなれば閉店と云う意味だと,この胸に信じて生きてきたんだそうです.泣きたくなるようなつらい時も,この調子でがんばってください.• 8月22日.久しぶりに堀川町の小料理屋へ.大将は体を壊してしまって静養中とのこと.そう言えば,銀山町の居酒屋のおやじや流川町の小料理屋の大将は病から復活されましたが,なんだかしんどそうに見えます.みなさん,お大事に.• 8月14日.大変久しぶりに「トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す」(高橋義孝訳,新潮文庫)を読了.博士課程在籍時,周囲から孤立していた私にとって「トニオ・クレーゲル」はちょっとした心の支えでありましたが,いま読んでも身に沁みます.• 8月12日.近所の仏料理屋で宴会.看板娘のMちゃんに彼氏ができたそうです.青春万歳. 2015年7月• 7月20日.二十数年振りに「嘔吐」(人文書院・旧版)を読了. 三連休を費やして純粋な非生理的吐き気について非生産的に思いを巡らす. なんのこっちゃ.• 7月16日.人の命が軽んじられる世の中にしてはならない.• 7月10日.異国雑誌からの断れない査読依頼が集中し,レフェリーレポートの作成で大いに消耗.他人の論文のあらさがしとイギリス語によるその言語化のみ急速に上達している今日この頃でございます.素直な良い子になりたいのに…. 2015年6月• 6月12日.「大いなる遺産(上,下)」(ディケンズ,新潮文庫)を読了.ややっこしいこと抜きで楽しめる正しい古典的小説なのでありました.学生の頃は古臭く単純そうなディケンズの小説にはあまり魅力を感じず,「クリスマス・キャロル」と「二都物語」に触れただけでした.「オリヴァー・ツイスト」は数年前に楽しく読んだので,次は「デイヴィッド・コパフィールド」と言うことになりましょうか. 2015年5月• 5月16日.先週は体調を崩して寝込んだりと散々でしたが,とりあえず 「桜島・日の果て」と「幻化」(梅崎春生,新潮文庫)の再読だけは果たすことが出来ました.この二冊は大学に入学したときに実家から下宿先に携えて行ったものですが,未だに所有しています.どうして高校時代に梅崎春生の小説に興味を持ったのか今では思い出せないが,「桜島」に見出される救いのない挿話(耳のない妓,納屋の老人)や「幻化」の最後の場面に関する記憶は意外にもかなり正確でありました.• 5月6日.横浜ベイスターズの快進撃は(大洋ホエールズ以来の)愛好家としては嬉しい限りですが,正しい広島市民との軋轢を避けるため気を遣わねばならないので少々不自由です.安寧秩序を守るため,カープvs. 横浜の試合がある晩は近所の居酒屋への出没も自粛するのでありました. 2015年4月• 4月7日.通勤途中に「白痴(上,下)」(木村浩訳,新潮文庫)を読了. 「サクリファイス」(監督 タルコフスキー)の主人公はムイシュキン公爵役で名声を得た元俳優と云う設定だったはず. また,「戦場のピアニスト」(監督 ポランスキー)では主人公の弟が小銭稼ぎに道端で本を売る場面があり, そのとき唯一売れたのが白痴だったはず. 大事なことは忘れてしまうのに,瑣末なことは良く覚えている. 2015年3月• 3月20日.新宿にて四畳半下宿の同窓会. 約三十年振りに五十凸凹の同級生7人で盛り上がる. みなさん,意外と健全に生き延びているのでありました.• 3月4日.朝から晩まで会議に会議.五段梯子達成. 2015年2月• 2月27日.4年生の時に通読した「量子力学」(メシア,東京図書)の第21章(第3巻) の冒頭には「Se non e vero, e bene trovato」(アクセント記号省略)なる文章が 掲げられており,日本語で「たとえ本当でなくても,独創は美しい」と添えてあります. 今頃になって調べたところ,「Se non e vero, e bene trovato」ではなく 「Se non e vero, e ben trovato」は多数引っ掛かり, 特に古典からの引用という訳ではないようです. 井村さんから借りた英訳本にも和訳本と同じ文句が記されているので, 仏語の原典においても「Se non e vero, e bene trovato」なのでしょう. 何方か詳しい方,正誤について教えて下さい.• 2月11日.中の棚まで出掛けて「ジミー、野を駆ける伝説」(監督 ケン・ローチ). 深い緑色に覆われたアイルランドの田園風景があまりに美しい. I may lose my child, but Ireland loses much much more. 2015年1月• 1月25日.今月初旬,「月と篝火」と「富士」(武田泰淳,中公文庫)を読み終えた後, 暇つぶしに「長いお別れ」(清水俊二訳)を再読したが,やはりこの感傷的な小説に過剰な愛着を抱くには至りませんでした. 「長いお別れ」と同時期に読んだ「血の収穫」(田中西二郎訳、創元推理文庫)を再び 読み始めましたが,こちらは大変面白いと思う. 今回気付いたのですが,翻訳は新潮文庫の旧版「嵐が丘」と同じ方なのでした.• 1月24日.お久し振りに堀川町の小料理屋.おでん少々,蝦蛄と地鯵にきんきの煮つけ. 煮魚の汁で食す冷麦が美味なり.• 年始.チェーザレ・パヴェーゼの「月と篝火」(河島英昭訳,岩波文庫)を読了. ピエモンテの村を舞台に, ファシズム時代およびその後の厳しい生活や痛ましい出来事が描かれるている. 月と篝火によって照らし出される情景は徹底的に負の様相を帯びているにもかかわらず, 澄みきった文章は詩的で限りなく美しい. 2014年12月• 12月19日.国際会議のExcursionをさぼって鴨川沿いをふらふらした後, 三条京阪近くの宿に帰還する. 宿近傍の年季の入った居酒屋に開店前の待ち行列が出来ているのを発見し, どうにも気になってしまい頃合いを見計らって店内へ単独突入. 馬蹄形のカウンターのみの店内はほぼ満席の大盛況でありました. 名物と思われる強気なおばちゃんにやり込められながら, 鯖きずし,野菜天にお銚子三本を摂取する. 野菜天の破滅的な盛りのよさに驚嘆.• Where's the one from whom ….• 10月25日.近所の仏料理屋の店主がお亡くなりになり,店を畳まれることになったそうです. ご夫婦だけで営む(稀にソムリエおじさんの応援が入る)小さな店でしたが, 何を食しても店主の一所懸命な気持ちが伝わってくる爽やかな良店でありました.• 10月17日.ここ数年,秋田のHさんと仙台の師匠と組んで電荷密度波系の 非平衡ダイナミクスを記述する枠組み(TDGL and Boltzmann equations)の 微視的導出に取り組み,なかなか綺麗な結果を得たと思い込んでいました. が,先月の学会でHさんから致命的な問題点を指摘され,それ以来悲しみの試行錯誤地獄に陥っていました. 今週,Boltzmann equationに想定外(だけど良く考えれば当然)の新奇項が現れることに気付き, 問題が全て氷解しました. なんだか大変美しい形にまとまり,個人的には手ごたえを感じています.• 10月1日.会議を梯子すると思い出してしまうこの一節(「牧羊神」から引用). 恋しいな、 気障な奴等の居ないとこ、 銭やお辞儀の無いとこや、 無駄の議論の無いとこが。 2014年9月• 9月27日.某料理屋で伺ったお話し. お茶目な大将は,カープのベテラン右腕N投手に対して 「お兄さんは随分立派な体をお持ちだが,なにかスポーツでもやりなさるか?」 と尋ねてしまったそうです.• 9月13日.なんとか「魅せられたる魂」を読了しました.なんとも力強い激烈な人生. 翻訳は第二次世界大戦中になされたそうで大変な労作ですが, 現代人には少々読みにくいことは否めません. 2014年8月• 8月30日.品切れになっている「魅せられたる魂」(岩波文庫,改版5冊組)の古書 が入手できたので,のろのろと読み進めています.やっと第三分冊を読了. 「ジャン・クリストフ」と同様,激しく波瀾万丈なのであります.• 8月18日.ウズベキスタン在住の中村勝弘先生よりお便りをいただきました. 相変わらずお元気な様子でなによりです. 大阪市大応用物理学教室在籍時のボスである中村大尊師は, 見ず知らずの私を助手として採用して下さった恩人ですが, 研究者として生き抜くための実践的指針や知恵も授けて下さいました. 例えば, 1 研究主題に対する無垢な信仰と熱情が未来を切り拓く, 2 楽観主義に徹する, 3 非合理的突撃精神も有効な場合が稀にある, 4 変人と見なされた大学教員は大抵何をやっても許される(諦めてもらえる). ちなみに, 4 の精神は忠実に実践しております. 2014年7月• 7月24日.延々とヴィオラ・ダ・ガンバの独奏曲集 「Viola Da Gamba Solo Recital」(Wieland Kuijken)を聴きながら答案の採点に勤しむ. 知らない作曲家の知らない曲ばかりなので購入する時は少し躊躇しましたが,渋い素敵な演奏です. 高校生の頃,バッハのソナタを聴いて以来(ヨハネス・コッホと云う方のレコードだったはず) このくすんだ音色の古楽器に惹かれ続けていますが,無伴奏の音源に接したのはこれがはじめて. 全く関係ありませんが,大学一年の頃,一級上の先輩に連れて行かれた医学部生氏の部屋で チェンバロを目の当たりにし驚嘆したことを思い出しました.• 7月9日.若手著名研究者のご意見を伺うため北海道大学に参上. 学生さんの服装が広島大学とほとんど同じなのでありました.• 7月4日.碩学のご意見を伺うため上智大学に参上. 学生さんの服装が広島大学とかなり異なるのでありました.• 7月2日.国民を危険にさらす恐れが増大するとしか思えない. 2014年6月• 6月7日.類長代理として駅伝大会の開会の挨拶を仰せつかる. 今晩は堀川町か薬研堀の小料理屋に出没し,小鰯か太刀魚なんぞをつつきながら 冷や酒を煽りたい気分です.もう少しで穴子や鱧の季節ですね.• 6月4日.(最近やや陰りが見えるものの)広島カープが好調だったせいでしょうか,近所の呑み屋で 野球中継を注視しつつアルコホールを摂取する常連客のご機嫌が 大変よろしゅうございます.昨年までならあり得ないことなのですが, カープが負けていても余裕に満ち溢れ紳士的なのでございます. この平和がいつまでも続きますように. 2014年5月• 5月28日.「万葉秀歌(上・下)」(岩波新書)を読み始める. 不勉強なもので「我れはもや 安見児 やすみこ 得たり 皆人の…」という歌を初めて知りました. 安見児とは女性(采女)の名前なんだそうですが,「海市」(福永武彦)のヒロインは 安見子だったなあ,なんぞと瑣末なことを思い出すのでありました.• 5月23日.一週間,マタイ受難曲を聴きながら英作文と数値計算データの収集に明け暮れる. 肩こりが極度に悪化.Erbarme dich, mein Gott. 5月6日.「レイテ戦記(上,中,下)」(大岡昇平,中公文庫)を読了. 五月連休の爽やかな陽気には絶望的に不釣り合いな,極めてしんどい書物でありました. 「レイテ島の戦闘の歴史は,健忘症の日米国民に,他人の土地で儲けようとする時,どういう目に遭うか を示している.それだけではなく,どんな害をその土地に及ぼすものであるかも示している. その害が結局自分の身に撥ね返って来ることを示している.」 2014年4月• 4月19日.大変久し振りに堀川町の小料理屋へ.女将曰く,正しい広島市民は ビニール袋のことをナイロン袋と呼ぶのだそうです.全く知りませんでした.• 4月5日.先月逝去された大西巨人氏には活字を通して大変多くのことを 教えて頂きました.長い間観たいと思いながら叶わずにいる映画「小市丹兵衛」 (監督 稲垣浩,1937年公開)もそのひとつです.傘貼り浪人丹兵衛と飲食店の酌婦お園 との味わい深いやり取りが,「神聖喜劇」において効果的に援用されています. ここでは「遼東の豕」(大西巨人,晩聲社)から少々改変して引用. ひそかに丹兵衛を愛して いるお園は,掛け取りを口実にして,よく丹兵衛の長屋を訪れる. そして,たいてい言い合いをする.ある日のこと. 丹兵衛:いつもいつも,金のことばかり言わずに,たまには女らしいことを言ったら,どうだ? お園 :どんなことを言えばいいの? 丹兵衛:そりゃ,まあ,「寒くなりましたねぇ.」とか「月が出てますわねぇ.」とか 「人間は,なぜ死ぬのでしょうかねぇ.」とか,…. 次ぎの場面.長屋近辺の露地.お園はしゃがみ,丹兵衛は立つ.中天に月. お園 :寒くなりましたねぇ. 丹兵衛:あぁ,寒くなったねぇ. お園 :月が出てますわねぇ. 丹兵衛:あぁ,出てるねぇ. お園 :人間は,なぜ死ぬのでしょうかねぇ. 丹兵衛:さぁ?あとが閊(つか)えてるからだろう. 2014年3月• 3月23日. 午前中,ゼーバルトの「アウステルリッツ」(鈴木仁子訳,白水社)を読了.痺れる. 午後は卒業式に出席.今日は燃え尽きるまで呑みます.• 3月3日. お休みをいただき閑散としたひろしま美術館で憩う. 「マイスナー嬢の肖像」を眺めながら,資本主義社会には無益なパズル的命題に沈潜する. 2014年2月• 2月16日. 「侍」(遠藤周作,新潮文庫)を読了.中学生の頃に狐狸庵先生の 随筆やら軽い小説に触れた記憶がありますが,物心ついてからは「海と毒薬」に目を 通したくらいで没交渉でありました.年末に「沈黙」と「白い人・黄色い人」を読み まずまずの感興をそそられたので,「侍」も試してみたと云う訳です.哀切なる冒険譚 としては魅力的なのですが,本筋や人物像がやや簡明に過ぎる印象を受けてしまいました.• 2月8日. ここのところ根性の無いトポロジカル絶縁体の表面状態を記述する理屈 を考えているのですが,今週無理やりでっちあげた手法が本質をついていたようで, 予想外にきれいな結果が得られそうで少し幸せな気分に浸っています. 今年は雑務がきつくなりそうですが,研究もきっちり進めて行きたいと思います. 2014年1月• 1月28日. 就職担当を仰せつかったため,ほぼ毎日企業の方々とお会いして お話しを伺っております.困ったことに,未だに正しい名刺交換の方法が分かりません. 恐らく珍妙な所作を連発しているのではないかと危惧しますが,生温かく見守って下さい.• 1月11日. 「神聖喜劇」全5巻を読了.とんでもなく物凄い小説としか言いようがありません.• 1月6日. 正月休みの間,昼間は「神聖喜劇」(大西巨人,光文社)を繙き, 夕刻以降は飲酒に勤しむ.大著の通読を試みるのは約三十年振りか. 大量に引用されている古の詩歌等の意を解すことができず大変苦労したことを覚えています. なにせ,万葉集の「隼人の名に負ふ夜声いちしろく…」どころか, 西行の「年たけてまたこゆべしと思ひきや…」でさえ知らなかったのですから. 「鈴ヶ森の白井権八」やら「先代萩の政岡」もなんのことやらさっぱり分からなかったはず. 馬齢を重ね,田能村竹田や江馬細香などの読み方くらいは覚えましたが, 読解は相変わらずお粗末の限りなのであります. 2013年12月• 12月14日. 先日のどうでもよい話.薬研堀の某老舗小料理屋の大将は 年季の入った天然として有名です. 大将:今日は焼いて食べると美味しい葱があるんですよ.「下ネタ」葱って云うんです(きっぱり). お客:……. 女将:「下仁田」葱でしょ.もう….• 12月5日. 民主主義の根幹を揺るがしてはならない. 2013年11月• 11月30日. 有楽町にて,四年生の一年間だけお世話になった研究室の同窓会. 実質的な棟梁であったI先生を囲んで楽しいひと時を過ごしました. 一学年上のKさんは切れ味鋭い革命的下ネタ話で場を盛り上げて下さったものですが, 現在は円熟みを増した至芸とでも云うべき下ネタ話を若手社員の士気向上に 有効活用されているそうです.• 11月16日. 地蔵通りまで出掛けて仏料理店の新規開拓. 近所のビストロの大将から勧められていた店で, 店主はホテル時代の後輩なのだそうです. 行こう行こうと思いながらぐずぐずしているうちにタイヤ屋さんの星が付き 行きにくくなってしまったのですが,勇気を出して初潜入とあいなりました. 動物性油脂を過剰使用しない軽快な料理であり,大いに感銘を受けました. タイヤ屋さんの番付も,こと仏料理に関しては納得できる気がします.• 11月11日. 院生A氏との共著論文が掲載可となり少し幸せ. 今回は編集部を通して英文添削をお願いしましたが軽微な修正のみで済み一安心. 2013年10月• 10月15日. 手こずっていた問題が解けてしまったので, 機嫌良く銀山町の怪しい居酒屋に直行. 人気のある店なのですが,なんと客は私一人のみ. 中高年層に大人気の天然Nちゃんがお酌してくれました. 2013年9月• 9月28日. 元院生S氏の披露宴に参加.大変久し振りにネクタイを締めました.• 9月21日. 「ジャン・クリストフ」(岩波文庫)を読了. 圧倒的な不撓不屈の人生.真似はできないしする気もありませんが, 少し背筋を伸ばして研究に励みたいと思うのでありました.• 9月16日. 二日続けて広島市映像文化ライブラリーに通って「晩春」と「麦秋」 (監督 小津安二郎). 観客の平均年齢は恐らく60歳を軽く越えていたと想像しますが, みなさん大変楽しそうに観賞されていました. 麦秋の冒頭,登場人物氏は通勤途中に「チボー家の人々」を読むのでありました.• 9月1日. 「ジャン・クリストフ」(岩波文庫)の第一分冊を読了. 初めて読んだのは博士課程の一年目,将来に対する具体的な不安に押し潰されそうな毎日でした. 思えば遠くへ来たもんだ. 2013年8月• 8月24日. 久し振りに新天地近傍の呑み屋に出掛けたら, 料理担当のSさんが見当たらずすっかり様変わり. 情報収集のためSさんの古巣へ梯子をかけてみました. 板前のO君曰く,3週間前くらいに件の店を辞めてしまった, 目撃情報から広島市内に潜伏している様子,自分探しでもしているのでは,とのこと. 50歳を過ぎて今さら自分探しなんて勘弁して下さい.• 8月13日. 約二十年振りに「死の島」を読了. 主人公たちの年齢を越えてしまったせいか,学生のころと同じようには読めません. AAの「内部」には(敢えて)立ち入らない構成にやや不満を抱いてしまいました. とは言え,やはり好きな小説の一つであることは変わりありません. 「馬鹿な人だ、相馬さん。 8月9日. 「死の島」(福永武彦,新潮文庫)の上巻を読了. 学生のころ福永武彦の小説は偏愛の対象であり,酒を摂取しながらの「草の花」 一気読みは何度企てたか分かりません. 「告別」とか「心の中を流れる河」とか,何度も読み返したものです. そういえば竹橋の近代美術館までベックリンの「死の島」を見にいったこともありました.• 8月5日. 杭州市で開催された国際会議に参加しました. 私の発表はやや的外れではありましたが,数人の若い衆が興味を示してくれた ので良かったことにしましょう. ところで,ホテルのバーで白葡萄酒を注文したら全く通じません. 紙に white wine と書いたらウォッカ(SMIRNOFF)を供してくれました. ジントニックは簡単に通じたのに何故? 2013年7月• 6月1日. 高校生の頃,たまたま聴いた「Still Night」(豊島たづみ)と云う アルバムがなんだか性に合ってしまい,特にB面の最後に収録された 「街に灯,空に星」と云う曲を偏愛しておりました. 「寂しい女が切ない気分に閉ざされた時,馴染みの酒場で仲間と戯れ ひと時の平安に浸る」と云う趣旨の何の変哲もない歌詞でしたが, 当時の私はこの煤けた世界に大いに感動し,立派な大人になったら 気のきいた酒場の常連になり悲劇的な恋に身を捧げようと固く決意したのでありました. 昨年,そのアルバムを入手し時々ターンテーブルに載せています. 高校生の頃の遠大な目標は達成できませんでしたが, やはり素敵な曲であることは変わりありません. 2013年5月• 5月25日. 漱石の後期三部作を二十数年振りに読了. 「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」との言明を初めて目にしたのは 現代国語の教科書だったと記憶している. Kに対する意趣返しとして用いる場面の印象があまりに強烈だったため 未だに忘れることができない. 夕刻より学生時代の友人と宴会. 懐かしい方々の近況に触れ驚くこと頻り.• 5月17日. 近接効果のお話は何をやっても上手く行かず 困っておりましたが,波動関数を繋がないで済ませる方法を思いついたら 簡単に解決してしまいました.すこししあわせ.• 5月5日. 市民映像文化ライブラリーまで出掛けて「処刑の丘」 (1967年,監督 ラリーサ・シェピチコ).知らない監督の聞いたこともない作品を 偶然見てしまったのですが,秀作でありました. ロシア・ソビエト映画特集を組んで下さった担当者氏に感謝いたします. しかし,五月の連休にこのような渋い企画を立てて文句を言われないので ありましょうか?少し心配になりました.• 5月3日. 未見であった漱石の前期三部作を読了. 「三四郎」は伊坂幸太郎の青春小説を格調高くした感じでありました. 「それから」は主人公の心境の変化があまりに急激すぎる. 「門」では参禅が唐突すぎる. 十分面白いのですが,大昔に読んだ後期三部作と比べると やはり小振りに感じてしまいました. 夕刻より近所の魚介伊料理屋で宴会. 現地味とは異なる大人しい味付けが気に入っています. 2013年4月• 4月20日. 「続明暗」(水村美苗,ちくま文庫)をあっという間に読了. 読者を物語に強く引き込もうと云う著者の目論見はきっちり成功しているが, 少々やり過ぎてしまったようにも感じる. とは言え,この「続明暗」がなければ本家「明暗」とは無縁のままだったはずなので, それだけでもこの作物に感謝しなければならないと思う.• 4月10日. トポロジカル絶縁体に対する近接効果を微視的なモデルに基づいて 調べているのですが,波動関数がうまく繋がってくれません. 本命と思っていた読み筋が外れてしまい,お先真っ暗.• 4月6日. これまで縁のなかった「明暗」(新潮文庫)を読了 (正直に白状すると,猫や坊ちゃん,三四郎も未見). 「続明暗」(水村美苗,ちくま文庫)を読むための準備と云う やや不純な動機で取りかかったのですが,病院での闘争の場面などは 大変おもしゅろうございました.• 4月5日. 御初の鮨屋で大火傷.つまみは良いのですが…. 2013年3月• 3月16日. 三越裏の小料理屋でぐずぐず. 大将は歌舞伎座のこけら落としが気になって仕方ないのか, 料理そっちのけで主要な演目を台詞混じりに解説するのでありました.• 3月1日.昨日をもって卒業研究も無事終了.みなさんお疲れさまでした. 2013年2月• 2月24日.鷹野橋まで出掛けて「ニーチェの馬」(監督 タル・ベーラ)を見る. 虚無感のみで構成された灰黒色の映像詩.• 2月23日. 二十数年振りに「苦海浄土」(石牟礼道子,講談社文庫)を読み強い感銘を受けたので, 続けて「天の魚」(石牟礼道子,講談社文庫)を読んでいます. 後者の文庫版は絶版になってしまったようで大変残念です(藤原書店刊の全集なら入手可).• 2月16日. ひろしま美術館までお散歩.「酒場の二人の女」と「青いブラウスの婦人像」 にはお逢いできましたが,ルオーの版画部屋はお休みで少し残念.• 2月9日. 年明けから二度も体調を崩してしまいましたが(二大流行ウイルス完全制覇?), やっと調子が上向いてきたので三越裏の小料理屋に出掛けて少し贅沢. ロールキャベツと野菜がんも,おいしゅうございました. 2013年1月• 1月22日. 戦争と平和を読了.一度は読むに値する清く正しい名作だと思う. が,私としては病的なドストエフスキーの世界により惹かれてしまうのでした.• 12月8日. 近所のビストロに出撃.タイヤ屋さん(おフランス)配下の偵察隊が来訪されたとかで, 大将は上機嫌なのでありました.• 12月1日. 「恰度、休電日ではあったが、朝から花をもって街を歩いている男は、 私のほかに見あたらなかった。 その花は何という名称なのか知らないが、黄色の小瓣の可憐な野趣を帯び、 いかにも夏の花らしかった。 」 老眼鏡のおかげで極小活字に対応できるようになったので,やや古びた書物をいくつかひもといてみました. 引用元の文庫本には昭和五十九年六月十日二十刷と記してあるので教養部生の頃に読んだのでしょう. 感銘を受けた記憶はあるのですが,今となっては浅瀬を辿っただけであったろうと思わざるをえません. 2012年11月• 11月26日. 必要に迫られ,初歩的な計量微分幾何学のお勉強を始める. とても辛い.酒量が増えそう.• 11月19日. 球状トポロジカル絶縁体に関する投稿中の論文が掲載可となりそうで一安心. 「排水溝問題」はarXivに放り込んでみたものの反応は皆無.空振りか?• 11月10日. 幟町にある音大の定期演奏会に出掛ける.牧神の午後への前奏曲, ラヴェルの協奏曲,展覧会の絵など. 演奏を終えた学生さんたちの充実感に満ちた爽やかな表情が印象に残りました. 胡町に移動し爽やかさとは無縁の宴会をしめやかに取り行う.• 11月5日. トポロジカル絶縁体における排水溝問題(と勝手に名付けた渋い問題) が解けたので論文にまとめています. 渋いけど発想は新しいと思うので,みなさんに面白がってもらえることを期待しております. 2012年10月• 10月27日. 近所の店で新蕎麦にありつく.蕎麦屋酒は大好きなのですが,長居できないので 必然的に梯子となってしまうのが難点か.味噌田楽,おいしゅうございました.• 10月16日. 話題となっている「戦後史の正体」(孫崎享,創元社)を読了. 大変分かりやすい有意義な書物だと思います. 名指しで批判されている大新聞は黙殺してしまうのでしょうか?• 10月6日. 流川にある中国家庭料理の人気店で小宴会.いつもは前菜と水餃子, 軽い炒め物などをつまみつつビールを摂取するのですが,少し趣向を変え本場の味と賞賛される麻婆豆腐に 挑戦してみました.大量投入された花椒に舌がしびれ涙目になりながらもなんとか完食. 辛味をさらに強化した麻辣豆腐も大人気とのことですが,私には理解不能です. 日本人に受ける調理法を編みだした陳建民氏の偉大さを思い知りました. 2012年9月• 9月22日. 老眼鏡を買いに出掛ける.やや切ない.• 9月1日. イタリア各地の市内バスおよび路面電車,地下鉄は 切符一枚で一定の時間(75分あるいは90分 乗り放題であり,地下鉄以外はなんどでも乗り換えできます. そのため下車時,不要となったまだ使える切符を貧しそうな方々に 譲るという習慣が成立しているようです. カターニャの街中で空港行きのバスを待っていたところ, 降りてきた気のよさそうな婆様から切符の施しを受けそうになってしまいました. ちなみに,これで2回目.そんなに貧相に見えるのでしょうか? 2012年8月• 8月25日. 先日「悪魔のトリル」が収録されているCDを発見し,懐かしさのあまり衝動買いしてしまう. 約20年前,バロックサロンxxxと云う流行らない店でよく流れていました. 店主のKさんは酔うと同じ話を繰り返す癖があり,偏愛するリパッティのレコードをかけては ブザンソンでの最後のリサイタルについて語るのでありました. 植木屋になると言って出奔してしまいましたが,どこにおられるのやら.• 8月6日. きょうは原爆の日.昨今,原子力発電所の立地と活断層等に関する情報が しばしば報道されるようになりました. かつて地盤の脆弱性やボーリングデータの捏造を指摘した科学者の意見が なぜ一顧だにされなかったかを検証する必要がありましょう.• 7月28日.久し振りに堀川町の小料理屋. 夏ばてのせいか目方も酒量も減少傾向にあり, ついつい日本酒を避けて麦酒へと逃避してしまう. お勧めの鰻は食す気になれず,鮎の塩焼きでお茶を濁す.• 7月27日.出勤の電車内において,失われた時を見出すシーン (第十二巻,ゲルマント邸で敷石につまずきヴェネツィアを想起するくだり)に到達.• 7月13日.今週はI. K氏らとの共著論文(都合4編)を投稿したり,再投稿したり, 煮たり焼いたり炙ったり. I. 7月1日.近所の教会までオルガンを聴きに行く.初めて聴いた フランクの「前奏曲,フーガと変奏曲」に感銘を受ける. 2012年6月• 6月30日.流川の飲み屋に出掛けて前回の泥酔を謝す.• 6月16日.五月の連休明けから「失われた時を求めて」(集英社文庫,鈴木道彦訳)を 読み続けていますが,一週間に一冊の調子でやっと「第四篇ソドムとゴモラ」まで辿り着き ました.全十三巻のうち第一巻(四刷)と第二巻(二刷)以外は全て初刷だったので落伍せず 最後まで読み通せるか少し不安になりましたが,そのような心配は無用のおもしろさです.• 6月14日.蕁麻疹に罹る.過労とストレスのせいだと主張したところ,家人の失笑を買う. 2012年5月• 5月30日.巨匠逝く.• 5月24日.約半年の間,折れ曲がったトポロジカル絶縁体表面における散乱問題 を考え続けてきましたが,いくら試行錯誤しても解決の糸口さえ見つからずもう諦めようかと 思いはじめたところで,やっとひらめきました.この瞬間の心地よさは格別.• 5月6日.「細雪(上,中,下)」(新潮文庫)を読了.娯楽読物としても圧倒的に 優れていることが良く分かりました.今年も非生産的な五月連休.• 5月3日.東区民文化センター・小ホールにてブラームスのクラリネットソナタを二曲. 2012年4月• 4月13日.久し振りに西条界隈をうろうろしていたら,某電機会社の技術者S氏と鉢合わせ. お供して二軒はしごと相成りました.実は先週,流川のカウンターで遭遇したばかり.• 4月8日.鷹野橋まで出掛けて「旅芸人の記録」(監督 テオ・アンゲロプロス). 教養部生だったころ,独文専攻のSさんから「あれは良い映画だ…,観ておけ・・・.」 と勧められたことを思い出す. 2012年3月• 3月16日.研究の不調を嘆きつつ銀山町の居酒屋でぐずぐず. 焼き場担当のKさんが定年退職とあいなり,金土だけ助っ人に入ることになったそうです. 個人経営の居酒屋さんにも定年退職という制度があるのですね…. 2012年2月• 2月28日.昨日は卒業論文発表会.皆さんお疲れさまでした. ところで4月上旬鷹野橋にて「旅芸人の記録」(監督 テオ・アンゲロプロス)が 追悼上映されるそうです.情報を提供してくださったFさんに感謝いたします.• 2月12日.広島市映像文化ライブラリーまで出掛けて「こうのとり、たちずさんで」 (監督: テオ・アンゲロプロス).やはり,河を挟んでの婚礼シーンには震えてしまう. 静謐にして神秘的なまでに美しい映像.静謐な美しさと言えば,約二十年前に見たきりの 「ざくろの色」と「スラム砦の伝説」(監督 セルゲイ・パラジャーノフ)が忘れられない. 但し,こちらは極彩色.• 2月5日.文治が復活するそうですね.三枝師匠が文枝を継がれることは聞いて おりましたが,東京の襲名話は知りませんでした.松鶴と圓生,志ん生はどうなるのでしょうか? ちなみに私が好きな噺家さんは五街道雲助師匠と春風亭小柳枝師匠です. 2012年1月• 1月29日.未読であった「ゴリオ爺さん」(平岡篤頼訳,新潮文庫)を読了. 大変おもしゅろうございました.• 1月25日.ギリシャより老巨匠の訃報.合掌.• 12月年末.夏休みに読んだアンナ・カレーニナが意外に面白かったので, 冬休みは「復活(上,下)」(木村浩訳,新潮文庫)を読むことにする. これも約二十年振り.• 12月28日.英作文がはかどらずイライラしていたら,威勢の良いノックの音. 誰かと思ったらOBのG氏でありました.おつれあいと一緒に旅行中とのこと. お元気そうでなによりです.• 12月23日.ひろしま美術館までお散歩.「酒場の二人の女」と「青いブラウスの婦人像」 に憑かれているのですが,前者は休養中とのこと.残念.• 12月5日.海外逃亡中のI. 氏(くるりんこ論文の売り込み工作に従事)より 営業活動報告が届く.第三くるりんこ論文の評判がよろしいとのこと.• 11月5日.幟町の音大でブラームスのヴァイオリン・ソナタを三曲. 2011年10月• 10月10日.鷹野橋で「バビロンの陽光」(監督 モハメド・アルダラジー) を観た後,銀山町にて一人宴会.いつもの場所が埋まっていたので慣れない席に座ったら, いつもと少し違う新鮮な気分を味わえました.• 9月11日.トンブリーの地元民御用達飯屋でビアチャン飲みながら ヤムウンセンとグリーンカレー. 外人割引なしの容赦ない辛さに痛めつけられても,やめられない止まらない.• 9月6日.I. 8月27日.アンナ・カレーニナが思っていた以上に面白い.学生の頃は,ドストエフスキー は面白いけどトルストイはつまらないと思っていたのですが・・・.すっかりメロドラマ好きに なってしまいました.• 8月20日.北京ではビールばかりだったので,日本酒が美味くてたまりません. なんとなく「アンナ・カレーニナ(上,中,下)」(木村浩訳,新潮文庫)を読み始める. 二十数年振り.• 8月17日.低温物理国際会議の閉幕と同時に北京より帰国.主としてトポロジカル絶縁体 に注目しておりましたが,中国系研究者の活躍が目立ちました.我々も頑張らな ければとは思うが,もう手遅れか?I. 氏に連れて行かれた驢馬肉食堂に感激! 2011年7月• 7月17日.中区の教会で開催されたアマチュア合唱団(宗教曲専門)の定演に潜入. 主たる曲目はペルゴレージのスターバト・マーテルとヴィクトリアのレクイエムで, アンコールではモーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプスを歌ってくれました. 伴奏はオルガンだけ.弦の絡まないスターバト・マーテルはやや質素なれど, やはり生演奏は格別です.• 7月2日.「長いお別れ」(清水俊二訳,ハヤカワ・ミステリ文庫)を読了. 他人が言うほどの大傑作なのであろうか? バーにでかけてギムレットを注文する気にはなりませんでした(そもそもカクテルは苦手). 2011年6月• 6月16日.くるりんこ論文に対する返答がやっと届く. 3人のレフェリーがみな好意的なコメントで拍子抜けしました. 今週末は気持ちよく梯子できそうです. 2011年5月• 5月21日.久し振りに堀川町の小料理屋.出席率が悪いと叱られる. 鱧やら団扇海老,蛸の子などつまみつつ冷や酒. お隣のカナダ人兄さんはカマの照り焼きに大興奮.• 5月1日.昨秋,「或る女」(新潮文庫)を初めて読んだのですが,本質的内容は全く 古びておらず大変激しく感銘を受けました. 当時の作物をもう一丁と云うことで「暗夜行路」(新潮文庫). 「或る女」ほどではありませんが十分楽しめました. 本筋とは関係ありませんが,昔の作家はとんでもなく教養があり且つお金持ちだったんだなあ と妙に感心してしまいました. 2011年4月• 4月23日.放射線による晩発性障害に関する情報周知が不足しているように 思えてならない.• 4月16日.「ショパン 炎のバラード」(ロベルト・コトロネーオ 集英社)の再読完了. 初回は訳文と調子があわず難儀しましたが,二回目は律動的に読み通すことができました. 現実的な問題として,ミケランジェリはバラード第4番の録音を残しているのでしょうか?• 4月9日.横川のとある店で呑んでいたら,見覚えある筆使いの素描が飾られている ことに気付く.店主に伺ったところ,やはりKさん(以前某所のカウンターでよくお見かけ した方)が描いたものとのこと.お懐かしゅうございます.• 4月2日.「フラナリー・オコナー全短篇(上,下)」(ちくま文庫)を読んだら 神経がささくれだってしまいましたとさ.教条的な善意によって形成される陰惨な世界. リハビリテーションとして「オリバー・ツイスト(上,下)」(新潮文庫)を読み始める. よい子の読書感想文に好適と思われる素朴なお話し. 2011年3月• 3月8日.それでも「2D くるりんこ model」に基づく解析は有意義との結論に至る. I. 氏とT. 氏が論文(arXiv:1103. 1430)にまとめてくれました.• 3月1日.「2D くるりんこ model」は本質を突きまくっていたのですが,類似した モデルが Phys. Rev. B に報告されておりました.残念無念. 2011年2月• 2月23日.I. 氏に唆されて 3D topological insulator 中に現れる helical mode に 足を突っ込む.有効モデルとして「2D ぺったりんこ model」を提案するも, gap が開かず大失敗.懲りずに再提案した「2D くるりんこ model」は本質を突いている と思うのですが….• 2月13日.遅ればせながら「逝きし世の面影」(渡辺京二,平凡社)を読了. 大変有意義でありました.おかげで,古典落語等の不可解な筋書きに対する違和感を 少し解消できたような気がします.• 2月11日.本通りまで出掛けて「白いリボン」(監督 ミヒャエル・ハネケ). 美しい白黒の映像で語られる陰惨な出来事の連鎖. 跳び込みで潜り込んだお初の伊料理屋で大火傷. 2011年1月• 1月21日.近似の問題が解決したので論文執筆を再開.I. 先生の英作文教室でしごかれる.• 1月9日.「魔の山」を読了.初めて読んだのは学部3年生の夏休み(だったと思う). セテムブリーニとナフタの問答に難儀したことを覚えています. 今回はと云うと,やはり理解困難な点が多々あり学芸的精神的な力不足を痛感しました. 「人生の厄介息子」のまま馬齢を重ねてしまったと云うことか. でも面白かったから,これでいいのだ.• 1月6日.グラフェンを介したジョセフソン効果に関する渋い論文を書いていたら, 用いた近似の精度が気になりだして途中下車.悩ましい. 2010年12月• Pichon Longueville Baron 1999 は大変よろしゅうございました.• 12月13日.院生S氏の論文原稿がほぼ仕上がる.少し安心.さっさと投稿して下さいね.• 12月11日.久し振りに堀川町の小料理屋.女将の漫談を遮り損ねついつい長居. 2010年11月• 11月27日. 日向ぼっこしながら,手元にあった「海と毒薬」(遠藤周作,講談社文庫) を読む.老眼には厳しい極小活字に対応するため,眼鏡外し作戦を敢行.眼鏡無しで (薄いとは言え)一冊の本を読み通したのは約30年振りか….• 11月25日. 筑波大のK先生にお越しいただき集中講義.どうも有り難うございました.• 10月25日. Eilenberger方程式を解いてJosephson電流を求める計算練習. 数因子が合わずいらいら.• 10月3日. 若くして逝った友人Tの命日.もう18年. 2010年9月• 9月17日. タシケントで出稼ぎしているN大尊師より近況報告が届く. 9月に帰国予定だったが,ウズベキスタン大学物理学科で更にひと儲けすることになったので, 2年間延長して営業するとのこと.お元気そうでなによりです.• 9月16日. 約8ヵ月分ため込んでしまった未読雑誌(J. Phys. Soc. Jpn. , Phys. Rev. Lett. , Phys. Rev. B, Europhys. Lett. , Physica E)にざっと目を通す. 専門分野以外は素通りしたにもかかわらず,3日もかかってしまう.Phys. Rev. B の 分量は異常ではなかろうか?• 8月21日. 久し振りに研究成果が得られたので,新天地の居酒屋で気持ちよく憩う. 店の名物大オヤジに捕まるも,即解放され一安心.改装した別の店が忙しいんだとか….• 8月8日. 「怒りの子」(高橋たか子,講談社)を読了し,高橋たか子さんの小説をほぼ 制覇.結局,最も惹かれるのは初期の作品と云う結論にたどり着きました. 私にとっては「骨の城」が白眉. 2010年7月• 6月中旬. なんだかんだと忙しく道楽に走る余裕もない毎日.通勤途中に読んだ「ユルスナールの靴」(須賀敦子,白水Uブックス)に感銘を受ける.暇ができたら「ハドリアヌス帝の回想」を読みたい. 2010年5月• 5月連休. 苦労して手に入れた「天路の奈落」(大西巨人,講談社)を読了. 気合いを注入されました.どの古書店でも高値(>5K円)が付けられており 手を出しあぐねておりましたが,何故か1200円という破格値で入手に成功. 嬉しゅうございました. 2010年4月• 4月22日. 柄にもなく忙しい毎日. 2010年3月• 3月29日. 井村さんと院生S氏の居室は今日も薄暗く寒々としておりました.蛍光灯と大型暖房機器がお嫌いなんだそうです.「中原よ。 地球は冬で寒くて暗い。 さやうなら。 3月6日. 「太陽を曳く馬 上,下 」(高村薫,新潮社)を読了後,鷹野橋に出掛けて「カティンの森」(監督 アンジェイ・ワイダ)を観る.なんとも重たい一日.その後,流川で大爆発.• 3月1日. 井村さんが着任されました.美しい仕事を期待しております. 2010年2月• 2月16日. 修論発表会も今日でおしまい.M2のみなさん,お疲れさまでした.• 2月12日. 論文一編をe-print arXivに放り込む.二段組みにすると何故か激しく型崩れするので,仕方なく一段組みで投稿.我が計算機音痴は不治の病か.• 1月16日. 休日出勤で消耗後,八本松の激安伊料理屋で大食.またもや猪と鹿.• 1月10日. 京橋町の南仏料理屋で猪と鹿.手頃なボルドー産赤葡萄酒がそこそこ旨い.• 1月8日. 地味な発想は空振りに終わる.少し不幸せ.• 1月年始. 「悪霊」を読了.少し満足.年末に思いついた地味な発想が上手くまとまりそうな予感を得る.少し幸せ. 2009年12月• 12月年末. 伊料理屋と鮨屋にお世話になり,今年の放蕩もおしまい.伊料理人I氏は所帯を持たれるとのこと.おめでとうございます.鷹野橋で「隣の女」(監督 フランソワ・トリュフォー)を観たり,「悪霊 上,下 」(江川卓訳,新潮文庫)を読んだり….どちらも大変お久し振り.• 12月17日. 卒研生T君の異常と思われる計算結果に困惑しておりましたが,それが正当であることにやっと気付く.T君,ごめんなさい.• 12月12日. 流川で摘まんだ帰り道,お初の蕎麦屋に紛れ込む.随分とお久し振りの蕎麦屋酒. 2009年11月• 11月28日. オバケのQ太郎(藤子・F・不二雄大全集,小学館)でほのぼの気分.「小池さん」が結婚していたことを初めて知りました.研究不調.• 11月7日. 「1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産」(小熊英二,新曜社)を200頁ほど読んでから,街へお出掛け.駅前の本屋で「霧のむこうに住みたい」(須賀敦子,河出書房新社)を入手したのち,堀川町の小料理屋でぐずぐず. 2009年10月• 10月7日. 怪しいアイディアに基づいた計算が,あり得ないくらい上手くまとまってしまい大感激.さっさと論文書きます.• 9月19日. バンコクから帰国.街は少しずつ変わっています.気付いた変化は以下の通り. 1 クロスタービールが消滅. 2 トンブリー側の運河乗合ボートが消滅. 3 インド人街にビル(India Emporium)が建ち雰囲気激変.• 9月5日. 街まで出かけて江戸前鮨.つまみで頂いたノドグロが秀逸. 2009年8月• 8月27日. 秋田まで出かけてお勉強会.当方が準古典Keldysh法を用いて導出した方程式系について,みっちりと議論していただきました.お久し振りの共同研究と云う訳で,新鮮な気分.• 8月25日. 院試終了.お疲れさまでした. 2009年7月• 7月26日. 「ブロデックの報告書」(フィリップ・クローデル,みすず書房)を読了.読んでいると息苦しくなるが,放り出すこともできない.陰鬱な力作.• 7月13日. 失くしたと思っていたバスカードを洗濯機の中から救出.約二週間ほどお隠れになっていた勘定になります.おいたわしや.無理とは思いつつ通勤時に試用したところ,利用可と判明.磁気記録万歳!• 7月5日. 夜半,ふとAntalya(トルコ)なる街の位置が気になり地図を開くも,極小の活字が見にくく判然とせず.試みに眼鏡をはずし裸眼を至近距離に近づけたたところ,よく見えるのなんの.老眼症状が出始めたことにうすうす感づいてはおりましたが,ここまで立派に進行していたとは. 2009年6月• 6月21日. 学生時代のお話.私が属していたサークルには宴会などで社会科学に関して難解な議論をかわされる年長者が数人おられ,素直な私は憧憬の念をもってその言説に接していました.一方,私が敬愛していたKさんは彼らのことをやや批判的に捉えておられるようでしたが,その理由は分かりませんでした.長じて,彼らの言説は啓蒙書等の受け売りにすぎなかったことに気付き愕然としたことを覚えています. 最近,ある知人のブログを拝見した際,そんな昔の事を思い出してしまいました.学生さんの背伸びは可愛げがあって悪くはないと思うのですが….• 6月1日. 若林さんがご栄転となり,新しい職場へと旅立たれました.健闘を期待しております. 2009年5月• 5月13日. 着任の際、伊澤さんに買ってもらった計算機(Windows2000)を延々と使ってきましたが,そろそろ限界と云うことで新調しました.絶望的に計算機音痴な私にとって,移行作業は苦痛以外のなにものでもありません.• 4月24日. 仕事帰り,自宅近傍の居酒屋に出没するも,うら若き娘さん達に囲まれ居場所なし.お久し振りのバーに移動したら,今度はおっさんばかり.口臭・加齢臭よけの薬について教えて頂きました.• 4月19日. 街で大酒呑んだ翌日と云う訳で,おとなしく「ディビザデロ通り」(マイケル・オンダーチェ,新潮社)を読んで過ごす.この人の小説は「イギリス人の患者」以来なので約十年ぶり.不発!寡黙な美しさを評価すべきなのでしょうが,小説家は語るのが商売ではないのか?• 4月9日. 久し振りの講義で少々疲れました.横浜は順調に黒星を積み重ねていますが,鯨時代からの愛好者にとってはなんてことありません.長きにわたり諦観を積み重ねておりますから. 2009年3月• 3月20日. 鷹野橋にて「かくも長き不在」(監督 アンリ・コルピ)を見る.渋いの一言.流川の伊料理屋から銀山町の居酒屋へと二段梯子.• 3月7日. 横川まで出掛けて「シリアの花嫁」(監督 エラン・リクリス)を見る.上映二日目だと言うのに観客は十名未満.感動的な点も多々あれど,政治的バイアスが気になりました.シリア側の視点に立ったとき見えてくるであろう風景とは? 2009年2月• 2月20日. ここ数日,図書館の書庫にこもって60-70年代ロシアの文献を渉猟.院生の頃やや遠きものに思ひし Soviet Physics JETP と,薄暗がりで戯れる不健康な毎日でございます.• 2月15日. 市内堀川町の小料理屋に出没.Mちゃん(7歳)がおしぼりを出してくれました.お手伝いしたい年頃なんだそうです.生蝦蛄旨し.• 2月8日. 井上慶太八段(45歳)がA級順位戦への昇級を決められたと知り,感動する.少し年の若い私は,もっと激しく精進せねばならないと強く思うのでありました. 2009年1月• 1月29日. 読了.恐ろしいほどの射程の長さに改めて感じ入りました.• 1月25日. 中巻を読了し,下巻に突入.前日,流川に出撃しなければ読み終わっていたはずなのに・・・.• 1月23日. 数十年振りに「カラマーゾフの兄弟 上,中,下 」(原卓也訳,新潮文庫)を読み始める.四日かけて「大審問官」まで到達.初めて読んだのは教養部にいた頃で,まだ十代だったはず.年代もの(上巻は1984年9月30日発行の十四刷)であるため活字が小さく,老眼症状の出始めた現在の私にはやや辛い.• 1月14日. 昨年度修士課程を修了されたF氏がご来学.当然の事ながら宴会と相成り,午前様.• 1月3日. 流川の魔窟にてブレスのシャポンを摂取.激しく美味しゅうございました.• 1月年始. 「新リア王 上,下 」(高村薫,新潮社)に引き込まれる.仏教用語連発には苦しみましたが,重厚にして粘着的な精神的対話を堪能.《愁いの王》なんぞと云うお懐かしい言葉に触発され,「死霊」の六章を読み返してしまいましたとさ. 2008年12月• 12月27日. 本通まで出掛けて「この自由な世界で」(監督 ケン・ローチ)を見る.ケン・ローチらしい映画ではあるが,やや出来が悪いように感じた.もう一度「ケス」が見たい.京橋のビストロで葡萄酒を摂取して帰宅.• 12月26日. 今日はM1の中間発表会.みなさん,お疲れ様でした.• 12月14日. これまた遅ればせながら,「本格小説 上,下 」(水村美苗,新潮文庫)を読了.展開される恋愛模様には少々違和感を覚えましたが,大変おもしゅろうございました.• 12月7日. 遅ればせながら,「ミラノ 霧の風景」(須賀敦子,白水Uブックス)を読む.「インド夜想曲」などの翻訳を通して著者の文章に触れたことはあるが,随筆は初めて.過度の感傷に浸ることなく端正な文章で綴られた,過ぎ去りし日々への追憶.• 12月1日. 健康診断結果を受け取る.身長が 1. 7 cm 増大し,矯正視力は 0. 6, 0. 6 から 1. 2, 1. 0 に向上.測定精度に問題があるような・・・. 2008年11月• 11月22日. 街まで出掛けて久し振りの江戸前鮨.驚異的に脂の乗った穴子と太刀魚に感涙.細魚もご立派.帰りに立ち寄った京橋町の南仏料理屋は大繁盛のご様子.より一層の業績向上を祈念しております.• 11月8日. 三越裏の小料理屋を覗くも敢え無く敗退.これから暫くの間,飛び込みでの席確保は困難か・・・.方針変更して流川の伊料理屋へ. 2008年10月• 10月22日. 久方ぶりに Tomonaga-Luttinger model で玩具遊びをしようと思い立ち,昔のノートに目を通しております.自分で書いたメモが理解できず,ややへこむ.• 10月11日. 西条の街は酒祭りでにぎやかです.窓を締め切り,論文草稿に朱を入れたり,「アルトナの幽閉者」(人文書院)を読んだり.体に悪い.• 9月23日. 涙の「新幹線乗り継ぎ攻撃」で学会出張先(盛岡)より帰還.連夜の親睦活動(注:情報収集活動を兼ねております)により体重微増.• 9月9日. 機中にて「チーム・バチスタの栄光 上,下 」(海堂尊,宝島社文庫)を一気読み.大変読みやすいが,ただそれだけ.読みやすさを優先するあまり,内面描写を放棄しているように感じる. 2008年8月• 8月26日. T氏(八木Gr. )の実験が順調とのこと.私自身も少々絡んだ話なので,とても嬉しい.良い結果を期待しております.• 8月23日. 某鮨屋にて瀬戸内の鯖(初物)をいただく.まだ脂の乗りは浅いが,なかなか立派でありました.築地では三陸産が相当量出回っているそうです.まだ8月だと言うのに・・・.季節感が崩れて行く.• 8月1日. 京都にて超伝導の研究会.勉強になりました. 2008年7月• 7月26日. 猛暑の市民球場にて野球観戦.熱血カープおばさんのドツキに耐えながら横浜を応援したのに・・・.研究も不調.• 7月13日. 三越裏の小料理屋で宴会.独りじゃ寂しいわね・・・,と女将に慰められてしまう.• 7月3日. 研究科の七夕飾りに短冊つけて,神様にお願い.ベイスターズが100敗しませんように. 2008年6月• 6月11日. 外部資金を当てまくり景気の良い WK 氏は海外逃亡中.不景気な私は,孤影蕭然として今も尚ほ「らるきん-おぶちにこふ」を読む. 2008年5月• 5月17日. オリエンテーション・キャンプに駆り出され,新入生と一時間半ほどおしゃべり.青春真っ只中!• 5月3日. やや無気力に「黄色い雨」(フリオ・リャマサーレス,ソニーマガジンズ)を読みはじめるも,止まらなくなり即日読了.絶望を通り越した孤独の極致. 2008年4月• 4月23日. Usadel 方程式と和解成立.数値解の挙動がなんとも怪しいので計算間違いを犯していると思い込んでいましたが,ただの勘違いだったようです.空しい.• 4月6日. 二日かけて「中村屋のボース」(中島岳志,白水社)を読了.客死した革命家に対する著者の思い入れが胸に染みます.• 4月2日. Usadel 方程式と格闘中.どうにもこうにも上手く解けず,泣きが入っております.誰か助けて! 2008年3月• 3月24日. 学会出張で大阪へ.下宿の同期と二十年ぶりに再会し,大いに呑む.大変楽しゅうございました.企画を立ててくれた花栗( 理研)に感謝.• 2月24日. 「狼たちの月」(フリオ・リャマサーレス,ヴィレッジブックス)を読了.テオ・アンゲロプロスの映画のような,磨りガラス越しの詩的空間.• 2月14日. 今日は修論発表会.皆さん,お疲れ様でした.• 2月2日. 街まで出掛けて大宴会.ついでに,グルダの最後の録音 即興曲と楽興の時+ゴロヴィンの森の物語 を入手.日本語解説曰く,「涙なしには聴けない名演」.やや感傷に過ぎるとは思うが,気持ちは分かる.もっと早く聴くべきであった. 2008年1月• 1月7日. 論文を投稿.さて,次は何に手を付けたらよいのやら.関係ないけど,先日,市内京橋町のビストロに初潜入.伊食堂@八本松の南仏版といった風情でなかなか宜しゅうございました.• 1月年始. 机上熟成させてしまった,「つみびと」(ジュリアン・グリーン,人文書院)と「ガラスの家」(プラムディヤ・アナンタ・トゥール,めこん)を読んでおしまい. 2007年12月• 12月年末. Y鮨でつまんで遊び納め.「土星の環」(W・G・ゼーバルト,白水社)をめくりつつ,西条にて越冬.• 12月17日. 中村勝弘大尊師(大阪市大)御退職お祝いの儀が,来年3月10日に挙行されます.こんな所に書いても無意味とは思いますが,行方知れずのOB・OGに関する情報をお待ちしております.• 11月26日. コンダクタンス揺らぎを無理やり数値計算.古典モンテカルロ法に四苦八苦.• 11月17日. 八本松の伊食堂で小宴会.トリッパの煮込みとポレンタ(+ゴルゴンゾーラ),マルゲリータで悦楽.調子に乗り,西条岡町にてウイスキーを過剰摂取.• 11月9日. 完全透過チャネルを持つ量子細線に関する研究の一環として,コンダクタンス揺らぎの計算に着手.DMPK方程式の厳密解が与えられているのだから楽勝と思っていたが,実際は近似計算すら上手く行かない.なんたる不条理! 2007年10月• 10月13日. 広島駅前の本屋にて,「ガラスの家」(プラムディヤ・アナンタ・トゥール,めこん)を発見し,びっくり.即購入.ついに出版されましたか!パルコのレコード屋では,Rolf Kuhn(cl)のSolarius(ピアノは勿論Joachim Kuhn)を発見し,びっくり.即購入.ついに再発されましたか!良い気分で,移転したY鮨へ.• 10月9日. レフェリーやったり, 当たらない 科研費の申請書を書いたり,なんだか落ち着かない学期始め.• 10月6日. 休業していた市内幟町の伊料理店が店を畳んだとの噂を聞く.愛好していた店なので,極めて残念.六月下旬,店主にお会いしたときには,「・・・近々店を閉める,・・・一回り小さくして再開予定,・・・その時は連絡する」と仰っていたので,今後に期待しております. 2007年9月• 9月10日. 先月中に作文した本論文をやっと投稿.細かいミスが次々と見つかり,仕上げに手間取りました.夏休み中にやっつけることができて,一安心.• 9月8日. 流川の鮨S(随分と久し振り)でつまんでから,葡萄酒呑みに流れる.八月におふらんすへ行かれたソムリエ氏によると,今年の出来は最悪なのだそうです.業者の方々は,ボジョレ(の早飲み)をどう売り込むのでしょうか? 2007年8月• 8月19日. Richard GALLIANO accordion の新譜(愛の賛歌が入っているやつ)を入手したのですが,なんだか面白くありません.Gary BURTON vib とは合わないということなのでしょうか?• 8月15日. 流石に学校は静かです.Suspended Night(Tomasz Stanko Quartet, ECM)等を聴きながら英作文. 2007年7月• 7月28日. 広島市内で鮨.Y 鮨は相変わらず突き抜けた旨さでありました.今回の一押しは,連子鯛と夜鳴き.渋い!近々,もう少し便利な場所に移転されるとのこと.• 7月27日. 超幾何関数とガンマ関数,およびそれらの親類と戯れること四ヶ月.やっと計算から開放されました.積分表示やら解析接続のことは,暫く考えたくない気分.• 6月30日. 愛好している広島市内某西欧料理店にて夕飯.ハトのローストが激しく美味でありました.店主より「近々店を閉める」と告げられ動揺する.• 6月17日. 「テロリストのパラソル」(藤原伊織,講談社文庫)を読了.展開は巧みであり良く計算されているとは思うが,「テロリスト」の描写が安直すぎるのでは? 2007年5月• 5月27日. 「砂漠」(伊坂幸太郎,実業之日本社)を読了.ちょいと軽いが,娯楽青春小説としては楽しめました.仙台市内にある「国立大学」の旧教養部が「川内砂漠」と呼ばれていたことを想起し,何らかの関連性を想像しましたが,全くの見当違いでした.「神聖喜劇」ネタはやや場違いか?• 5月2日. たった三つの格子点上で定義された,相互作用する粒子数非保存なボゾン系の基底エネルギーが求められずに四苦八苦しておりましたが,超幾何関数とその積分表示の知識を用いてなんとか解決.昔々にお勉強した超幾何関数が役に立つとは思いませんでした. 2007年4月• 4月28日. 市民球場にて対阪神戦.フェルナンデスのナックルボールに感銘を受ける.恐ろしくゆるい球なのに,何故打たれないのであろうか?ちなみに,直球も驚異的に遅い. 2007年3月• 3月31日. 某氏ご推奨,J. Kuhn p , J. Humair d の Live in Europe Vol. 1 を聴き,激しく感動する.• 3月9日. アルコールを大量摂取し,担がれて退場.院生S氏に感謝. 2007年2月• 2月22日. 院生S氏の公聴会終了.大変優れた発表でした.お疲れ様.• 2月10日. 広島市内で宴会.天満屋裏の小料理屋に侵入を試みるも,満席のためあえなく敗退.昨年末から数えて三連敗!方針変更して,怪しい居酒屋(銀山町)のお世話になる.相変わらず安くて美味しい.• 2月3日. 長い間探していた「つみびと」(ジュリアン・グリーン,人文書院)を,ネット上の古書店にて遂に入手.万歳! 2007年1月• 1月24日. 院生S氏の予備審査終了.お疲れ様でした,と云う訳で岡町へ出撃.• 1月年始. 「単一民族神話の起源」(小熊英二,新曜社)を読了.「民主と愛国」同様,物語としても楽しめるすぐれもの.勉強になりました.これが修士論文とは驚き!年末年始は,うだうだと酒(竹鶴・小笹屋・宿根雄町,山形正宗・雄町・純吟,・・・)を呑み,本読んでおしまい.唯一の外出は鷹野橋.「麦の穂を揺らす風」(監督 ケン・ローチ)を観ました.この監督の作品を拝見すると必ず息苦しく絶望的な気分に陥るが,今回も同様. 2006年12月• 12月年末. 「風の影 上・下 」(カルロス・ルイス サフォン ,集英社文庫)を一気読み.フメロ刑事の造形がやや雑に感じましたが,娯楽小説として上出来.翻訳も上出来.続いて,「コレラの時代の愛」(ガブリエル・ガルシア-マルケス ,集英社)を読了.流石,ガルシア-マルケス!「わが悲しき娼婦たちの思い出 」は短すぎてマルケス流小説世界に浸っている暇がありませんでしたが,これは分量も十分.やや丸みを帯びてきたマルケス節も炸裂.堪能いたしました.• 12月22日. 八木さんの実験結果を説明すべく,ボルツマン方程式の数値計算を始めて一月半.遂に収束.今晩は,真っ白に燃え尽きるまで呑みます.• 12月2日. 「悲劇週間」(矢作俊彦,文芸春秋)を読了.それなりに面白いにも関わらず不満を感じてしまうのは,「ららら科學の子」を読んだ後だからか?一人称「僕」を用いた語りは,著者の芸風と不適合. 2006年11月• 11月11日. 今週は作文三昧でありました(4本の論文を同時進行で作成中).一週間よく働いたと云うことで,山田師匠の店へ出撃.欧州からお越しになったペルドロをローストで頂く.大変激しく美味しゅうございました.酒は Giacomo Borgogno の Barolo Liste 1998 .• 11月5日. AI 将棋(将棋ソフト)三段に初勝利.ああ,しんどかった. 2006年10月• 10月29日. 「ららら科學の子」(矢作俊彦,文春文庫)を読了.もっと早く読むべきであった.• 10月25日. 仕事がはかどったので,院生S氏御用達の居酒屋へ.店内は,明るく正しく健全に酔っ払った某おじさんの独擅場.「大将!芋焼酎,ダブルの大盛りね!」.梵天丸はかくありたい.• 10月9日. AI 将棋二段に三連勝.完全に勝ち越せるようになり,大変嬉しい.先週あたりから研究も進み始め,もう少しで不振から抜け出せそうな予感.• 10月7日. 西条は酒祭りと云うことで,広島市内へ脱出.お祭り嫌いなもので・・・.鷹野橋にて「狩人と犬,最後の旅」(監督 ニコラス・ヴァニエ)を観る.複雑であるはずの背景が人畜無害な形に漂白されているような印象を受けたが,映像自体は文句無く美しい.幟町まで移動して,Foradori の Granato 2002 を摂取.まだ若いが,なかなかの珍味でありました. 2006年9月• 9月22日. 学会出張で千葉へ.車中にて「クライマーズ・ハイ」(横山秀夫,文春文庫)を一気読み.大変おもしゅろうございました.• 9月5日. 行方知れずであった流離のギタリストO氏(2004年卒)が作業服姿で登場.某機械メーカーに正社員として潜り込んだそうな.良かった,良かった. 2006年8月• 8月28日. 先月末から休業状態であった研究を再開.新しいテーマに手を出すも,上手く行かない.上手く行きそうな気配もなし.• 8月8日. 院生M氏の公聴会が終了.お疲れ様!• 8月5日. 広島市内まで出掛けて鮨.もしや「シンコ」にありつけるのではと期待しましたが,またまたご不在.今季はもうお会いできそうにありません.残念. 2006年7月• 7月18日. 院生S氏が半導体物理国際会議( ウィーン)に向けて出立.やや無責任ではありますが,勝手にしっかり発表して下さい.• 7月4日. 院生M氏の予備審査が終了.ほっとしました.• 7月1日. 広島市内・鷹野橋まで出掛けて「家の鍵」(監督 ジャンニ・アメリオ).あざとい演出とは無縁の佳品でございました.幟町の伊料理屋でMYSTERE(1999)を空けて悦楽. 2006年6月• 6月25日. AI 将棋(将棋ソフト)初段に勝ち越せるようになったので,二段と対局しております.全く歯が立たず七連敗中でしたが,遂に初白星をあげる.良い気分で,「真夜中へもう一歩」(矢作俊彦,角川文庫)を一気読み.研究は春先から超ウルトラ絶不調のままですが,こっちの方もなんとかしたいものです.• 6月24日. 街まで出掛けて独り呑み.葡萄酒一本空けてから,知人が(雇われ店長として)始めた店に顔を出して帰宅.• 6月6日. 成り行きで Journal of Mathematical Physics の長大な論文を解読せねばならない状況に陥る.とても辛い. 2006年5月• 5月20日. 4年間ほったらかしていた「晴子情歌」(高村薫,新潮社)を読了.いたって地味な物語ですが,「照柿」を思い起こさせる執拗な描写に引き込まれてしまう.「新リア王」に対する意欲が湧きました.広島市内に出撃し,幟町の伊料理屋等で宴会.• 5月連休. 広島市内に出撃し,ピオ・チェーザレのバローロ(1986)を頂く.大変おいしゅうございました.後は「目眩まし」(W・G・ゼーバルト,白水社)などを読みつつ,西条にておとなしく過ごす.ゼーバルトにはまってしまったようです. 2006年4月• 4月26日. 出勤途中,ロケ中のアンガールズを観測. 私 「今朝,西条中央公園でアンガールズがキャッチボールしてたよ.」 W. 氏 「アンガールズって誰?」• 4月19日. 某呑み屋にて某玄人楽隊員氏より8枚ほどCDを借り受ける.Bridge のチェロ・ソナタと云うのが気に入りました.• 4月初旬. K. 氏に嵌められ,教務委員を仰せつかる.柄にもなく忙しい学期始めでありました.事務能力の貧困さを再認識せざるを得ない毎日. 2006年3月• 3月26日. 学会出張.「春の岬 旅の終わりの・・・」なんぞと口ずさみつつ,船に揺られて松山へ.• 3月5日. 「反社会学の不埒な研究報告」 二見書房 を一気読み.父上は国際スパイ,母上はナポリの陽気な花売り娘・・・,謎の社会学者パオロ・マッツァリーノ氏の第二作.相変わらず笑えるが,前作と比べるとネタの質が落ちているような・・・.• 3月4日. 広島市内,幟町の伊料理屋Sp・・・に潜入.月に一回弱の頻度で通っておりますが,料理の完成度が確実に向上している.素晴らしい!さらなる葡萄酒の摂取を目指して馴染みの店に突撃したところ,待ってましたとばかりにマルゴーのセカンド 2002 を強力に勧められる.若すぎるなあ・・・と思いつつ頂いたところ,これが大正解.葡萄酒は難しい. 2006年2月• 2月27日. 10日ほどかけて,小熊英二氏の労作「民主と愛国」(新曜社)を読了.戦後思想に関する自分の無知・誤解に気付かされることの多い10日間でした.「物語」としても秀逸であり,読み進めることに苦痛を感じる暇無し.なんたる力技!• 2月1日. 「真夜中」(ジュリアン・グリーン,人文書院)を読了.昨秋よりネット上の古書店にてジュリアン・グリーン全集(絶版)の内の数巻を漁っておりましたが,年末に「漂流物」と「真夜中」の入手に成功.「漂流物」は劇的な出来事とは無縁のやたらと渋い話で読み進めるのに難儀しましたが,「真夜中」には強く惹きつけられました.独特の暗い夢幻世界が魅惑的であります.この作家に出会ったのはちょうど学部に上がった頃.福永武彦訳の「幻を追う人」がきっかけでした. 2006年1月• 1月23日. 三次の美和桜・山廃原酒(八反)にはまってしまいました.最近,自宅ではこればかり飲んでます.酸が素晴らしく綺麗で,飲み飽きしない.• 1月22日. 「容疑者 x の献身」(東野圭吾,文芸春秋)を即日読了.面白いのは確かですが,数学教師の心理描写があまりに不十分.多くの書評は「献身」へと突き進む理由を「純愛」の一言で片付けているようですが,安易に思えてならない.• 1月19日. 研究室ほぼ総出で「牛角」に出撃.何周年記念とかで激安でございました. 2005年12月• 12月24日. 「移民たち」(W・G・ゼーバルト,白水社)を読了.これは沁みます.深夜,山形正宗の雄町純吟を摂取しつつ,故吉朝師匠の噺を三席.残念としか言いようがありません.合掌.• 12月11日. 船戸与一の新作「蝶舞う館」(講談社)を読了.濃密な物語を期待していたのですが,またもや不発.「猛き箱舟」や「砂のクロニクル」は良かったんだけどなあ・・・.• 12月4日. 「ある秘密」(フィリップ・グランベール,新潮社)を読む.筆致は極めて淡白なれど,まずまずの感興が得られました.最後尾の挿話は蛇足と思われる.• 12月3日. 院生M氏との共著論文が掲載可となりひと安心,と云う訳で広島の街まで出掛けて三段梯子. 2005年11月• 11月27日. 横山秀夫の短編集「動機」(文春文庫)を読了.表題作の出来が出色.「半落ち」のような人情噺が十八番なのでしょうか・・・.• 11月18日. 院生S氏との共著論文を遂に脱稿.数ヶ月もかかってしまったが,しっかりした良い論文に仕上がってちょいと満足,と云う訳で,広島の街まで出掛けて鮨を摂取する.Y鮨は今日も激しく美味しゅうございましたが,無粋な「先生」の規格外病的単独行動主義に辟易.生真面目な店主に対して同情を禁じえない.• 11月5日. 自宅にて Cerret・Bricco Rocche, Barolo Bricco Rocche 1996 .大変激しく美味しゅうございましたが,あと数年は更なる向上が期待できそうな気配.• 11月4日. 近所の居酒屋で酒のみ.河内町の川にてお捕まりあそばされたモクズガニ,美味しゅうございました. 2005年10月• 10月22日. 広島市内Y鮨に出撃.ちっこい甲イカの握りに感涙.• 10月15日. 「うさぴょん」(フリーの将棋ソフト)を相手に孤独な修行を始めて数ヶ月.大抵勝てるようになったので,「AI将棋」の廉価版を購入.大抵勝てない. 2005年9月• 9月24日. 鷹野橋まで出掛けて「眠狂四郎無頼剣」(監督 三隅研次).ロビーに大集結した小母様方を目の当たりにし「市川雷蔵」人気炸裂と驚嘆するも,誤解でした.実は韓国映画がお目当てだったようで「無頼剣」はガラ空き.「伝説の貴公子」も韓国の若手俳優に完敗.• 9月12日. 暗澹として長なへに生きるに倦みたり. 2005年8月• 8月27日. 恐らく今期最後のシンコのにぎりと,今期最高の鯵のにぎりで悦楽.「モーダルな事象」(奥泉光,文藝春秋),大変おもしゅろうございました.• 8月25日. 多層 carbon nanotube の電気伝導実験に関する文献をざっと調べたのですが,無茶苦茶な理論解釈を多数発見し感動する.有名論文誌も例外にあらず.• 8月12日. 夏休み.行きつけの店でウィスキーをひっかけた帰り道,フルートの音色に誘われて某 live 屋に初潜入.fl,ep,eb と ds と云う編成で怪しげな音を奏でておられました.ds 以外は学生さんないしは素人さんとお見受けしましたが,間違っていたらごめんなさい.ほとんど理解不能でしたが,最後の口直し(?)に演ってくれた「Nancy」を聴いてほっとしました.ちなみに,「Nancy with the Laughing Face」だったり「Nancy with the Laughing Face 」だったりしますが,厳密にはどれが正しいのでしょうか? 2005年7月• 7月30日. シンコのにぎりで悦楽.• 7月24日. 近所の本屋で文庫本を仕入れて暇つぶし.「薬指の標本」(小川洋子,新潮文庫)と「刺繍する少女」(小川洋子,角川文庫).• 7月23日. 広島市内,銀山町の怪しい居酒屋にて宴会.8時くらいに入店したが何故やら閑古鳥.宇品の花火大会の影響だとか・・・.子鰯,鯵,夜鳴き,メバルの煮付け,地鶏焼き,水菜のおひたし,等々.相変わらず安くて美味しい.院生N君のご要望にお応えして万暦(初留取り240)を入手した後,葡萄酒を一本空けて帰宅.• 7月9日. 新進気鋭の伊料理屋Sp・・・(幟町)に初出撃.接客はお世辞にも上手とは言えないが(明らかに人員不足)料理はA級.ガスパチョ(感涙),鯵のカルパッチョ風サラダ(美味なれど鯵はやや弱し),サザエの肝ソース・焼きリゾット添え(ソースも焼きリゾットも激しく上等だが,別々に食べたほうが旨かった),トマトのパスタ(文句なし),鯒(激しく美味なれどソースとの相性は?)と仔羊(やや大振りで野性的.個人的にはもう少し生育日数の短いほうが好み).葡萄酒の品揃えはそう多くはないものの,なかなか鋭い.Cascina la BARBATELLA・MYSTERE 1999 を頂く.予約時間が重なったためか調理場が大渋滞の模様で,主菜に取り掛かる前に酒が空いてしまった.二本目を思案していたら,お姉さんが Planeta・Chardonnay と Antinori・Cervaro を勧めてくれました.なかなか鋭い攻撃.後者を頂く.• 7月6日. 近所の居酒屋で酒のみ.ラッキーエビス(ラベル違いのエビスビール,希少品!)を見せていただきました.但し,今のところ幸運には恵まれていない.• 6月18日. 小倉から日田へ.一泊して由布院へ. 2005年5月• 5月29日. 学生の頃から気になっていた「虚無への供物」(中井英夫,講談社文庫)を読了.「黒死館・・・」みたいな推理小説と勝手に思い込んでいたのですが,読んでみたらあらびっくり.まるで少年探偵団.でも楽しめました.• 5月15日. 自宅にて拡大宴会.竹鶴小笹屋(大和産雄町使用),磯自慢純吟と秋鹿一貫造り(1994年仕込み)を用意しましたが,一貫造りが一番人気.個人的にも気に入っている酒なので,密かに嬉しゅうございました.• 5月8日. 「The wrong goodbye」(矢作俊彦,角川書店)を読了.衒学的?? な小ネタが多数仕込まれており,個人的にはついて行けませんでした.実は本家本元の「The long goodbye」を読んだことが無い(と言うか,チャンドラーやハメットには触れたことが無い)ので,コメントは差し控えるべきか・・・.• 5月4日. 山田師匠の店にて宴会.空豆とトマトのサラダ,カポナータ,ラザニアなどを食しつつ,Ceretto・Bricco Asili Barbaresco Bricco Asili 1979 .当時 Barbaresco は DOCG に昇格する前だったようで,DOC と表記されていました.コルクが砕け散ったあたりで「はずれ」を覚悟したのですが,意外やしっかりとした酒質でびっくり.私好みの枯れ具合で,大変美味しゅうございましたした. 2005年4月• 4月24日. ほったらかしていた「城」を読み始める.純粋に楽しい.そうそう,6月下旬には鷹野橋にてテオ・アンゲロプロスの新作「エレニの旅」が上映されるそうです.「こうのとり、たちずさんで」における河を挟んでの婚礼のような,絶望的に美しいシーンを激しく期待しております.• 4月1日. 広島市内Y鮨に出撃.例によって周りは「社長」と「先生」だらけで「平民」は私等のみ.ややしっくりこないものの,大変美味しゅうございました. 2005年3月• 3月19日. 鷹野橋まで出掛けて10数年ぶりに「山猫」を観る.お懐かしゅうございました.山田師匠の店に流れて一人呑み.トマトと空豆のサラダ,はまぐりのパスタとElio Grasso・Barbera D'Alba Vigna Martina 2001 .• 3月17日. 囲碁棋聖戦が終了.地味な関西棋院に所属し孤軍奮闘する結城九段に勝って欲しかった.残念.• 3月4日. 広島市内,銀山町の怪しい居酒屋にて宴会.子鰯,〆鯖,白子ポン酢,鰆味噌漬,地鶏焼き,空豆,等々.安くて美味しい.胡町の酒屋にて楯野川の雄町純吟と万暦(初留取り60)を入手した後,葡萄酒を一本空けて帰宅. 2005年2月• 1月22日. 「破裂」(久坂部 羊,幻冬舎)を読了.あちこちの書評で激賞されているようですが,登場人物の心理描写が甘すぎるのでは?まあ,おかげでサクサク読めるんですけど・・・.• 1月10日. 「ことばとは何か」(ちくま新書)を読了.気合を注入されました.「あとがき」によれば,著者(田中克彦先生)が悲しいできごとを思い出して打ちひしがれていたとき,91歳になる御母堂より「あんたのしごとは学問だってことを忘れてはいけないよ。 ちゃんと勉強しているかい」とのおことばを賜ったそうです.しびれる.• 正月休み. 西条にて越年.東北泉・雄町大吟,黒龍・樽酒 限定品・頂きもの ,瀧自慢・大吟出品酒,Salvioni・Brunello di Montalcino 1999 ,Tuarita・Redigaffi 2002 等を飲み倒す.大変激しく遅ればせながら,「家族狩り」(約5年前に阿倍野橋の旭屋で購入後ほったらかし)と「OUT」を読む.取り合わせが悪かったの一言. 2004年12月• 12月25日. 平和大通りにて今年度最後の鮨.煙害および香 水 害と無縁の恵まれた環境のもとで喰いまくる.「黒龍・しずく」などを摂取して悦楽のひととき.コハダ 倉橋産 のにぎりが秀逸でした.場所変えて,山田師匠の店にてポリツィアーノ Asinone 2000 .• 12月11日. 前日の激宴会ダメージをやや引きずりながら,天満屋裏の小料理屋へ.寒ブリと鰆の刺身,〆鯖,おでん(大根,つみれ,ロールキャベツ),生牡蠣,太刀魚塩焼き,等々.正しいブリは脂にしつこさが無いと聞いておりましたが,全くその通り.風味は力強いが嫌味は絶無.太刀魚は身が厚く,きれいな脂が乗っており感涙ものでした.私が今まで食ってきた太刀魚は一体なんだったんだ.場所変えて Ch. La Mission Haut Brion (1996)を摂取し,帰宅.銭はかかったが激しく満足.• 12月3日. の還暦祝いで鳴子温泉.お疲れ様でした. 2004年11月• 11月24日. 全く面識のない Zirnbauer 先生より短いメイルを頂く.曰く,"・・・ thank you for your beautiful clarification of the subject! ".素直に嬉しい.e-Print archive に論文を載せた甲斐があったという事でしょうか.• 11月20日. 広島の街まで出かけて鮨.鯖が絶品でした.身はしっかりしていながら程よく脂がのり,全てが完璧.にぎりは大体いつもの通りでしたが,青ナマコを初めて頂きました.長い時間をかけて酒で煮るそうです.同席の方々は絶賛されていましたが,私としては・・・.身がやや固いので口の中でシャリから孤立してしまい,一体感が得られない.場所変えて葡萄酒呑み.チーズを齧りながらポリツィアーノの Le Stanze 2001 を頂く.おいしゅうございました.• 11月18日. e-Print archive に論文を載せるべく死力を尽くす.超スーパー計算機音痴の私には絶望的な難事業でありました.三回ほど reject された時には殆ど「キレ」かけましたが,四回目でなんとか成功. 2004年10月• 10月17日. パオロ・マッツァリーノ?? 著「反社会学講座」 イーストプレス で大笑い.ネット上では続編も公開されています.「反抗期の大人にもおすすめ」だそうです.さて,一週間ほど前に故サイード先生の自伝「遠い場所の記憶」 みすず書房 を読了. 「乾いた哀愁」を感じてしまいました.「この幼年時代の物語からは,自分が病んでいるという痕跡はほとんど拭い去ったつもりであるが・・・」と記されているが,私は同意できない.• 10月16日. 広島市内,天満屋裏の小料理屋.クエの刺身,〆秋刀魚,おでん,キンキの干物,ひつむし,等々.東広島市内にも正しい小料理屋が在ると大変嬉しいのですが・・・.• 10月2日. 半年振りに平和大通りのY鮨へ.訳ありで期間を空けたのが良かったのでしょうか,旨さが身に沁みました.先ずはつまみ.平目に感動し,煮蛸に動揺し,サヨリ(出汁につけてから焼いたもの)には感激しすぎて平常心を失う.鯖はまだまだこれからとおっしゃっていたが,やはりものが違う.にぎりはコハダではじまり,連子鯛,煮穴子,夜鳴き,キス,など.考えてみりゃ渋いネタばかりでしたが激しく満足.私は関東人なんですが,いつのまにかマグロに執着しない体になってしまったようです.最後に干瓢巻きとコハダをいただいてしめました. 2004年9月• 4 くらいでしょうか.大変お美しいSigiriya Lady フレスコ画 にお逢いできて満足.• 9月14日. 上喜元・雄町純米大吟醸がやっと空になる.吟醸香がきつすぎて,せっかくの雄町の良さが感じられない.やや下品な印象を受けてしまうのは,全体のバランスに難があるからか?開運・波瀬正吉を開けてみたら,なんと上品なこと.勿論,値段も違うんですけどね.これで,日本酒の在庫は空蔵・雄町を残すのみ.• 9月7日. 台風にびびって家にこもる.音楽など聴きながらお勉強.Keith Jarrett Trio の新譜「The Out-of-Towners」なんですけど,最後の曲「It's All in The Game」が気に入りました.この曲だけソロでやってまして,「The Melody at Night, with You」を想起させる好演,・・・だと思う.• 9月4日. 山田師匠の店にてエリオ アルターレ・ラリージ 1998 .やたらと力強く複雑なくせに十分な気品有り.バルベーラからどうしてこんな強烈な酒ができてしまうのでしょうか.4年前にスピネッタ・ガッリーナを飲んだとき以来の衝撃.そうそう,数週間前にいただいたバローロ・アルボリーナ 1998 も感動的でした. 2004年8月• 8月盆. 自宅で無気力に酒飲んで過ごす.初亀・瓢月,磯自慢・山田錦大吟など.「クレヨンしんちゃん:電撃!ブタのヒヅメ大作戦」を終いまで見てしまったとさ.クレヨンしんちゃんの映画版は何れもやや精彩を欠くように思えてなりません.• 8月6日. T鮨でコハダを喰いそこなう.ややへこんだまま,場所変えて葡萄酒.ソムリエ氏のお勧めに従いカルフォルニアのメルローなんぞをいただく.CORLEY FAMILY 2001 Estate Grown Merlot.期待はしていなかったんですが,直球勝負の根性系でなかなか立派でありました.微妙なニュアンスには欠けるが,いたしかたなし.実は結構な希少品で,いまのところ広島でしかお目にかかれません. 2004年7月• 7月25日. 知人に勧められていた,池内紀訳のカフカ小説全集(白水社)を読み始める.いきなり「城」とか「審判」はしんどいので,まずは4巻(変身など)から.昔読んだ高橋義孝訳の「変身」とは確かに違う. 高橋訳 最初、手伝い女は、「馬糞虫さん、こっちへおいで」とか、「本当にねえ。 この老いぼれ虫は」などと・・・ 池内訳 「さ、おいで、年寄りのクソ虫さん!」 あるいは、こうも言った。 「なんて老いぼれのウンチ虫だこと!」• 7月18日. 出張で仙台.院生の村上氏と一通り飲んだあと,森羅万象(ショットバー)にて単独宴会.7月は開店記念の月とのことで,年代物が超破格値で供されていました. INVER GORDON 36年 51. 8%, BALLINDALLOCH 35年 48. 5% CRAIGELLACHIE 33年 46%, STRATH ISLA 33年 58. 3% BRUICHLADDICH 32年 53. 8%, GREN FIDDICH 30年 40% THE DALMORE 30年 40%. これらが全て一杯千円とは驚異的.STRATH ISLA と INVER GORDON を一杯づつ頂きましたが,どちらも大変激しくおいしゅうございました.他に二杯ほどひっかけて宴会終了.• 7月3日. 広島市内,ANAホテル近くのT鮨を初襲撃.勘定の割には充実した内容であり,満足できました.激しく感動的なネタはないものの,はずれがなく高打率.シャリはちょい甘めで西国風?紫煙燻蒸攻撃を受けずに済んだのがなによりでした.広島の鮨屋では煙突の四,五本は日常茶飯事であり,これは奇跡的! 2004年6月• 6月27日. 「万暦」おいしゅうございました.個人的には,問題になった「ちびちび」より好みです.• 6月26日. 広島市街で酒のみ.カステッロ・ディ・アマの単一物,キャンティ・クラシコ・カズッチャ1989.少しばかり古酒のような香りがのっておりましたが,10数年経過しているとは思えない力強さ.感服.帰り道,胡町の酒屋で万暦(西酒造:富乃宝山が激しく有名)を大量に発見.かみさんに唆されて二四〇を一本購入.• 6月13日. 由布院に出掛ける.由布岳の眺めが見事でした.中心街は気色悪い状況に陥りつつあるので,近づかないようにする.宿は玉の湯.早めに入館し,だらだら過ごす.極めて快適でありまして,難癖つけるとすれば酒の品揃えがややさびしいことくらいか・・・.無量塔や亀の井別荘も大変宜しいそうですが宿泊経験なし. 2004年5月• 5月16日. 東野著「幻野」を読了.「白夜行」と比べると相当に出来が悪いのでは?あまり関係ないけど,宮部著「火車」が極めて上等であったことを再確認.• 5月14日. 数値計算でもしましょうか,と云う訳で久方ぶりにプログラミング.設定の変わった計算サーバに全くついて行けず,院生諸氏にも見放される.コンパイルの方法が分からず血圧上昇.• 5月8日. 広島市内の某小料理屋.タコとカレイの刺身,のどぐろの塩焼きなど.ウドの金平がおいしゅうございました.• 5月1日. ブルーノ・ジャコーザのバルバレスコ・リゼルバ1990.これ泣けます.過去一年間以内に試したものの内では,バルバレスコ・ソリティルディン(GAJA)1995およびバローロ・グランブッシア(アルド・コンテルノ)1995と並んで三傑. 2004年4月• 4月17日. 師匠の店で葡萄酒呑み.なんと1966年もののバルベーラ・ダルバ.生産者は良く分からない.色は枯れまくってましたが,ボディーは意外にしっかりしておりピノノワールの古酒みたいな感じ.シェリーやマデラの香りあり.うーむ,勉強になりました.そうそう,子羊が大変おいしゅうございました. 2004年3月• 3月13日. 胡町(広島市街)の酒屋を覗いたら,楯野川の斗瓶囲い・山田錦35を発見.衝動買い.一升瓶2本をぶら下げて山田師匠の店へ.GAJAのバルバレスコ・ソリティルディン1995.大変激しく圧倒的においしゅうございました.• 3月10日. 屋敷伸之八段が将棋順位戦C級1組からB級2組への昇級を決められました.これほどの実力者が10年以上C級にとどまっていたなんて・・・.将棋界の七不思議に数えられていたそうです.九段への昇段も決まっていることですし,きっちり活躍して下さい.• 3月8日. 政治的駆け引きの醜さよ.• 3月6日. 先月,発作的にグルダの平均律(廉価盤)を購入したのですが,けっこうよろしくてはまっています.しかも,なんとびっくり4枚で4000円.学部学生の頃,リヒテルのを入手した際には12000円くらい払ったはず.命懸けでした. 2004年2月• 2月28日. 平和大通りまで鮨を食いに行く.もう鯖の季節は終わりなんだそうです.落胆.今期,立派な鯖にお目にかかれたのはたったの二回.• 2月22日. 大西巨人氏の近著「深淵」を読了.こんな文章を書く人はもう現れないでしょう.同氏の大長編「神聖喜劇」を読んだのは,確か大学2年生のとき.一級上のKさんに勧められ(強要され)たのがきっかけでした.Kさんは文学部で社会学を専攻されていましたが,文芸などにも詳しく,私はその人柄をも含めて彼のことを尊敬していた.Kさんの周りには,妙に映画に詳しい人やら,文芸に詳しい人,音楽に詳しい人,古典芸能に詳しい人,花火に詳しい人・・・などがおられ,皆が眩しい存在でした.• 2月13日. 体調を崩す.2日間断酒.• 2月7日. 唐津まで出掛けてアラを食す.大変激しくおいしゅうございました.• 2月1日. 遅ればせながら「博士の愛した数式」を読む.即日読了.80分しか記憶がもたない元数学者,と云う設定に惹かれました.美しく切ないおはなしではありますが,小さくまとまりすぎ.これが著者の「最高傑作」では寂しすぎると思う.それに,阪神タイガースの江夏といわれても,わたしゃ大洋ホエールズのファンですから.平松じゃ小説にならないんでしょうね.但し,博士考案の回文「冷凍トイレ」は,私の記憶に8年くらい保持されそうです. 2004年1月• 1月28日. 左側頭部に円形脱毛症による無毛部分が現れてからはや半年.縮小傾向にあるようです.ちなみに,最盛期には直径3. 5cm(推測値)に達したが,現在の直径は2. 5cm(実測値).よかった,よかった.• 1月10日. 正しいコハダの握りを摂取すべく,平和大通りのY鮨へ.今日のコハダは前日に仕込んだそうで,やや浅めの仕上がり.さわやかな感じがいたしました.それはそれで旨し.MVN(Most Valuable Neta)は鯖.とろける. 開封してよいとのことなので,遠慮なく黒龍・石田屋をいただく.美麗.軽すぎて面白くないと仰るかたもおられるでしょうが,私にとっては許容範囲.数ヶ月前に同席の方から恵んで頂いた石田屋には不穏な香りがのっており,気になったことを思い出す.流石に口にはだせなかったけど・・・.やはりあれは劣化していたのだなあ. 「酔うと気が大きくなる病」を発症し,場所変えて葡萄酒呑みに突入.ソムリエ氏にピノで何か下さいとお願いしたら,ロベール シュヴィヨン ニュサンジョルジュ レプリュリエ 1998.充分ひらいており,おいしゅうございました.• 1月2日. 暇なので広島の街に出る.山田さんの店で葡萄酒呑み.スピネッタの"ガッリーナ"バルベーラ・ダルバ 2001.流石に旨いのですが,やや単調か?もう少し複雑さがあったような気がするんですが.イベリコ豚のカツレツ,大変おいしゅうございました.• 正月休み. 開運・波瀬正吉,喜楽長・天保正一・大吟,空蔵・山田錦14BY,日高見・天竺・山田錦,などを摂取.天保正一はとてもきれいなんですけど,もうちょい根性があっても良いのでは.空蔵の山田は初めて.雄町のほうが大分良いのでは.値段も違うけど. 読みそこなっていた本を片付ける.「ロサリオの鋏」,「逃げてゆく愛」など.故エドワード・サイードの本(薄いやつ2冊)なんぞにも目を通す.熱い..

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特に1968年に「群像」新人賞及び芥川賞の両方を獲得した「三匹の蟹」は、大庭がアメリカ社会に対していかに深い洞察力を持っていたかを如実に物語っている。 大庭がアメリカに渡ったのは、1959年。 大庭は「わたしを相手にしてくれない故郷ならとび出してやれという気分だった」から渡米したといっている。 しかしそれは夫の利雄が日本資本でアラスカのシトカに建設されたアラスカパルプの技術指導者として転勤になったから可能になった選択であった。 私がこの点を強調したいのは、海外転勤になった夫に妻が同行するというのは、女性史の上でも画期的な出来事であったからだ。 それまでは、欧米諸国で暮らすことができた日本人女性は一部の豊かな家系の娘か、政府から送られた留学生に限られていた。 むろん第二次世界大戦が終わった後は、アメリカをはじめとする占領軍の兵士と結婚して夫の国で暮らす戦争花嫁と呼ばれる人々がいた。 だが日本人と結婚した女性たちが、海外転勤になった夫に同行して外国に長期滞在することは稀だった。 ところが日本経済が高度成長期に入ると、企業にも海外で働く社員に妻や子供を同行させるだけの経済的ゆとりがでてきた。 大庭夫妻は、いわばそのはしりであった。 したがって、大庭のアメリカ行きは、江種満子が指摘したように、日本の「資本主義経済の成長期あるいは爛熟期に遇い得たことが可能にした選択肢だった」わけである。 ちなみに村上春樹や吉本バナナの作品が海外で人気を博すようになったのも、日本人の生活にゆとりができ、日常の生活様式や人々の意識が西欧化し、それが彼らが描く作品にも反映していることが大きい。 言い換えれば、日本文学の国際化は、日本経済の発展と密接な関連をもっている。 この点は、大庭の作品を考慮する場合にもやはり視野に入れておかねばならないと思う。 もっとも利雄の転勤先はアメリカ本土ではなく、アラスカにあるシトカという小さな町であった。 だが作家志望の大庭にとって幸運なことに、辺鄙の地ではあっても、シトカは先住民族である「インディアンと、最初の植民者であるロシア人と、ロシアからアメリカ合衆国が購入してから流入した多様なアメリカ人、というふうに多人種・他民族による集合的な文化世界ができあがっている」コスモポリタンな町であった。 大庭が書いた随筆や作品を見れば、彼女はそこで実に多様な住民と親交を結んでいたことがわかる。 彼らの名前が本名かどうかは明らかではないが、ニュージーランド生まれで元看護婦のメアリー、少年の時ロシア革命に出会い、父親につれられてロシアを脱出した画家のアンドレア、同じくロシア人で声楽家のマリア、ポーランドから来たミーチャとヤダーシュカ夫婦などとは、一緒に釣りやブリッジなどをするだけではなく、個人的な問題についても相談しあえる仲であった。 ちなみに柄谷行人は、コーネル大学で近代日本史を教えているシトカ出身の学者の母親が大庭と親友で、その学者は大庭から少年時代に日本語を学んだことがきっかけで、日本に興味をもつようになったと話してくれたと記している。 大庭はまたさまざまな機会を通して、トリンギット族などのインディアンの人々とも交流があった。 大庭はむろんシトカにのみ閉じこもっていたのではなく、家族と共に度々アメリカ本土へも旅行し、見聞を広めている。 そして1962年には、仕事で動けない夫を残して、ウイスコンシン州立大学美術科の大学院生としてマジソンにも住んだ。 さらに1967年には、シアトルにあるワシントン州立大学美術科に在籍し、そこでは主に文学の講義に出ていた。 そのような長期に渡る大学生活を通じて、大庭はアングロサクソン系米国人と親交を結んだだけではなく、さまざまな国から来ていた留学生たちとも親しくなった。 そのような体験が、大庭の国際的感覚に一層みがきをかけることになったようである。 大庭が小説を書きはじめたのは、10代のときからで、利雄とも小説を書きつづけることを条件に結婚している。 しかしW大学大学院で油絵を学んでいる日本人留学生を主人公とした最初の作品「構図のない絵」は、1963年ウイスコンシン州立大在籍中に執筆。 二作目の「虹と浮橋」を完成させたのは1967年、ワシントン州立大に在籍中のことであった。 そしてその年の秋シトカに戻ると、短期間で「三匹の蟹」を書き上げ、「群像」新人賞の応募作として日本に送っている。 その選択は大あたりで、「三匹の蟹」は1968年度の「群像」新人賞を獲得しただけでなく、同年上半期の芥川賞も受賞した。 その直後に「構図のない絵」と「虹と浮橋」も出版された。 それによって大庭は職業作家として華々しいスタートをきったわけで、大庭文学はアメリカ在住の経験なしには生まれなかったといってもよい。 「三匹の蟹」が画期的だった理由はいくつかあるが、その一つは主人公が産婦人科医の夫とアメリカに在住して数年になる専業主婦となっていることである。 そのような主人公の出現は、先に大庭自身についても言及したように、日本経済の発展抜きには考えられないことであった。 その意味で、主人公由梨は、日本が豊かな資本主義社会の仲間入りをしたことを象徴する存在だといっても過言ではない。 むろんそれは産婦人科医をしている由梨の夫の武や、物理学者の横山とその妻などについてもいえることである。 ただし「三匹の蟹」が日本の文壇に一大センセーションを巻き起こしたのは、由梨が「桃色シャツ」を着たゆきずりのアメリカ人と一夜を過ごすという出来事にあった。 そこでまずこの事件はどのような意味をもっていたのか、当時のアメリカの状況なども参照しながら論じていきたい。 「三匹の蟹」がセンセーションを巻き起こした25年前の批評、特に群像新人賞や芥川賞の選評に目を通すと、「桃色シャツ」が「アメリカ人」や「外人」を具現し、日本人の日本人妻由梨がその「アメリカ人」、あるいは「外人」と「姦通」したことに「衝撃」の大半があったように見える。 リービは続いて当時の審査員だった人々の選評をいくつか抜粋して紹介しているが、その中には例えば次の様な評がある。 大庭みな子さんの「三匹の蟹」は、気が利いたショッキングな作品だ。 この人妻はすでに外人と寝たことがあり、浮気するならあとくされのない男をさがせと友達に忠告するような女である。 アメリカ居住の日本人の夫婦者・・・・・ その妻は・・・・・一人家を出て、夜景の遊園地に行って、初めて出合ったヘンなゴロツキの若い男と共に遊園地で時間を過ごして、しまいに若い男の車で海岸に行って、三匹の蟹という赤いネオンの曖昧宿に入る。 確かに選者たちがいうように、由梨はアメリカ人と性的関係があった。 だが厳密にいえば、由梨はアメリカに住んでいるわけだから、彼女の方が「外人」と呼ばれるべきであるが。 実はそれよりも重要なのは、これらの選者、そしてリービ自身も、由梨が夫婦以外の間の性的な関係が大ぴらに認められている社会の中で暮らしていたという点を見逃していることである。 由梨と武が開いたブリッジ・パーティに招待されている男女、すなわち物理学者の横田とその妻、アメリカ文学を教えているフランク、バラノフ神父と妻のサーシャ、それに画家で教師のロンダは、実は非常に入りくんだ関係にある。 武は歌手でもあるサーシャと浮気を楽しんでいるし、由梨もフランクと寝たことがある。 もっとも由梨はフランクではなく、その前に関係のあった男性に今なお心惹かれているが。 重要なのは、由梨も武もお互いの浮気に気がついていて、時折皮肉を言い合ってはいるけれども、離婚しようという気があるわけではないことである。 一方サーシャは無神経で気の良い夫を無視して武とだけではなく、これまでにも多数の男性と性的関係を結んでいるし、由梨の相手のフランクの方は既に離婚していて、目下はやはり離婚して二人の子供を育てているロンダとつきあっている。 ところがロンダはシカゴから仕事できていた技師と親しくなり、技師と週末を過ごすためにシカゴへ行こうと計画している。 由梨はそのように性的に放縦な社会で暮らしていたわけであるが、ここでもう一つ考慮しなければならないのは、当時のアメリカでは「ワイフ・スワッピング」 妻の交換 、または「キー・パーティ」と呼ばれる現象が広がっていたことである。 「ワイフ・スワッピング」については、桐島洋子がさまざまなアメリカ紀行文で紹介しているが、それは文字通り、男たちが他の男の妻と性を楽しむことを意味していた。 「キー・パーティ」の方は、パーティに集まった男性たちが車の鍵を容器に入れると、妻や同行の女性たちが思い思いにその鍵を選び出し、鍵の持ち主とセックスを楽しむという一種のゲームであった。 このようなゲームは、1973年の東海岸の小都市を舞台にしたリック・ムーデイの小説「Ice Storm」 氷嵐 の中にも描かれている。 ただしムーデイの小説が出版されたのは1994年で、1970年代には10代だった主人公が当時の両親たちの生活を回顧する形式になっている。 そしてこの小説は台湾出身の監督アン・リーによって1997年に映画化され、映画の出来がよかったこともあって、「キー・パーティ」も、1970年代初めの虚無的なムードを反映した現象の一つとして改めて注目を浴びることになった。 ちなみに大庭が「三匹の蟹」を書いた1967年には、マイク・ニコルズ監督の「Graduate」 卒業生 という映画も発表されている。 この映画は日本でも話題を呼んだようだが、ダステイン・ホフマンが演ずる大学を卒業して間もないベンジャミンという主人公の青年が、母親の知り合いである中年女性、ロビンソン夫人に誘惑される話である。 ベンジャミンはそのうちロビンソン夫妻の娘エレーンを愛するようになり、夫人から離れていくわけだが、夫人がそれまでにも数多くの情事を楽しんできたことや、ベンジャミンが去っても、また後釜をみつけるであろうことがわかるように描かれている。 大庭はそのようなアメリカ社会の性的風俗を、「三匹の蟹」で作品化しているわけだが、しかしアメリカも、常にそのように性的に奔放な社会だったのではない。 少なくとも女性に関する限りはそうであった。 それが変化した一つの要因は、1961年に経口避妊薬 ピル が市販されるようになったことである。 それまで女性は、既婚や未婚の有無にかかわらず、妊娠への恐れからセックスには男性のようには積極的ではなかった。 また既婚女性が夫以外の男性の子供を身ごもれば、社会から排斥されることも覚悟しなければならなかった。 文学作品を見ても、例えば、名作といわれるナサニエル・ホーソンの「緋文字」は、年老いた夫が何年も不在の間に自分と同じ年令の独身の牧師と恋におちたヘスターが、妊娠したために姦通罪に問われて投獄され、釈放された後も姦通の罪を示す緋文字を常に胸につけて暮らさねばならないという話が描かれている。 それは過去のことを描いたフィクションであった。 けれども、アメリカ社会でも姦通を犯し、妊娠した女性は社会的制裁を覚悟しなければならなかった。 むろん未婚の母も排斥された。 そのように女性の性的自由が束縛されていたのは、家父長制を守るためであったが、日本でも戦前までは既婚女性が夫以外の男性と性的関係をもつことは犯罪であった。 姦通を描いた小説も発禁になったりした。 しかし1947年に姦通罪はなくなり、それとともに、大岡昇平の「武蔵野夫人」 1950 などのように、既婚女性の婚外恋愛を描いた小説が登場するようになる。 それでも姦通という言葉には反社会的なイメージがつきまとっていたが、そのようなイメージを変えるのに一役買ったのは、三島由紀夫の小説「美徳のよろめき」 1957 であった。 この小説では年上で金持ちの男と結婚した主人公が昔の恋人に再会し逢瀬を重ね、妊娠すると三度も中絶する話だが、三島はそれを「美徳のよろめき」という洒落た表現に変えたわけである。 それが大当たりし、「美徳のよろめき」という言葉はたちまち流行語になり、妻が夫以外の男性と性的関係を持つことが罪だという考えは薄れていく。 最近ではそのような関係は不倫と呼ばれているが、その言葉の持つ道徳性を抹消するために、「フリン」とカタカナ書きされることすらある。 また日本の場合、女性が性的に自由に行動するようになった背景には、姦通罪がなくなるのと前後して、妊娠中絶も簡単にできるようになったことがあった。 そのような状況を反映して、小説でも女性が中絶する話がでてくるようになり、三島の「美徳のよろめき」では、主人公は妊娠すると三度も中絶する。 しかも悩むことなく簡単に中絶する。 その意味で、この小説は「中絶天国」と呼ばれる日本の状況をよくとらえているといえよう。 おそらく日本ではこのように妊娠中絶が簡単にできたため、政府が経口避妊薬ピルの市販を許可しなくても、女性は性的に自由に行動できたのであろう。 しかしキリスト教の影響が強い国では、1960年代のはじめには法的に中絶を禁止しているところが多く、アメリカでもそうであった。 また欧米諸国では、女性たち自身も、やはりキリスト教の影響で、中絶に罪悪感を抱くことが多かった。 したがって経口避妊薬ピルが簡単に手に入るようになったことは、女性たちにとっては画期的な出来事だった。 むろん避妊の方法としてはコンドームもあった。 けれどもコンドームは、男性の協力なしには出来ない避妊法である。 ところがピルは、女性が自分の意志のみで避妊することができるようにした。 つまりピルの出現は、女性が男性から性的に自立することを可能にしたのである。 ただしその反面、ピルの出現によって、女性たちは、男性たちから〈妊娠の心配がないのだから、自分たちの性的欲求に従ってもいいじゃないか〉という圧力をかけられるようにもなった。 そのようなピルのもたらした否定的な面も、むろん認めねばならない。 しかしピルの出現によって、妊娠の恐怖から解放された女性たちが性に対して積極的になったことは確かであった。 そのようなピルの効能と共にもう一つ留意しなければならないのは、女性たちがミニスカート文化の広がりなどによって、自分たちを縛りつけていた旧来のモラルからも自由になっていったことである。 誰がミニスカートの発案者かについては議論がわかれていて、一説では、1965年冬におこなわれた春と夏のファッション・ショーで、パリのオートクチュールのデザイナー、クレージュが、膝上10cmのミニスカートと白いブーツのモデルを登場させたのが発端だったといわれている。 そしてクレージュの「ショーが終わったときには、観客の心も、それを身につける女性たちの心まで解放していた」という。 一方ロンドンでも、新進のデザイナー、マリー・クワントがそれよりも短いミニスカートを発表して有名になっていた。 クワントは自分が着たいと思う服を作ったと述べているが、クワントの服はたちまち若い女性の心をつかみ、世界中で大人気となった。 それでクワントの方が「ミニ」の元祖または「ミニの女王」として知られるようになり、1968年には英国に巨額の外貨をもたらした功績を認められ、エリザベス女王から「英帝国勲章」を授けられている。 ミニスカートは、むろんアメリカでも大流行したが、大統領夫人のジャックリーン・ケネディーが公式の場でミニをはいたことが、ミニの流行に一役買ったといわれている。 周知のように日本でも、ミニスカートは大はやりだった。 「ミニスカートが中高年女性も巻き込んで日本で爆発的に流行するのは翌68年からだが、67年にすでに街の風俗として定着していた」という。 ミニの流行に拍車をかけたのは、1967年の10月、クワントが18歳のモデル、ツイギーを伴ってやってきて、国技館でファッション・ショーを開いたことであった。 その時、8500人もの観客が国技館につめかけ、その中には一目ツイギーを見ようとやってきた男性も多数いたという。 クワントのミニスカートが革命的だったのは、一つには、ファッションを誰にでも手に入れる値段で提供したことであった。 それまでは、ファッションを楽しめたのは、金持ちの女性たち、特に裕福な中年女性に限られていた。 そのためにそれを着ると、若い女性でも「少なくとも35歳には見えた」。 ところが若いクワントは、若い女性に似合う服を、彼女たちが自分のサラリーや小遣いで買える値段の服を売り出したのである。 それは中年の女性たちにも受け、クワントの店では、安い給料で働いている若い女性たちと金持ちの中年女性が一緒に買い物をする風景が見られるようになった。 つまりファッションによる民主化である。 事実クワントはインタビューで、「ファッションの本質は民主主義。 大事なことは、つくる側が、一方的に命令する独裁を拒否することと既成概念から自由になることです」と語っている。 女性はまたミニスカートの誕生によって、従来のきっちりとセットされた堅苦しい髪型や、体をギュウギュウ締め上げてウエストを細く見せるコルセットなどからも自由になった。 パンティストッキングができると、動きにくいガードルからも解放された。 これもミニが女性たちに受けた理由の一つであった。 それまでは、ファッションは中年の裕福な女性たちのためにデザインされていたから、高価なだけではなく、軽快に動きまわれない服が多くしかもそれを着ると、若い女性でも中年のようにふけて見えたわけである。 ところがミニは、女性たちを若々しく見せただけではなく、活動的にした。 ミニと共にローヒールの靴やブーツが流行するようになったことも、女性たちの行動を活発にするのに一役買ったといわれている。 ちなみにミニスカートが流行すると、男性たちの間でもファッション革命が起きている。 ビートルズの影響で長髪が増えてきただけではなく、彼らはさまざまな色やスタイルの服を着るようになり、由梨の情事の相手の「桃色シャツ」のように、ピンクのシャツを着る男性も増えた。 そのため「ピーコック革命」という言葉が流行ったりしたが、そのような男性のファッションの女性化から、ジーンズやTシャツなどのユニセックスなファッションが生まれてくるのである。 重要なのは、そのようにファッションが変わると、女性たちの意識も変わったことである。 つまり旧来の堅苦しい服を脱ぎ捨てると、女性たちは自分たちを縛りつけていた過去の習慣も脱ぎ捨てて、自由な生き方をするようになったのである。 それに対しては非難の声もあったが、クワントは、自分の服が女性の意識を変えたのではなく、新しい生き方を探していた女性たちがミニの流行を生み出したのだと反論した。 ちなみに、私もその当時ロンドンで美術やデザイン関係の仕事をしていたという英国人の伝記作家に会ってその頃のことについて聞く機会があったが、彼も自分の周りの女性たちが新しい生き方を模索している時に、ミニがでてきたのだと語っていた。 つまりミニは、「新しい生き方を模索していた女性たちの心をつかみ、彼女たちをいきいきさせ、女であることに誇りと自信を持たせた」わけで、そこにはファッションと人間の心理との間に密接な関係があることがうかがわれる。 むろんその頃には、経口避妊薬ピルも簡単に手に入るようになっていた。 それらのことがあいまって、女性たちも男性と同じく性の自由を楽しむようになっていく。 その後、ベトナム戦争に反対し、平和と自由と愛の自然をもとめたヒッピーやフラワー・チャイルドといわれる若者たちの出現によって、フリーセックスは、若者文化の一部として定着していった。 1969年にジョン・レノンとヨーコ・オノがアムステルダムやモントリオールで戦争よりも愛をというメッセージを伝えるために公共の場で「ベッド・イン」するのも、そのような若者文化を象徴する出来事の一つであった。 もっとも二人はただ一緒にベッドに入っていただけだが。 そうした若者文化の影響で、既婚者の性のモラルも急速に変わり、離婚も増えていった。 そしてアメリカでは「ワイフ・スワッピング」や「キー・パーティ」のような退廃的なゲームを楽しむ人々もでてきたわけである。 「三匹の蟹」の登場人物たちはそこまで退廃的ではないが、大庭が彼らを当時のアメリカ社会の縮図として描いていることは明らかである。 とはいえ、大庭はそのような性の自由をささえていた経口避妊薬ピルについては直接は何も言及していないが、作中の女性たちが簡単に不倫をしたり恋人を取り替えたりするのも、ピルを飲んでるからこそだという風に読める。 また由梨が妊娠したかもしれないといっても武が信じないのも、やはり彼女がピルを飲んでいるのを知っているからであろう。 むろん彼らの避妊の手段がコンドームだと読めないこともない。 だが由梨がフランクや、見ず知らずの「桃色シャツ」とも簡単にセックスを楽しむのは、やはりピルを飲んでいるからだという風に読める。 逆にいえば、「桃色シャツ」が簡単に由梨を誘うのも、他の女性たち同様、由梨もピルを飲んでいると考えたからだと解することができる。 もっとも由梨は、「桃色シャツ」に「どうして、ミニ・スカートをはかないの?」と聞かれると、「だって、きれいな脚じゃないもの」というので、ファッションの上では、当時の流行に迎合しているわけではない。 けれども彼女もミニスカート文化と経口避妊薬ピルがもたらした性の自由は、たっぷりと楽しんでいるといえる。 このように60年代後半に顕著になってきたアメリカ社会の性に対するモラルの変化を考えれば、由梨が「桃色シャツ」と一夜を共にするのは決して突出した行為だとはいえないことがわかるであろう。 その一つは、後に日本で「台所症候群」と呼ばれるようになる主婦たちの神経症についてである。 由梨は専業主婦で、子供は10歳の梨恵一人。 自分の車を持ち、週末には自宅に友人たちを迎え、ブリッジ・パーティを開いたりする優雅な生活をしている。 自宅で二組のテーブルを置いてブリッジをするくらいだから、居間も広いだろうし、台所もケーキを焼いたりできるモダンなものであろう。 そのような由梨の生活は、当時の日本の主婦たちからすれば羨ましいほど恵まれた生活に見えたに違いないが、しかし由梨はそのような生活にうんざりしきっていた。 由梨はお菓子の粉を混ぜ合わせながら、胃の奥の方で微かな痛みを感じた。 彼女は機械的に卵を割りほぐし、バターをこね合わせ、ベーキング・パウダーや塩をふり入れながらまるで悪阻の時みたいに生唾が咽喉元まで上ってくるのを感じた。 由梨が吐き気をもよおすほど嫌悪しているのは、実は自分の生活そのものである。 これは彼女が夫や娘と交わす会話によってしだいにわかってくる。 ブリッジ・パーティを開こうというのも、実は夫の提案だった。 由梨自身はお客のためにケーキを焼いたり、ブリッジ・パーティをやることに飽き飽きしていた。 そして客が集まってきて会話が始まると、なぜ由梨がそのようなパーティに嫌悪感をおぼえているのかわかってくる。 彼らは皆、何とかして相手よりも気の利いたことを言おうとやっきになっていて、辛辣なことばかりしかいわないし、相手をほめる場合にも、お世辞であることが明らかな見え透いたほめ方しかせず、本音で話す者は誰もいなかった。 実はこの会話だけで構成されているパーティの場面は、「三匹の蟹」の中でも特に秀逸な箇所だいう定評がある。 「群像」新人賞の選考委員の一人江藤淳は、E・オールビーの「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」と類似しているけれども、それは作者の体験にもとづいて描かれたものであるとも指摘している。 またもう一人の選考委員の大江健三郎も「それぞれの「他者性」を明瞭にきわだたせた」優れて「演劇的」な会話だと評価している。 確かにその通りである。 しかし私は、大庭がこの場面を舞台劇のように構成したのは、それぞれの人物がインテリーにふさわしい役を演じようと躍起になっており、彼らの間では心の通った真のコミュニケーションが失われていることを、構成の上でも示すためだったと考える。 むろん由梨自身も決して本心を見せず、客に負けないほど辛辣な発言をする。 しかもサーシャと親密な関係にあることを大ぴらに見せつけていた「武の視線にぶつかると」、急に横田によりそうようにして、「横田さん、あなたって、ほんとに詩人。 フランクはね、フォークナーの研究家ですけど、あれ程詩人じゃないひともないわよ」と、芝居気たっぷりな見え透いたお世辞をいって、横田の気をひこうとする。 ただし由梨が彼らと違うのは、「自分の無意味な言葉と一緒に、生あくびが泡みたいに胃の奥から上ってくるのを感じた」というように、つい無意味なことをいってしまう自分に嫌悪感を抱いていていることである。 だからこそ由梨が口実をもうけて、パーティを抜け出そうとすることにも同情できるのである。 由梨が、サンフランシスコにいる姉が飛行機の乗り換えで、この町に来るけれども短時間しかいられないので、飛行場まで会いに行かねばならないといい、その口実が信憑性を持っているのは、前にも指摘したように、日本経済の高度成長によって海外在住の日本人が増えたということが背景にある。 そして車を走らせて遊園地にでかけた由梨は、そこで「桃色シャツ」の男と一夜の恋のアバンチュールを楽しむわけである。 このように自分の生活を吐き気をもよおすほど嫌悪し、性的冒険をおいかける由梨のあり方は、実は1963年にアメリカで出版されたベティ・フリーダンの「The Feminine Mystique」 直訳は「女らしさの神話」だが、日本語訳の題は「新しい女性の創造」 に報告されている専業主婦たちの悩みや行動と非常によく似ている。 フリーダンは自分の卒業したスミス大学の同期生にアンケート調査したことをきっかけに、経済的には恵まれた生活をしているアメリカの専業主婦たちが、夫や子供の世話だけに明け暮れる生活に満足感をえることができず苦しんでいる実体を明らかにした。 中には「生きているような気がしないのです」とか、「疲れきった感じで・・・自分ではっとするくらい子供たちに腹がたつのです・・・わけもないのに泣きたくなるのです」と訴える女性もいた。 また結婚するために19歳で大学を中退した4人の子持ちの主婦は、「私は子供も夫も自分たちの家も愛している」「しかし私は絶望し切っている」「私って一体誰なのか」と訴えてきた。 しかも「大勢の女性が、手足に、出血するおおきな水ぶくれができた」経験を持っていたが、それは神経的なものからくる疾患だった。 フリーダンの調査でもう一つわかったのは、このような悩みをもつ主婦たちの多くが、セックスをしている時だけが、自分が生きていると感じられる瞬間だと返答したことであった。 このように「郊外住宅の主婦が、近所の男性や知らない男性に、すすんで身をまかすようになり、夫を自分の家の家具のように考えるようになったのは、彼女たちが自己と生きがいを見出す必要にせまられているからだろう」と、フリーダンはいう。 ちなみに裕福な中流階級の家族に焦点をあてた前述のムーデイの小説でも、専業主婦の一人は近所に住む男との不倫にふけり、性にあまり関心のないその男の妻は、心の空虚さを、万引きをやってそのスリルを味わうことで埋めている。 男性であるムーデイは、フリーダンとちがって、専業主婦たちの苦悩自体には全く同情を示していないが。 興味深いのは、日本でも満たされない思いで暮らしている主婦たちの中には、売春行為に走るものもいたという。 例えば、1970年の「朝日ジャーナル」に掲載された「身もだえする幻想」という記事にはこうある。 そしてこの記事に書き手である男性は、無聊に苦しんでいる新婚の若い女性から受け取った近況報告の手紙を紹介しているが、その手紙には次のように書かれていた。 結婚して半年たちますが、あまりに暇で頭がヘンになりそうです。 せめて子供ができるまででも働きたいと思いますが、気の優しい主人なのに、パートタイムでも「絶対いかん」と認めてくれません。 仕方なく家の隅々まで念入りにお掃除をし、なるべき遠くへ毎日のお買い物をしに出かけるようにしています・・・これでいいのかと、毎日毎日自分に同じことを問いかけては日を送っています。 この記事の筆者は、「彼女に不幸の意識はない。 むしろ逆で、いいひとと結ばれて大変幸せだと思っている。 あるいはそう思い込まされている」が、「夫婦の愛なる幻想が崩れ、日常のルーティンが彼女を支えなくなったときはどうなるか」と、疑問を投げかけ、「主婦売春は、もてあましている暇を埋め、ポケットマネーを稼ぐことができ」「かなり多くの主婦が売春行為に走るチャンスをポテンシャルとしてもっているのではあるまいか」と問いかけている。 このような記事を見れば、日本でも「主婦幻想」にからみ取られ、夫や子供たちの世話や家の管理以外に生きる場をもたないために苦しんでいる女性たちが多く、中には売春行為に走る主婦もいたことがわかる。 フリーダンは、そのような女性たちの不満や悩みは、「夫や子供を通して自己を確認することは出来ないし、毎日の家事からも自分を見出せはしない」ことを明らかにしていると指摘。 そして女性たちが満たされない思いに苦しむようになったのは、第二次世界大戦後戦場から帰った男性たちに職場を提供するために、政府や学者やマスコミが「婦人は家庭に帰れ」と奨励し、女性の幸せは家庭にあるという神話をつくりあげたことと深い関連があるという。 そしてフリーダンは、女性たちが自分の生活を意義あるものにするためには、何よりもまずつくられた女らしさの幻想を碎き、自らの人間としての能力をのばしていかねばならないと指摘した。 フリーダンの本の「女らしさの神話」という原題はそこから来ているのだが、この本はたちまち女性たちの心をつかみ、大ベストセラーになった。 そしてそれは米国における女性解放運動の生まれる契機をつくり、フリーダンは1966年に成立した全米女性連盟の初代会長に推された。 その時連盟の初代委員長に選ばれたのは、大庭が学んだウイスコンシン大学継続教育部部長のキャサリン・クラレンバックであった。 ジョンソン大統領はそのような女性たちの影響を受けてその年、つまり1966年に、「アメリカの女性の能力を十分に活用しなかったことは、わが国にとって、最も悲しい、かつおろかな無駄である」、だから「女性が専門職につける機会を多くする方法を、大統領に助言するためのスタディー・グループを構成するよう命じ」、ハンフリー副大統領も、女性は「基本的人権を認められていない多数」だ、「アメリカが過去において、女性の能力、才能を無視してきたことは恥ずべきことだ」と述べている。 大庭が「三匹の蟹」を書いたのは、アメリカにそのような新しい動きが出て来た時であった。 そこで大庭は、フリーダンの本を読んだり、全米各地に支部を持つようになっていたフリーダンが会長をつとめていた全米女性連盟のことを知っていたのではないか。 全米女性連盟の初代委員長は大庭がかつて学んだウイスコンシン大学の人でもあるし。 そう思って、大庭の著書を調べてみた。 すると全米女性連盟については何も記されていないが、「黄杉 水杉」 1989 の中で、大庭はこう述べている。 「ベティ・フリーダンの女性論を読め読めとしつこくわたしにすすめたのはオリガだった。 ボーヴォワールに一足遅れて、世界の女たちをひきつけた人だった」「その頃--わたしもオリガも20代の頃、わたしたちはよく男の話をして長い白夜を過したものだ」「20代で2人の子供を連れて夫と別れたオリガは、当時としては勇気のあるフェミニズムの先駆者といったタイプの女だった。 というより、そういう体験、妻と幼い子供を紙屑のように丸めて放り出し、酒浸りになる男と結婚した運命がフェミニストにしたのであろう」と。 「黄杉 水杉」は自伝ではなく、小説である。 だから「わたし」をそのまま大庭だとみなすわけにはいかないが、そこに登場する人物たちは、大庭が2002年にシトカを訪問した時の紀行文にも出てくる。 したがって「わたし」という登場人物には、大庭自身の体験が投影されていると見てもいいであろう。 いずれにしろ大庭がフリーダンの本を読んでいたことは確かである。 だから「三匹の蟹」でも、主人公の由梨が、フリーダンのいう「得体の知れない悩み」に苦しんでいるという設定をとったのであろう。 なおそのような症状は後に「suburban neurocis」 郊外神経症、しかし日本では「台所症候群」 と名付けられるようになるわけだが、由梨が憂さ晴らしに、性のアバンチュールを楽しむのも、フリーダンの本の内容とよく似ている。 ただし「三匹の蟹」は、フリーダンが会長をしていた女性運動についてはふれられていず、かわりに女性たちがまだ連帯せず、孤立したままでいる状況をとらえた小説である。 それが最も顕著なのは、ロンダが「ユリ、淋しいのよ。 そうでしょう。 淋しいのよ。 困ったことねえ」と訴えても、由梨は耳をかさず、「どうにもならないわねえ。 どうしようもないわねえ。 じゃあ、又。 ロンダ、--愉しんでいらっしゃい」と振り切って出ていく場面である。 つまりロンダの方は自分たちの置かれている現状への不満を由梨と語り合い、淋しさを分かちあいたいと思っており、女同士の連帯を求めているが、由梨はまだ同性と連帯したいという気持ちは持っていないわけである。 それは由梨がまだ男性とのロマンテイックな対幻想にとらわれているからだが、しかしそのような対幻想が破られれば、由梨もロンダと淋しさを分かちあい、連帯する可能性をもっているということでもある。 事実小説の展開を見れば、由梨のロマンティックな対幻想は、ロンダと別れた後出かけた遊園地で出会った「桃色シャツ」の男に置き去りにされたことで破られるという風に話が進んでいく。 それは女性が自己を変革し、独自の人格を形成していくには、何よりもまず王子様と王女様が結婚して目出たし、目出たしで終わるおとぎ話がつくり出す結婚幻想から自由にならなければならないと示唆していることである。 それは由梨がケーキを焼きながら次のように武と娘にいうことによって明らかにされている。 「子供の前では、甘い優しい創り話。 きれいなお姫さまと凛々しい王子さまが恋をして、ガラスのお城に棲んで、夢の綿菓子を食べて、タララララ」 このようなおとぎ話に対する由梨の皮肉な態度は、武との結婚生活が、子供の時に聞かされた王子さまと王女さまが恋をして結婚して目出たし、目出たしで終わるおとぎ話の結末とはかけ離れていることへの不満からきている。 これは武との刺々しい会話に表明されているが、由梨がおとぎ話にこだわっていることは、梨恵を相手に次のようにいうことでもわかる。 「松浦嬢には性的魅力があるとか、サーシャはバラノフ神父の奥さまで、パパの女友達だとか、ママはそういうお客を呪いながら、お菓子をつくっているとか。 あーあー、お菓子の中から、ぱっと黒い鴉が十羽もとび出したら、ふっふ。 タララララ」 由梨はそのお菓子で「サーシャと松浦嬢を豚のように肥らせ」るのが望みだというのだが、「呪い」をかけるというのは、おとぎ話には欠かせないモチーフの一つである。 またお菓子から鴉がとび出すというのも、英語圏の子供むけの物語からきている。 そのような由梨のおとぎ話にたいするこだわりは、彼女がいまだにおとぎ話、特に王子さまと王女さまが恋をして結婚し目出たし、目出たしで終わる話の影響を受けていることを示すものである。 だから武に愛想をつかした由梨は、新しい王子さまを求めて遊園地に出かけていくのである。 元来遊園地は子供の遊び場であったが、ここでは由梨が子供の時よく聞かされたおとぎ話の世界に戻り、新しい王子に出会いたいという願望を実現させる場である。 これは9時をすぎた夏の遊園地は、「手をつないだ恋人達がネオンのついた乗物を幸福そうな眼つきで眺めてい」る世界であり、モーター・ボートの中にも「ハンドルに、倖せそうにもたれかかって水のしぶきを放心したような眼で眺めている恋人達」がいたりと、どこを見ても恋人達ばかりであることによって示されている。 しかも遊園地の中にあるオペラ・ハウスで上演されているのも、「マゴット・フォンテンの白鳥の湖」であった。 いうまでもなかろうが、「白鳥の湖」もおとぎ話によく似ていて、魔法で白鳥に姿を変えられた美しい王女が、勇敢な王子の愛によって魔法をとかれ、王子と無事結ばれて目出たし、目出たしで終わる話である。 それゆえ、これも自分を救ってくれる王子にめぐり会いたいという由梨の願望を示している。 そして由梨は、遊園地の中にある「アラスカ・インデアンの民芸品の展覧会場」の管理人をしている「桃色シャツ」の男と出会うわけである。 このロマンティックな色のシャツを着た男が王子の役を与えられていることは、おとぎ話の王子のように名前を与えられていないことを見ればわかる。 男が背が高く、若白髪はあるけれども黒い髪で、「眼は緑色に近い碧眼」だという設定も、ロマンティックな恋物語の「トール・ダーク・ストレンジャー」 背が高く、髪が黒く、異邦人 というヒーローの典型像をふまえて造型されていることが明らかである。 これは由梨が純粋の日本人である武やアングロサクソン系のフランクにうんざりしていることを見ればわかる。 武はエゴイストで毒舌家であり、機会さえあれば由梨をこきおろす。 ブリッジをやるというのも武の発案であり、「悪いけど、わたし、とっても胃が痛くて駄目だから、誰か、もうひとり招んでよ」と由梨が懇願しても、武は心配する気配は見せなかった。 それで由梨が口実を設けてパーティを抜け出そうとすると、「君は大体傲慢だ。 君が他人に我慢すると思うのは自分が秀れている、と思うからだ」ときめつけ、由梨が「わたし、ほんとうに駄目なのよ。 癌か、若しかしたら、子供ができたのかも知れないわ」といっても、冗談としか受け取らない。 しかもフランクが来ると、「ユリは最近、しきりに胃が変だというんでね、妊娠したのではないかと思っている」と他人事のようにいってのける。 またフランクに対しても、相手の痛い所を容赦なく攻撃し、「ロンダは先週、シカゴから来た道路設計の技師と夕食をしてたぜ。 自分の家に招んだんだ。 残念ながら彼氏が何時にロンダのアパートから帰ったか、見た奴は無い」などという。 それは由梨がフランクと寝たことがあるのが気に喰わないからだが、自分はサーシャと仲のいいところをみせつけたあげく、こういった。 「サーシャ、済みませんが、由梨にカルメンがホセをののしるところの、タラララ、という節の正確なところを教えてやって下さいませんか。 一方フランクも、由梨にこそ手厳しいことはいわないけれども、ロンダに向かっては、自分は絵の専門家でもないくせに、皆の前で彼女の絵をこき下ろした。 「ロンダ、近頃流行の、ポップ・アートなんて真似はやめなさい。 君は大学で講座が持てる身分なんだから、もっと真面目な仕事をしなくちゃ駄目だ」 「まあ、フランク、あなたにもっと真面目になれって言われるなんて。 わたし、落ちるところまで落ちちゃったと思うしかないわね」 「君は仲々の自信家だけど、自信家すぎて、強情なところがあるよ」 中略 「わたしがひっそりと優しい絵をかけば、「少女小説の口絵だ」みたいなことを言うしねえ」 ロンダは嘆息した。 つまりフランクも女性に対し思い遣りがなく尊大なことでは、武と五十歩百歩なのである。 ところが半分アジア人で半分白人の血が混じった「桃色シャツ」の男は、とにかく親切でやさしかった。 由梨が展示会場でころびそうになると、さっと駆け寄って抱きとめてくれるし、由梨のハイヒールの踵の皮がさけて垂下がっているのを見ると、持っていたナイフでそれを手際よく取り除いてくれ、会場に置き忘れたハンドバッグもみつけて持ってきてくれた。 そのようなやさしさを示す男に、武やフランクの思い遣りのなさに傷ついている由梨が惹かれていくのは当然だったといえる。 なおリービは、「桃色シャツ」の男に「由梨が徐々に引かれてゆく 原文ママ のは、ただの「国際的」な姦通ではなく、むしろ最も「近代的な「会話」の場を逃げた一人の近代人の、自らの前近代的感性そのものとの「姦通」ではなかろうか」といった。 これは由梨が彼のエスキモーという部分に自分との血のつながりを感じているとあることからすれば卓見であろう。 それは展示場で鴉の帽子をみた由梨が次のように考える場面を見ればわかる。 この鴉の帽子は 中略 写実的な鴉とは似ても似つかぬもので、殊に眼などは抽象化されたにしても人間の、それもかっと見開いた男の眼であったが、全体として見ると、奇妙な、人間と鴉の混同した生命のある面なのである。 未開の人種達の間では自然界の木とか草とか、山とか谷とか、動物に人間の同化した生活感情ともいうべきものがあり、お互の間の意志の疎通は信仰に近い形で信じられているようだ。 リービは、この「人間と動物の「お互の間の意志の疎通は信仰に近い形で信じられていた」というアニミズムの領域は、すべてが認識の玩具としてもてあそばれるブリッジ・パーティの世界からよほど遠い」といっている。 それは確かに卓見である。 しかし私は、この理想的なアニミズムの領域は、由梨にとってはおとぎ話の世界に踏みいることでもあったことに、注意を喚起したい。 そこで「由梨は、人間の祈りや、呪いの、ぶつぶつという低い呟き」を聞くとあるのも、おとぎ話の王女のように由梨が魔法の呪文をかけられたことを意味している。 そして呪文をかけられた直後に、流行のロマンティックな色のシャツを着た背の高いハンサムな男に声をかけられるが、このような筋書きも、おとぎ話を踏まえたものである。 このように見ていけば「桃色シャツ」は、由梨が求めているところの近代人でありつつかつまた自然界との結びつきを持った理想の王子様であることが明らかになる。 もちろん彼らの関係も、勇敢な王子と可憐な王女の物語のように進展していく。 まず「桃色シャツ」は、すでに指摘したように、由梨が展示場を出ようとして「ぐらりとして危く尻餅をつきそうにな」ると、さっと「走りよってきて、由梨を抱きとめたので、由梨は派手にころばなくて済んだ」し、由梨のヒールの皮が破れて危険なのを見ると、「ポケットからナイフをとり出し」、皮を切ってくれた。 物語の王子は王女が危険な立場にあると剣をふるって助けるが、近代の王子の「桃色シャツ」は、剣の代わりにナイフを使って助けるわけである。 靴がとりもつ縁というのも、シンデレラの物語の亜流ないしはパロディ化と読める。 そして由梨が展示場にハンドバッグを忘れたまま出てしまうと、「桃色シャツ」はそれを持ってきてくれただけでなく、またしても転びそうになった由梨をやはり抱きとめてころばないようにしてくれた。 その後「桃色シャツ」はジェット・コースターに乗ろうと誘うのだが、注目すべきは、自宅では終始雄弁でかつシニカルな態度しか見せなかった由梨の変化である。 「わたし、怖いわ。 若しかしたら、我慢できないかも知れないわ」と弱音をはき、「乗ったことある?」と聞かれると、「ううん」と少女のように「かぶりを振った」ので、「桃色シャツ」は「大丈夫さ。 僕につかまっていれば」というわけである。 これは由梨が、勇敢な王子に守られる可憐な王女に変身してしまったことを示している。 なおその時由梨は、昔武とデイトしている時に、後楽園のジェット・コースターに乗りに行くけど、結局は乗れなかった挿話を思い出すが、これは武との結婚生活がうまくいかないのは、間違った王子を選んでしまったからではないか、と由梨が考えていることを明らかにしている。 そして「桃色シャツ」は、口だけは達者だが頼もしさややさしさに欠ける武とは違い、ジェット・コースターがスピードをあげ、由梨が怖がると、「由梨の腰に手をまわして、しっかりと抱きしめるように指先に力をこめ」たので、由梨も安心して「男の肩に重心をかけていた」。 そしてジェット・コースターがとまると、「桃色のシャツの上に顔を伏せていた」由梨を、「抱きかかえるようにして立ち上らせ、更に抱きよせるように由梨の顔を覗き込」み、「大丈夫?」とやさしく声をかける。 由梨の方は、やはり何を聞かれても、「こっくりと頷い」たり、「かぶりをふった」りするだけで、全く可憐な王女様になりきっている。 そしておとぎ話では、王子と王女が舞踏会でダンスをするのも特徴の一つだが、案の定、「桃色シャツ」も由梨をダンスに誘った。 由梨がどうするか決心しかねていると、突然「ドビュッシイか何かの音楽」が聞こえてきて、「オペラ・ハウスから、着飾った観客が」出てき、「黒いスーツの男達が、むき出しの女の肩を覆うように身をかがめて、囁いていた」と叙述がある。 これは舞踏会のような雰囲気をつくり出すための装置である。 もっとも二人は舞踏会には行かず、流行のゴーゴー・ダンスを踊りにいく。 そして「スローの曲にな」ると、「桃色シャツ」はおとぎ話の王子のように、由梨をぴったり抱き寄せて踊り、「優しく笑いかけ」たので、「由梨も優しく笑い返し」「二人はただふんわりと流れていく雲の上にのっているように音楽に任せて」体を動かしていた。 それは「武と上手に踊ろうと努め」「ステップを間違えまいとからだを硬ばらせた」時の経験とは大違いであった。 このように由梨がことあるごとに武と「桃色シャツ」と較べているのは、選択を誤って武を選んでしまったために、自分の人生は上手くいかないのだと考えていることを示唆している。 一方「桃色シャツ」は、終始おとぎ話の王子やロマンティックな恋物語のヒーローのごとく振るまい、踊っている時にも「君はまるで、押えていないと、ふわりと飛んでいってしまう羽みたいに軽いよ」などと、甘いセリフを口にする。 むろん武も、そしてフランクも、そのようなロマンティックなことはいわず、やさしくもなかった。 だからこそ由梨は「桃色シャツ」に誘われるままにドライブにいき、ついには一夜を共にするのである。 この部分はいかにも性の革命の進んだ60年代的な物語である。 ところが翌朝由梨が眼をさますと、「桃色シャツ」の男はすでに姿を消してしまっていた。 しかもバスで遊園地まで戻る途中、由梨はハンドバッグから20ドル紙幣が消えているのに気がつく。 当時の20ドルといえば、今の百ドルくらいの値打があるが、それを抜き取っていったのは、明らかに「桃色シャツ」であった。 ということは、由梨は素敵な王子様に出会いたいという夢を叶えるために、20ドル支払ったということに他ならない。 この結末は、構成の上では冒頭におかれているが、そこに含まれるメッセージは次のように解釈することができる。 すなわち、おとぎ話は夢物語にすぎず、理想の王子様などいないのだ、だから自分の人生を有意義なものにするためには、結婚幻想を追わず、自分で自分の生き甲斐をみつけていかなければらなない、と。 これは決して結婚そのものを否定した結末ではない。 このことは、やはり確認しておかなければならない。 フリーダンも、結婚幻想に強く影響されている女性ほど結婚した時の幻滅や不満も大きいので、不満を解消するためには自分の生き甲斐をさがすように提案しているが、結婚そのものを排斥しているのではない。 ちなみに時代は大幅に下るが、シャーロット・メイヤーソンも、1996年に出版した「Goin' to the Chapel」という著書の中で、彼女のインタビューに答えた女性たちのうち、子供の時から女性は結婚すべきだと教えられ、結婚幻想にとらわれていた女性ほど結婚後の人生に失望を持つものが多いと報告している。 一方コレット・ダウニングは、1981年に出した「シンデレラ・コンプレックス」という著書で、子供の時から物語を通して男性に依存した生き方をすべく教えられた女性たちは、職業上成功しても仲々心理的に独立できず、男性に依存してしまいがちだと指摘している。 ここでもう少しおとぎ話の問題について言及すると、おとぎ話が女の子たちに結婚幻想を抱かせ、成人しても男性に頼る受け身の生き方を選択させるようになるということが問題にされるようになるのは、実は女性運動が盛んになった1970年代になってからであった。 その口火を切ったのは、作家でもあったアリソン・ルーリであるが、ルーリは1970年に発表した論文でおとぎ話は強い女性たちを描いているので、女性解放を推進するのに役立つと力説した。 それに反発し、おとぎ話を批判する論文が続々あらわれるようになり、おとぎ話の研究はフェミニズム運動の一環となっていく。 それらの研究は一様に、おとぎ話が女の子に性別による役割の違いを教え、物語りの王女のように従順で貞淑であれば、王子様と結婚し幸せに暮らすことをできるという受け身の生き方をするよう書かれたものであることを明らかにした。 ザイプスは古典的おとぎ話は「無害で楽しいもの」と見なされてきたが、それは人々、特に子供たちを教育するために構築されたものであること、そして欧米の主要な古典的作者であるシャルル・ぺロー、グリム兄弟、ハンス・クリスチャン・アンデルセンなどは、「ブルジョアジーの価値観や関心を浸透させ、文明的過程でのブルジョアジーの勢力をひそかに強化」したと指摘した。 またザイプスは、女の子に対する物語は、家父長制を強化し、維持するために有利な価値観を教えようとするものであり、その伝統はハリウッドのアニメーションにも継承されていると指摘している。 以上のようなザイプスの研究が明らかにしたのは、昔話やおとぎ話の文学化は、特定の価値観を子供たちに教え込むための強力なイデオロギー装置であったこと、そしてそれらの物語りは子供たちの精神世界を支配しただけではなく、成人して後の人々の無意識の領域を形成するまでにいたったことなどである。 このようなザイプスの研究は、結果的にはそれまでのフェミニストのおとぎ話研究を正当化するものであった。 その後もおとぎ話の研究は続けられ、マドンナ・コルベンシュラーグは「眠れる森の美女にさよならのキスを」を書き、古典的おとぎ話の家父長的価値観を転覆し、女性が主体性をもてるようになる物語を創作していくことの重要性を説いた。 このような歴史を考えるなら、大庭が1967年という早い時期に、女性に結婚幻想を与えるものとしておとぎ話に注目し、それを脱構築しようと試みたことがいかに画期的であったかが理解できるであろう。 そして大庭は、小説の結末部分 構成上は冒頭にある では、由梨の乗ったバスは深い霧につつまれ、視界があまりきかないといっているが、これは由梨にはまだ自分の進んでいくべき道が見えていないことを示したものであろう。 もっともその結末からは、いつか霧が晴れるように、由梨にも自分がやるべきことは何かが見えてくることは予測できる。 おそらくロマンティックな男性への対幻想から醒めた由梨は、ロンダと次に会った時には、子供を育てながら働いているシングル・マザーの彼女の寂しさや苦悩を理解し、親密な友情を築き上げていくであろうし、松浦嬢とも、セックスアピールで張り合うかわりに、彼女が米国に一人でやってきて博士号をとろうと頑張っていることを肯定的に評価できるかもしれない。 実際に歴史はそのように変化し、女性たちは自分たちの地位を向上させるために共闘していった。 そのような歴史の動きは、1967年に大庭が「三匹の蟹」を書いた時点ではまだはっきりとは見えていなかった。 だから大庭は、由梨が将来どのように生きていくかについては、明確な解答は与えられなかったのかもしれない。 また見方を変えれば、大庭は深い霧に包まれた孤独な由梨の姿を通して、女性解放運動が広がる直前の孤立した女性たちのあり方を描き出そうとしたといえる。 大庭自身は専業主婦ではなく、結婚しても小説を書くことをあきらめず、夫の転勤を最大限に利用して、アメリカの大学で勉強したりした。 しかし主婦業の単調さや、どんなに家事を完璧にやっても仲々充足感や満足感がえられないことも、周りの女性の生活から理解したであろうし、時には自分自身でも感じることがあったに違いない。 だからケーキを焼きながら苛立つ由梨の姿が生き生きとリアルに描けたのではないかと思われる。 また大庭が、自力で子供を育てているアメリカ人女性ロンダ--つまり父親業と母親業と主婦の三役をこなさなければならない立場にいる--を深い共感をもって描いたのは、オリガのように離婚して二人の子供を育てていた「フェミニストの先駆者」といえる友人がいたからであろう。 「群像」新人賞の選考委員の一人であった安岡章太郎は、「三匹の蟹」は「海外留学団地小説」だと評した。 それから30年後に江種満子は、「大庭みな子の文学では、アメリカはたんなる旅先でお客様になる国ではなく、またたんなる情報や題材にとどまるような借りの滞在先・他人の国でもなく、その異文化空間に棲む生活者として、日本女性が自分の生き方を創り出していく闘いの場そのものであった」と評価した。 確かに「三匹の蟹」も、江種がいうような特徴を備えた作品であるが、そこにはロンダを通して、アメリカ女性の闘いも描かれている。 また由梨の造型には、すでに指摘したように、オリガという名を与えられている友人が奨めてくれたフリーダンの本の影響もみられる。 そのため由梨は日本人の専業主婦というだけではなく、アメリカの専業主婦の典型としても通用する。 言い換えれば、由梨という女性はジェーンというような非日本的な名前に変えても違和感がない存在であり、「三匹の蟹」のボーダレスな魅力の一つもそのような由梨の造型にあるといえる。 するとほとんどの学生が、専業主婦である由梨の不満や悩みがフリーダンのインタビューに答えた女性たちの不満や悩みと共通していることを指摘する。 中には、60年代のニュージーランドでも多くの主婦たちが同じような問題を抱えていたからアメリカと同じように女性運動が広がったのだ、と指摘してくる学生もいた。 そしてほとんどの学生が、「桃色シャツ」がおとぎ話に呪縛された由梨の王子様であり、彼との関係を通して由梨はおとぎ話の世界を再体験しようとするけれども、それは惨めな結果に終わり、男性に頼って生きていく主体性を欠いた生き方を変革せねばならないことを思い知らされる、これが小説の筋だという分析をしてくる。 つまり「おとぎ話」というキーワードがあれば、あまり文学的訓練をうけていない学生でも、「桃色シャツ」が果たしている役割がわかるわけである。 もう一つの収穫は、学生たちがロマンスを描いた小説やハリウッドの映画などが、いかにおとぎ話と同じ家父長的イデオロギーを説いているかにも気づくことである。 その意味で、「三匹の蟹」はジェンダー教育に適切なテキストの一つである。 以上のように、「三匹の蟹」は日本人の専業主婦を主人公としているけれども、そこで描かれた問題は、アメリカをはじめ、様々な国の女性たちが直面している問題でもあった。 そして女性は結婚幻想から抜け出して、新しい生き方を見い出さねばならないという大庭のメッセージも、70年代に様々な国に広がった女性運動の発するメッセージと同じであった。 「三匹の蟹」のボーダレスな魅力の一つもこの点にあるといえる。 「三匹の蟹」がボーダレスな魅力を持つもう一つの要因は、おとぎ話やロマンティックな恋愛小説の説く結婚幻想に挑戦し、それを脱構築したことであるが、欧米のフェミニストの間でおとぎ話の研究がはじまるのが70年代になってからだということを考えるなら、大庭がそれを1967年という早い時点でおこなったことは、革新的であったといわねばならない。 また二項でふれたように、大庭がアメリカ在住の日本人のみに焦点をあてず、フランクやロンダ、そして「桃色シャツ」の男などを通して、1960年代にアメリカ社会でおきていた結婚や性に関するモラルの変化を描いたことも、「三匹の蟹」をそれまでの日本文学の枠を越えたボーダレスな魅力をもつ作品にしているのではないかと思う。 人類学では、原始人の群に既に自殺があり、少なくとも4000年も前の自殺の遺書が、近年エジプトで発見された、という確かな証拠を提出している。 人類の歴史全体を通じて見れば、近代以来、文人もしくは作家と呼ばれるような人たちの自殺はもっとも多いように思われる。 文人・作家の自殺は、ある時代における文人・作家の社会的環境が大きく変化し、彼らの心のバランスが崩れたことを反映しているとみられる。 ところで自殺とはいったいどういうものか。 なぜ文人・作家には自殺者が多く出るのか?そして、なぜ近代に入ってから、日本人の文人・作家には目立って多くの自殺者を出し、自殺の伝統のなかった中国でも文人・作家が、近代に入ってから、自殺者は増えたばかりか、プロレタリア文化大革命中、夥しく自殺した者が出たのか?本論では、自殺の社会的要素を主な視点として、近代に起きた日本と中国の文人・作家の自殺について比較的議論を展開してみたいと思う。 我々は、孤立的に存在しているのではなくて、社会という関係体系のなかに共存している。 個人の生活は、個人の自由意志によって支配されているかのように見えているが、実際、いろいろ思想的に行動的に社会というものに関連し合い、互いに制約されている。 文人・作家の自殺も大抵、家庭という社会を構成する細胞から、文壇という小社会、国内社会乃至国際社会にいたるまで、いろいろの事柄に深く関わっているから、その自殺を研究するには、何よりもまずそれに着眼しなくてはだめだと思う。 この意味から言えば、フランスの社会学者デュルケムは、誰よりも先に社会的要素に着眼した「自殺論」の重大な意義は否定できない。 人間を徹底的に「社会的存在」として考察していくこの社会学者 デュルケム の眼は、人間の生というものがいかに集団生活によって影響され、左右されるものであるかをするどく看てとっている。 いいかえれば、自殺は、この行為にはしる人間の生きてきた集団生活にかかわる要因をぬきにしては、じゅうぶんに説明されえないということなのだ。 宮島喬氏がいろいろ説明し補足した通り、デュルケムの学説は当時欧州諸社会の自殺を通じてその社会の病態にメスを入れたばかりか、社会的要因はいかに重要なのかを強調し、そして社会学的に自殺を分類したことも、後の研究者に重要な手がかりを提供した画期的な貢献と言わざるを得ない。 ところが、同じく宮島喬氏が指摘したように、今日の目から見ればデュルケム学説には、いくつか問題点があることも否定できない。 たとえば、「社会的要因」と「非社会的要因」という分け方の厳密でないことや、根拠にした官庁統計のデータは確実に権威のあるものだとは限らないことや経済的貧困・病苦を軽視したことなどが挙げられる。 そのほか、筆者の思うところでは、社会には統合力があると言われているが、物理学の力学原理に基づいて、その反動も必ずあり、統合力は強ければ強いほど、その反動も強くなるのではないか。 たとえば、中国のプロ文革という特定の時期中、社会的統合力は強くないとは言えないのに、なぜ夥しく文人の自殺が出たのか。 因みにデュルケムの研究は、19世紀のヨーロッパ向けで、東洋人の自殺のケースには必ずしもぴったり当てはまるとは限らない。 それにデュルケムは、自殺する人間を受動的なものとして固定的に扱っているように思われ、自殺者の主観的能動性を見逃したのではないかと思われる。 ここではまず、自殺の定義、種類や自殺率などから検討して、文人・作家の自殺の多発の原因を探るとともに、近代以来とくに有名な日本と中国の文人・作家の自殺を例にして、比べながら、法則らしいものを探ってみたいと思うのである。 Shneidman が、「Definition of Suicide」 自殺の定義 という一冊の本を出版したぐらいである。 そこで自殺の定義として次のようにのべることができよう。 死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予知していた場合を、すべて自殺と名づける。 右は近代における自殺研究の先駆者デュルケムの定義づけであるが、これは自殺の定義の代表的なもので、その後の研究者たちから、またいろいろ修正されたり、細かくしたりされていった。 なお、自殺の定義を研究していた前記のアメリカのシュナイドマンの定義は次のように自殺者の必要の角度から自殺の性格を社会の「病」と定義している-- 自殺とは「人間が自ら引き起こした、そして自ら意図し、生命を終わらせる行為」であり、「自殺とは意識的に自らがもたらした死の行為であり、ある種の問題にたいして最善の解決策であるとみなす必要に迫られた人にとっての多次元的な病として最もよく理解される」。 前記諸氏の定義の言葉遣いこそまちまちであるが、まとめて通俗に言えば、すなわち、自殺とは、死にたいと思っている、心理的に成熟した人間が、死ぬことを予知しながら、自分の意志で自分の生命を終わらせる行動を取る、ということかと思う。 「自らの意図」と「結果予測性」が大抵、定義中の二つの欠くべからざる要素である。 病理学的に言うと、自殺の思いつきは憂鬱感と大いに関係があるが、これは、医学、生物化学、生理学、病理学の分野で、学者たちの重要な研究課題である。 普通精神医学と心理学において、憂鬱は反応性と臨床性とがあり、前者は落第や失恋や事業倒産などによるはっきりした憂鬱感をさす。 このタイプは、その憂鬱の源を無くしさえすれば、時間が必要であるものの、回復する可能性は極めて大きい。 それに対し、後者の憂鬱は、はっきりした原因もないのに、理解しがたい絶望感に陥ってしまって、実際一種の原因不明の精神病であると言う。 大抵、精神医学の学者の研究は比較的にこの方面に傾いている。 心理学的に言えば、フロイトは攻撃性を、人間の持っている破壊本能が姿を現したものだとかんがえた。 殺人にも自殺にもこの傾向が見られるのであるが、殺人の場合にはこれが外に向けられ、自殺の場合には、これが自分自身に向けられる……人間には生命をつくり、子孫を増やしていこうとする傾向と、その反対に生命を分解して無機物にしようとする傾向がある。 前者が「生の本能 Eros」であり、後者は「死の本能 Thanators」である。 自殺と社会との関係を社会学的にデュルケムが次の法則をまとめている。 自殺は宗教社会の統合の強さに反比例して増減する。 自殺は家族社会の統合の強さに反比例して増減する。 自殺は政治社会の統合の強さに反比例して増減する。 デュルケムの説によれば、すなわち、社会関係の組織がよく統合され、高度の社会的集結のあるところでは、人々は自分の属する社会の一成員であることを強く自覚して、心理的孤独や寂しさから抜け出すことができ、これが自殺への志向を思い止まらせる強力な要因となるという。 逆に社会的集結力の低い社会では、文化的価値は普遍性を失って個人はアトム化され、相対化され、孤立されて、成員の経済や健康や気候などの条件とは関係なく、人々を自殺に追い込む原動力となるわけである。 言い換えれば、社会的自由度の多い社会では、むしろ自殺が多発するというのである。 なお、「非社会的原因」と「社会的原因」の比重につき、デュルケムは 説明しなければならないこの現象 自殺 は、きわめて非社会的原因に起因するか、そうでなければ、まさに社会的原因に起因するかのどちらかでなければならない。 そこでまず、非社会的原因のもたらす影響がどのようなものであるかをたずね、それが無に等しいか、もしくはごく限られた影響でしかないことをあきらかにする。 と、非社会的原因より、社会的原因に主に着眼している。 心理文化学理論の創始者アメリカのファーバーの理論をまとめれば、集団における自殺頻度は、その集団が含む高度に傷つきやすい個人の数、及びその集団に特徴的な社会的欠乏の規模に正比例する。 この法則を一般公式にすると次のようである。 すなわち社会学者としてのデュルケムがこのうちのDだけを強調し、精神分析理論がVだけを考慮していたのに対して、ファーバーの公式では自殺の「社会的」要因と「個人的」要因がともに考慮されているわけである。 自殺の仕組みの分析上、より全面的だと思われる。 1960年以来、欧米では、自殺行動と生化学的指標の関係について焦点が当てられ始めた。 日本の自殺研究学者高橋祥友氏のまとめによれば、 a「死後脳を対象にした初期の研究」、b「自殺企図者の脳脊髄液の研究」、c「死後脳の受容体結合の研究」、d「内分泌学研究」などがあるが、「現段階では生物学的な研究はあくまでも研究の域を出ておらず、いまだ日常臨床に活用するにはほど遠い。 と、生物学的研究はまだまだ結論に達しない状況であることを示している。 ところが、自殺について、在来のデュルケム理論と全く視角の違ったフランスのジャン・バッシュレール理論が現れ、自殺の是非問題に関わってきたので注目を集めている。 バッシュレールは、「自殺者」という著作の中で、デュルケム理論に対抗する研究を発表した。 彼の説によれば 自殺は究極的には個人の心理のレベルにおいて理解されねばならず、デュルケム理論のように、個人と社会との結合度から説明できるものではないという。 また、すべての自殺行為を簡単に精神異常と結びつけてしまっては、自殺を主観的世界のなかで、とらえることは不可能になる。 氏はドイツの社会学者マックス・ウェーバーの「社会行動論」を重要視して、自殺者の社会的境遇、立場または他人との関係を理解することを重んじている。 自殺原因究明の場合、「この人は長い間連れ添ってきた最愛の妻に先に死なれたために意気消沈して自殺をした」という第三者からの純客観的釈明よりも、「この人は死別した最愛の妻とあの世で再会するために自殺をした」という自殺者の主観的立場を尊重する理解が必要と主張している。 このバッシュレールの解釈は、自殺者にたいする純客観的デュルケム理論の第三者的解釈より、もっと主観的に自殺者の意志にアプローチした理解だと言われている。 意味深いことには、こうすると自殺という行為は自殺本人にとって、当たり前の主観的理由が作られ、そして、その悩みにたいする最も積極的な決断行為ということになる。 結論として、この理論は、自殺行為をも、人生における対応の一つの型として考え、自殺に対する個人の権利を肯定し、精神障害とは別な次元の積極的な人間の社会行動と見なしている。 この理論は、倫理上の諸問題に関わり、かつ自殺の是非問題にも関わるので、フランスのインテリの中で大変な反響を呼んだが、精神科の医者からは大きな反感と敵意を買ったのは云々するまでもない。 日本人の自殺事情を、バッシュレールの説明に当て嵌めたら、反社会的な三島や川端などの自殺も、合理的なもの、同情すべきものだと言えそうであるから、このすべての自殺を肯定する理論は明らかに偏った一面があると思われるのである。 筆者は、デュルケム理論よりアメリカのファーバー理論とバッシュレールの解釈に強く興味があるが、上記欧米人の理論は、東アジアにおける日本と中国の文人・作家の自殺を旨く説明できず、別にその法則を掘り出さなくてはならないと思う。 社会の統合や連帯が弱まり、個人が集団生活から切り離されて孤立する結果として生じる自殺。 反対に社会が強い統合度と権威をもっていて、個人に死を強制したり、奨励したりすることによって生じる自殺。 また、個人を超えたなんらかの集合的利益や信仰上の大義のために一身を犠牲にする行為もここにふくまれる。 社会の規範が弛緩したり、崩壊したりして、個人の欲求への適切なコントロールがはたらかなくなる結果、無際限の欲求にかりたてられる個人における幻滅、むなしさによる自殺。 その反対に欲求にたいする抑圧的規制が強すぎるため、閉塞感絶望感がつのって生じる自殺。 社会的原因による自殺タイプとして、デュルケムは自己本位的自殺、すなわち、自己中心型 その特徴として、社会との結合度が比較的弱くて個人主義が強く、作家や独身者などに多発する 、集団中心型 その特徴として、集団との結合度が強く、自己より集団を重んじて軍人や警察など国民意識の強い群れに多発する 、アノミー型 社会的規範のないタイプ、その特徴として、社会の激変期や、いきなり到来した好況や不況などの動乱時期などに多発したり、芸能人や倒産者や失業者や定年後の老人や配偶者の喪失者などに多発したりする と分類している。 また、デュルケムの分類した三種類を、それぞれ、自己的自殺、愛他的自殺と虚無的自殺という別の三つの名称に解釈する学者もいる。 理由は後述するが、自殺者のうち、文人・作家の占める比率は多い。 デュルケムによれば、19世紀に行われた自殺性向を職業別に見る調査において芸術家、学者を含む創造的職業に従事する人々は首位の軍人に続く自殺率を示しているという。 フランスでは、1826年から80年まで自殺の首位を占めていたのはこの自由業であった。 すなわち、この職業集団の人びと百万あたりの自殺は550であった。 イタリアでは1868-76年の期間では、この同じ職業従事者百万あたりは483であり 、バイエルン バヴァリアのこと では芸術家、文学者、記者の416であった。 日本の文人・作家の場合、専門的な統計数字が見つかっていないが、第一学習社出版の2002年度の「新訂総合国語便覧」に載っている詩人、俳人、評論家を含む近現代文人・作家260名のうち、北村透谷、有島武郎、芥川龍之介、牧野信一、太宰治、原民喜、火野葦平、三島由紀夫、川端康成、田宮虎彦の10名の有名な作家が自殺した。 また、「近代作家研究事典」 に載せられた144名の作家のうち、芥川龍之介、有島武郎、川端康成、北村透谷、久保栄、太宰治、火野葦平、牧野信一、三島由紀夫という9名の自殺者が出た。 けれども、1899-1984年の日本男子の平均自殺率は、0. すなわち、10万人の日本男子に、23. すなわち、文人・作家の自殺率は、少なくとも近代日本の男子の平均自殺率の172倍以上である。 中国の自殺率はどうであろうか。 色々の原因で完全なデータが見つからないが、張朝陽氏の「人類自殺史」の中の完全でないデータを引用しよう。 わが国 中国 は、なお全国的自殺率のデータに欠けている。 各省市のばらばらの報告に基づいて、次のように紹介する。 自殺率:中国の自殺率は、17. なお、張朝陽氏によれば、作家を例にして言えば、楚の屈原から五四運動前まで、作家の自殺は合わせても30人を越えず、平均して百年ごとに一人という割合である。 それ以降、特にプロ文革期間中、作家の自殺は激しく増え、その人数はこれまでの数倍を超えてしまった のである。 したがって、中国人の自殺者の中に作家の占める比例は、かなり低いことが分る。 文人・作家の自殺は上記の社会学的分析によれば、第一種類の自我中心型に属するもので、個人主義や自由主義の発達した欧米に多発する筈であって、日本人の自殺は大抵集団中心型に属するとされているというのに、なぜ近代に入ってから、「集団本位自殺」でない自殺の作家が続出するのであろうか?なぜ中国の文人・作家の自殺は少ないか?ただし、自殺の伝統がなかった中国の文人作家の自殺がプロ文革中なぜ夥しく出たのか。 デュルケムの自殺の法則に相応しくないこれらの社会現象は、特殊な研究課題と言わざるを得ない。 全体的に言えば、日本と中国の文人・作家の自殺は、ある程度、デュルケムと宮島喬氏のまとめた法則に適うこともあるが、両氏とももっぱら文人作家の自殺を論じたものはなかったのである。 事実上、日、中の文人・作家の自殺は、デュルケム理論に当てはまらないこともある。 たとえば、北村透谷、藤村操の自殺も、川端康成、三島由紀夫の自殺も、密接に社会的要因に関わるが、実はそれは同じ類いのものではない。 なお、宮島喬氏の指摘したとおり、「「自殺論」の著者は、自殺の「社会的」要因をいろいろ挙げるに当たって貧困、経済的危機 失業、破産など 、病苦といった要因にはほとんど注意を払っていない」ので、川上眉山や牧野信一や中国の詩人朱湘などの自殺も、デュルケム理論から根拠が見出されないのである。 本論では、デュルケムと宮島喬氏の研究の補足というつもりで、両国のそれぞれ代表的な10人の有名な文人・作家 学生であった藤村操と陳天華の場合、自殺してから有名になったものであるのに対し、後の9人はもともと有名であったが、自殺してからなおいっそう有名になった。 なお藤村操や陳天華は学生であったが、その自殺は影響が大きかったから、文人・作家の中に一応入れておくことにした の自殺を簡単にまとめて、さらに議論を展開したいと思う。 1988・6・16 作家 石沢英太郎 縊死 老齢問題? 平成時代 1990・10・10 作家 佐藤泰志 縊死 何回も芥川賞落選など? 1993・12・13 作家 藤田五郎 ビニール袋窒息死 不明 1999・7・21 作家 江藤淳 割腕 病苦 2001・2・2 作家 加堂秀三 縊死 不明 2001・6・17 作家 青山正明 縊死 麻薬からうつ病 2002・5・29 作家 矢川澄子 縊死 離婚、親しい者に死なれて寂しくなるなど? 2004・4・11 作家 鷺沢萠 縊死 不明 日本の古代では、少数の男性が政治的失敗のため自殺するほか、女性の多くは愛情のために自殺する。 中世では、愛情の心中よりも、武士の切腹が多かったが、そのうち「殉死」というのは、実際は真の自己意志による自殺ではなくて、強いられた死である。 その自殺は、したくてもしたくなくても、本心からの死ではない。 「興津弥五右衛門の遺書」の中で鴎外は、一片の恩義が人を死なすことを美しく描き、封建道徳を肯定していながら、また一方、「阿部一族」の中で弥一右衛門の末路を通じて、殉死を否定した。 文学作品中の人物であるにもかかわらず、封建的因襲の野蛮な慣わしによって、生きようとしても死のうとしてもできないという哀れな境遇がありありと描かれている。 それに対して、文人・作家の自殺は少なかった。 一方、近世では、戯作家たちは、大衆の娯楽を旨として、それに工夫を凝らしていたが、あくまで自己追及告白により身を苛む近代作家と根本的に違っていて、近世作家の自殺はまず、聞いたことがない。 日本が明治維新以来取った「富国強兵」政策は、対外侵略を狙って庶民たちの苦難を全然顧みなかった。 そういう「近代化」に疑問符をつけ、その答案を求められずに悩んだ挙句、理想主義を旨とした北村透谷は、あきらめて自殺した。 日露戦争の直前、哲学青年の藤村操は、立身出世主義に背を向け、新しい人生価値を求められずに人生は「不可解」という「巌頭之感」を残して煩悶自殺した。 明治維新以来、知識人は、自我に目覚めたからこそ、自殺を以って社会に反抗したのである。 自己で自己の運命を握れること。 この意義からいえば、明治時代に自殺した透谷、藤村と川上の自殺には、積極的な意義も全然ないとは言えないと思う。 透谷も藤村も、社会の歪みによって自殺したと言えそうであるとともに、社会の進歩と政治的空気の緩やかさを示したとも言える。 川上眉山の自殺には、そこに文壇という小社会の原因も加わるが、直接の原因は生活難であって、これは正に社会の歪みによるもの以外の何物でもない。 大正時代に起こった民主主義を求めるという、大正デモクラシーの動きが高まっていた。 様々な運動や文化が花開き、新たな言論活動も始まった。 大正政変で幕が開き、第一次護憲運動 1912-1913年 によって、桂内閣を退陣させ、普通選挙運動が高まる。 米騒動 1918年 、第二次護憲運動 1924年 もおこった。 世界大戦を繰り返したくない願いが、新しい時代を要請したのである。 が、社会主義対策として普通選挙の実施で予想される無産政党の進出を阻むために制定する治安維持法も成立する。 「国体の変革」と「私有財産制度の否認」を目的として結社をつくることが禁じられた。 大正時代に、民主主義、大正教養主義の機運の中で、自殺した作家は確かに少なかった。 唯一の自殺した影響力のある作家は、心中の仕方を取った白樺派の有島武郎である。 実際は単なる心中ではなくて、「第四階級」 有島の言葉・プロレタリア階級のこと の発展を予感して、自らが所属する階級の前途への絶望の上、社会道徳から追い詰められて、知識人の潔癖から経済的方法で解決しようとせずに、愛情至上に逃げ場を見つけて、「生命の燃焼」という自殺をしたのである。 表面的に取れば、確かに有島と秋子は心中だと取れそうであるが、深層の原因は本階級の前途への絶望が本当の原因だと思う。 この意味から言えば、有島にしてみれば、生命を愛しないのでもなくて、むしろ並みの人よりも生命の価値を理解したかったのではないかと思うのである。 1926年から1989年にかけての長かった昭和時代であったが、昭和8年までにもはや大正デモクラシーの余韻は消え、軍国主義が日本中、大手を振って歩き始めた時代であった。 1927年金融恐慌の最中、未来のプロレタリア階級の社会を予見しながら、その運動に踏み切る勇気がなかった芥川は、神経衰弱も加わって自殺した。 なお、軍部の台頭が明らかになった1936年、「2・26事件」の9カ月後には牧野信一が、書けない悩みともあいまって悲観厭世で自殺した。 恐慌、エロ・グロ・ナンセンスの時代は、ファシズム戦争の敗北を経て、戦後の焼け跡と生活窮乏の時期を迎えた。 退廃・絶望のなかで、自分が地主の息子であることと、プロレタリア運動に共感していたこととが大きな矛盾として脳裏に焼きつき、死だけが自分を救う唯一の手段と思った無頼派の太宰治は、何回も自殺し損なったのち、とうとう戦争未亡人の山崎富栄と一緒に入水自殺することに成功した。 太宰の自殺はある意味では、典型的な「恥の文化」「罪の文化」の犠牲者といえよう。 その翌年に、同じく、毒薬、酒色に耽った田中英光も、その師匠に追随して太宰の墓前で自殺した。 また朝鮮戦争の最中、情勢が危うく核戦争になろうとする頃、自らの深刻な体験から核戦争に大反対の原民喜は、鉄道自殺を遂げた。 50年代から60年代、日本は民主化の道を歩み始め、1955-57年の「神武景気」と1960-61年の「岩戸景気」を経て、60年代中頃の「所得倍増」によって人々は生活難からようやく抜け出し、戦争への憎しみと平和の有難さを一旦舐めた日本の庶民は70年、戦争につながる「安保自動延長」反対闘争に立ち上がったが、そういう民主的ムードに不満を感じ、かつての「大日本帝国」の夢を見ようとした三島は同じ年、世論を驚かせる芝居を演じてから切腹自殺した。 1972年、日本はますます「伝統美」を失ったと感じた川端は、ノーベル文学賞をもらった4年目に「輪廻転生」という甘美な夢を抱いてガス自殺した。 前記50名の自殺した文人・作家の統計はもちろん、かなり不完全なものである。 にもかかわらず、資料入手の難しさによる原因不明の10名のほかは、本当の精神的発狂のケース、すなわち生理、病理的原因のみによる自殺は、中西梅花と山本飼山の二名だけである。 そして中西梅花の場合、恐らく不遇も自殺原因の一つであろう。 なお、「うつ病」の原因のある者には、藤野古白、久保栄、村上一郎があるが、久保と村上の場合、どちらも単純なうつ病ではなく社会的原因もかかわっている。 その他の自殺の決定的主な原因は、思想の苦悶、悲観厭世、社会への不安・不満、家庭の事情、恋愛失恋、病苦、そして老人問題など、すなわち全部が社会的要因に関わっている。 これから見ても、自殺は、この行為に走る人間の生きてきた集団生活に関わる要因をぬきにしては、十分に説明できないのである。 何千年も前に、氏族の首領共工が「怒りて首を不周の山に触して天柱折りて地維絶つ」という記述があるが、これはおそらく中華民族の一番最初の自殺の記録であろう。 ところが、中国には、「好死不如頼活着」 どんなに立派な死に方も、辛うじて生きていることに如かず などの俗言があるように、よほどの場合でもない限り中国人は自殺することはないのである。 中国の文人・作家の場合、周知の事情で確実な資料は限定されているが、歴史上の特殊な時期以外、自殺者はかなり少ないようである。 紀元前277年に楚の詩人屈原は、楚懐王、楚襄王から信用してもらえず、免官の上、追放にまでなった。 のち楚は秦に敗れ、気骨のある屈原は汨羅江に身投げして自殺した。 儒家と道家の思想の影響によって、これまで確かな統計数字がなかったにもかかわらず、五四運動まで中華民族の自殺率は低いものであった。 五四運動によって、「孔家店を撃ち潰せ」以降、儒家思想が弱まって自殺者は増えた。 作家を例にして言えば、楚の屈原から五四運動前まで、作家の自殺は合わせても30人を越えず、平均して百年ごとに一人という割合である。 これ以降、特にプロ文革期間中、作家の自殺は夥しく増え、その人数はこれまでの数倍を超えてしまった。 五四運動以前の自殺した文人・作家を挙げれば、屈原以降宋元の転換期に、文学者の謝枋得は、何回も元の朝廷からの出仕の勧めを断り、20数日間絶食して死んだ。 明から清への転換期、崇禎の進士陳子龍は、民衆を集めて抗清の戦いを続けて敗北し捕まったが、南京への護送の途中、39歳の若さで川に身投げして自殺した。 上記の3人の自殺は、いずれも「周の粟を食わず」という「民族的気骨」のためであった。 ここから見ても中国人に与えた儒家思想の影響はいかに大きいかがわかるであろう。 近代以降西側からの影響で自殺の原因も少々変化して、いろいろの社会的要因が入るようになった。 彼が24歳で自殺したのは、通説として失恋だと言われているが、実際は憂国の情がないでもない。 34歳で入水自殺した朱湘は、性質が率直ゆえに、安徽大学での講義の内容について大学当局と衝突し、怒りの余り辞職してしまった。 原稿料の収入だけでは生計を立てられず、旅館の家賃を払えなくて旅館内に拘束されることさえあった。 途方に暮れた彼は、舟で上海から南京への途中、李白の入水自殺した場所である采石磯で入水自殺した。 文学者王国維の自殺の理由には色々ある。 カントやショーペンハウエルやニーチェなどの哲学思想の影響によって自殺したという説もある。 また羅振玉から借金を責められて困り果てた説もあるし、清の王朝に殉じたという説もある。 陳舜臣氏も、「3年前にも一度自殺未遂事件を起こしたことを考えると、自殺の動機はやはり、没落し滅亡していく古い世界に殉じたと考えるべきであろう」と書いているが、中国の学者はいう。 彼 王国維 は清が滅びてから溥儀の師匠をしていたが、皇帝復位活動に参加することは念頭になかった。 しかし、あくまでも彼は溥儀の臣民で、自分よりも溥儀の安危を重要視しなければならなかった。 彼は「君が侮辱されれば臣が死ぬ」という旧道徳旧礼教の桎梏の下でとうとう「義は重ねた侮辱無し」という理由で、自分の生命を絶った。 われわれは王国維のために忌む必要がない。 この近代史上の優れた学者は、実際、旧道徳旧礼教の殉道者である。 自殺の伝統のなかった中国で、その時期これほど多くの自殺者を出したのは大抵政治運動によるもので、近代まで自殺者が少なかったのも、現代の政治運動で夥しく自殺者を出したのも、いずれも、儒教思想の影響によると思う。 前者は「身体髪膚之を父母に受く。 敢へて毀傷せざるは孝の始めなり」、という影響であるが、後者は、儒教の「士は殺されてもいいが、侮辱されるべからず」という「気骨」のためであろう。 プロ文革以降の文人・作家の自殺の原因については、80年代中後期の社会の転換期に繋がっている。 商品経済の衝撃によって、文学の方舟は狂熱的な頂上と、読者や社会の供えた神壇から墜落して立ち往生の境地に陥った。 情勢の激変は文人の位置づけのやり直しを要請し、時宜にかなって筆の方向を変えさせるが、適応できない文人は自殺に走りやすい。 ルポ作家の徐遅の自殺は正によい例である。 文学者の極致とは、切腹の前に武士が辞世の句や歌を詠むのと同様の姿勢で、一生涯書き続けるような作家が書遺すものは、いわばすべてが辞世の歌だ。 芸術家の世界は常に異常であり、病的である。 創造的職業はうっかりすれば健康に有害と言える。 なぜかというと、作家は生命を創造するという比類なく魔術的な力を備えており、作曲家、画家などよりも、より多く創造者だからである。 造物主の役割を簒奪しようとする志向は、他のいかなるジャンルの創造者よりも強い。 自分の血で書かれたものであるから、そんなにやすやすと消されない。 自殺した日本の詩人・生田春月の次の詩 或る肉体は、インキによって充たされている。 傷つけても、傷つけても、常にインキを流す。 20年、インキに浸った魂の貧困!或る魂は、自らインキにすぎぬことを誇る。 自分の存在を隠蔽せんがために、 象徴の烏賊は、好んでインキを射出する は、作家とその作品との血肉の如き関係をいきいきと示している。 詩人、ドイツ文学翻訳家としての生田は烏賊のように「インキ」で感傷的な詩多数と3巻からなる自伝体の長編小説「相寄る魂」を残して、船から湖の中に身投げした。 春月さんはペンで戦わなかった戦いを死によって戦い、ペンで書き上げなかった生きた詩を死によって書き上げたのである。 創造は創造者に最高度の自由を感じさせる活動である。 最高度の自由とは、恐怖の外に身を置くものであって、霊感というものに捉われている時、恐れるものは全然ないと言っても過言ではない。 そんな時彼らは天の寵児のように、自らの命を絶った同業者を見下げていた。 が、時が経つにつれて、その自分自身も我が命を絶つ決意をする時が訪れる。 三島由紀夫はそのよい例である。 彼は30歳の時、「私は自殺する人間が嫌いである。 自殺する文学者というものをどうも尊敬できない」と放言していながら、15年も経たないうちに彼自身も「自殺する文学者」となった。 また、川端康成も、「末期の眼」のなかで、「いかに現世を厭離するとも、自殺はさとりの姿ではない。 いかに徳行高くとも、自殺者は大聖の域に遠い」という大言壮語を発した何年か後に、やはりガス自殺を遂げた。 あらゆる芸術家の中で、作家は最も傷つきやすい。 文人・作家は社会の脈動に敏感で、同じ苦悩でも並みの人よりもっと強く感じられ、自分の人生を小説と混同しやすい。 21歳の若さで惜しくも自殺した文学少女久坂葉子がよい例である。 川崎重工の創始者川崎正蔵の孫娘に生まれた「箱入り娘」としての彼女は14歳の頃、戦災で家屋を焼かれてしまった。 泣き面に蜂というのか、次いで父親が「公職追放」され、勉学中の彼女は喫茶店などでアルバイトをして生計をたてざるをえなかった。 天上から地に落ちた彼女の心は、その時から既に傷痍だらけになっていた。 困苦の生活にくじけなかった彼女は、島尾敏雄や富士正晴などの指導で、18歳で「ドミノのお告げ」という小説を発表し芥川賞候補者になって文名が上がった。 昨年11月頃の「朝日新聞」は、久坂葉子についての文章を載せたが、文章の副題は、「戦後の恋に散った久坂葉子」であった。 確かに久坂は伝統観念に挑戦した勇敢な娘であって、彼女はある詩の中で隠すことなく京都のある男性への愛を告白し、そしてその愛が結実できないことへの苦悶を述べた。 新旧時代の交叉した時代に、才華に溢れた彼女は、生活の重荷を担がざるを得なかったし、古い伝統を打ち破って美しい愛情を追求しようとしたが、思うままにならなかった。 不如意は彼女に宿命論を信じさせ、死以外に打開策がないと信じ込ませた。 古い傷痕に新しい傷痕が加えられ、彼女は小説と現実を混同してしまって、とうとう自殺したわけである。 何事も集団で一致して行われる日本社会では、もっぱら個人的な職業としての文人・作家は、当然ながら自殺しやすい立場にある。 文人・作家は一人ぼっちの作業で孤独になりやすいが、孤独は自殺に密接につながったものである。 浅原六朗氏は、牧野信一の自殺の原因を分析した時、作者のもつ孤独地獄は、作者にしか解らないものである。 作者はお互いにその哀しみをもっている。 それをお互いに持ち合わせながら、慰め合うことのできない世界に作者の孤独地獄はあると書き、 また、彼のお母さんが牧野の弟の子供をつれて海に行こうとした時、「さびしくっていけない。 海なんかに行ってくれるな、ここにいてくれ」とたのんだそうである。 しかし子供がせがむので、お母さんは子供をつれて海に行ってしまった。 その留守に彼は死んでしまったのである。 隙をねらって自殺したのではなく、隙のなかに吸い込まれてしまったのであると牧野が孤独を怖がって、自殺に走ったことをありのままに伝えている。 太宰治の場合も、自己独自の閉ざされた世界の中に住み、外界との生ける接触感の欠如にいつも悩まされていた。 本質的に他者と了解不能であるという恐怖を持っていた。 他者や外界には本能的に興味を抱かない。 彼の関心は内閉的な自己の世界だけにあった。 個々から見れば、孤独は自殺の温床と言えそうではないか。 社会的現実に姑息的、妥協的態度を取らずにとことんまで突き詰めることは自殺に走りやすい。 人間は大抵、いわゆる阿Qの「精神勝利法」があるなら、どんな事態が起こっても自分で悩みを解消させることができて、自殺せずにすむわけである。 現代に比べれば、近代の文人・作家の中には、少なからず社会的現実に姑息的、妥協的態度を取らずにとことんまで突き詰めるような人がいた。 彼らは、yes と no のどちらかをあくまで守り通す性質がある。 例えば芥川の場合、未来はプロレタリア階級のもので自分の出る道はないと決め付けて、「ぼんやりとした不安」を感じた。 それに新しい時代に、彼の友人であった久米正雄や菊池寛などは、通俗小説のなかから活路を見つけ、大きな成功を獲得したのに、芥川だけは頑として、いわゆる「純文学」の陣地に立てこもり続け、少しも妥協しようとしなかった。 一作ごとに練りに練った挙げ句、彼の文学創作は枯れてしまうことが避けられないことになった。 政治的にも文学的にも明るさを見出せないという事態に、彼は自然に自殺に逃げ道を求めたくなる。 太宰治の場合は、なかなか自分の信条を変えようとせず、自分の堕落を大目に見られず、「失格」した人間として、死ぬよりほか道がないと決め付けていた。 僕たちはそれ以後、彼ほどに共感させられる文学を未だ知ることなく、彼ほどに純粋な真摯な作家を未だ発見することができないのです。 なぜ文革以前の中国の文人・作家の自殺は少なかったかと聞く読者がいるかもしれない。 前述したように、中国の文人・作家は、生死問題に対して、まったく別な文化系統に属し、観念の上で日本人と全然違っている。 中国の古代社会でも社会動乱、政治暗黒、専制迫害などしばしばあるが、中国の文人・作家は自殺より別な出道を見つけるようにした。 魏晋時代の知識人がその代表的なものである。 政治的迫害を受けた場合の普遍的な対策は、馬鹿のように狂気のふりをしたり、毎日酔っ払って支配者の注意を紛らす。 一身不自保、何况恋妻子 自身でさえ自ら守れないのに、ましてや妻子を恋しく思わんや。 迫害が今にも来ることがわかっていた竹林七賢の一人、阮籍は、自殺せずに酔払いの振りで誤魔化した。 いま一人の竹林七賢、劉伶も有名な大酒である。 そのほかに当局と合作せずに老子・荘子の道を嗜み、自殺するどころか、かえって延年益寿を求める。 稽康はその例である。 仏教の虚無的思想は彼らの精神を支えて乱世の中で解脱を求め、自分の手で自分の生命を絶つ考えなど毛頭なかったのである。 中世では、情死よりも武士の自殺が多かった。 それに対して、文人・作家の自殺は少ない。 中世から近世までは、武人の切腹自殺も情死も多発し、益々日本人の自殺の伝統を固めた。 明治維新以降、思想は幕府の支配から解放され、文明の進歩とともに見せはじめた社会の歪みに抵抗するように、文人・作家の自殺が多発する。 それらは社会に訴えるものが多かったので、デュルケムの言う「アノミー自殺」の類に属している。 軍国主義時代には、集団本位的自殺が多発するが、文人・作家では少ない。 戦後になって主に社会との矛盾による文人・作家の自殺が種々起こるが、いずれもケースバイケースで一概に論ずることは出来ないのである。 次に三つの面から見てみよう。 あとの芥川之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成の4名とも自殺した。 前章で述べたように、自国の人々が誰も彼も集団を組んでいるのに、作家だけが孤独な創作エネルギーで時代に対抗するよりほかはない。 それでもし書く力が尽きたり、霊感が枯れたり、憂鬱やパニックに陥ったり、思想的行き詰まりが出たりしたら、自民族の倫理観に打開策を求めるのである。 日本の作家の場合、各国の作家に共通するものに加えて、日本民族なりの「郷土色」を帯びない筈はない。 日本の倫理思想は神道が基礎となっており、日本人の道徳価値観の中に宗教心理と宗教情緒として深く存在する。 中国の倫理思想は、血縁関係、宗法制度を基礎としているから、これによって形成された等級身分制、権力本位観念は今もなお中国社会に影響を与えている。 日本人の倫理思想は、ほかの国々と全く違った歴史文化の背景の下で生まれ、発展してきた。 紀元5世紀まで日本には土着民俗信仰としての神道思想があった。 「古事記」「万葉集」などに見られるように、すべてを神の威力に帰して、現世を肯定、生命を謳歌する思想であった。 日本の倫理思想を変化させたのは、中国の儒教と仏教の導入である。 紀元7世紀の初めに、聖徳太子は政治変革を目指して留学生を中国に派遣し、直接、儒教と仏教を導入した。 その時から日本の倫理思想は、神道から儒仏思想を吸収する方へと変容したが、当時、自殺を認めない文化としての儒教は、主に仏経などへの信仰と崇拝に止まり、社会生活の道徳の中には、まだ沁みこんでいなかった。 一方、8世紀になってから仏教は国教とされ、以来、江戸時代まで仏教倫理はずっと社会生活の中で主導的地位を占めるようになった。 仏教文化は、死を容認する文化であって、中国の浄土思想が伝わって以来、早く死んで極楽浄土に往生しようとする者が増える。 仏教では、「生あるもの、形あるもの、必ず滅す」という理念に発端し、肝心なのは、浮世の儚さを悟って仏のお慈悲を乞うこと。 仏は芸芸たる衆生のことを可哀相に思って、死を以て浮世からの解脱を諭す。 したがって浄土宗系仏教では、死のことを死と言わずに「往生」と言う。 浄土思想は、死を容認する文化的背景を作り出した。 浄土往生の願いは、社会組織の下で生きざるを得なくなった人間が、名聞利養といった非本来的な価値や欲望に衝き動かされて生きる状況を、如来の智慧によって虚妄の現実と気付かされたところに成立した願望であった。 命の営みの根源から、人間意識の表層に念仏という幽かな回路を通して届けられた智慧が、浄土願往生の心であった。 単一の宗教に偏執するのを好まない日本人は、神、儒、仏が並立し、競い合い、習合し、道教、道家思想もそれらと並立しているにもかかわらず、神道、仏教思想の影響で、日本人は現世を肯定する思想よりも死を容認する思想が強いようである。 16世紀中頃、キリスト教も鹿児島に上陸し、日本に伝わってきた。 キリスト教で最も大切なのは、死んで魂が天国に行くとされることである。 この世はその準備のためで、用意のない魂は地獄へ落ちる。 堅く自殺を禁じ、この世での生存はいくら辛くても、それに耐えられる人が天国に行けるという。 神の作った生命を、人間が勝手に絶つと言うことは、創造主にたいする反逆だとされる。 しかし幕府の鎮圧によってキリスト教は日本の支配的宗教にはならず、死を容認する思想はあまり影響を受けなかった。 江戸時代は、日本儒学の発展の最も輝かしい時代であって、理論的に朱子学派、古学派、陽明学派などが形成され、封建主義的道徳思想がよりいっそう実った。 鎌倉時代から発展してきた「武士道」が、神道と仏教の影響のほか、儒学の影響をも受けて、武士の道徳は更に理論化、系統化された。 仏教は武士道に運命を穏やかに受け入れ、運命に静かに従う心を与えた。 神道は、武士道の中に主君への忠誠と愛国心を徹底的に吹き込んだ。 また、それは江戸時代に儒教思想の朱子学などに裏付けられて、封建支配体制の観念的支柱となった。 忠誠、犠牲、信義、廉恥、礼儀、潔白、質素、倹約、尚武、名誉、情愛などを重んずる。 もし、名誉と名声が得られるのであれば、サムライにとって生命は安いものだと思われた。 そのため生命より大事だと思われる事態が起これば、彼らはいつでも静かに、その場で一命を棄てることもいとわなかったのである。 すなわち、日本人の価値観は、集団のため、自身の名誉のためなら、いつでも自殺する心構えでいるというものである。 武士道のこの死生観は、日本人の死生観に多大な影響を与えた。 後になって武士道は軍国主義者に悪用されて、侵略された国々の百姓を無断で殺す道具に成り下がったが、日本の武士たちの自殺は、いわば標準的なデュルケムのいう「集団本位的自殺」と言えよう。 国家仏教としての仏教思想の影響が重いせいか、日本人は、死を終点と看做さずに、起点と見ている。 芥川は、「けれども、自然の美しいのは、僕の末期の眼に映るからである」と書いている。 川端康成と三島由紀夫の「輪廻転生」信仰は周知の通りであるし、透谷や太宰なども死をいろいろに美化し、理想化したり、憧れさえしたりしていた。 こういう思想は、ある程度、自殺を助長する働きを果したと言えよう。 大正10年11月20日に、教え子梅子と千葉県の海岸で心中した評論家野村隈畔の自殺直前の日記には、 10月2日、愈愈革命来る。 自由実現の絶対境に入るのである。 4日、永遠の世界を憧れている者は、俗人には分るものか……永劫無限の世界に旅立つ、是れ哲人の希望であり、歓喜である。 明20日こそ断じて決行しなければならぬ、日誌は今日で終を告げる。 永劫への世界の旅行者 隈畔 とあるが、自殺のことを、何か憧れの未知の海外旅行のようにさえ思わせるではないか。 一方、昔から、日本列島のなみなみならぬ生活環境、頻発する台風、地震、火山噴火などの自然災害による死亡の突発性と不可抗力は、日本人に仏教の「人生無常」の観念を強めた。 この観念の支配の下で、日本人は切に生命を把握し、生を大切にする一方、死亡を尊敬したり、崇拝さえしたりする。 いわゆる「惜生崇死」である。 日本人の理念には、「菊と刀」に書かれているように、二律背反な面がある。 「仕事の鬼」と言われるほど懸命に働く一方、また思う存分娯楽を楽しむ。 極端に自我を抑圧する一方、また極端にストレスを紛らすことをする。 日本人の民族的心象と民族精神は、このように矛盾だらけである。 日本のこうした特異な思想史と価値観によって、自殺を制限する宗教観はないと言えそうである。 自殺は、ある特定の場合の問題解決の手段として、かなり多くの日本人の心の中に根を下ろしてきた。 これはさらに、「死はすべてを浄化する」という贖罪思想にまで繋がってきた。 「引責自殺」も多く出る。 因みに、日本人には、昔からの古い自殺の伝統がある。 日本語から外国語に入ったものとして、どの言語の辞書にも、有名な二つの語があるという。 それは、「切腹」と「神風」である。 この二つの単語とも自殺にかかわるのである。 確かに、日本ならではの文化である。 日本における自殺は、愛するものにとっては悲劇であることに変わりはないが、文化的には恥辱なことであるとか、宗教的な嫌悪感を伴わないことも事実である。 それどころか、自らの手でこの世に別れを告げることには、むしろ崇高さに近い感情が存するように思われるのである。 西洋人は、精神が錯乱したり、権利を剥奪されたり、絶望したり、もしくは利己的でさえあったりした者が最後に行き着く場として、自殺をとらえる傾向がある。 中国人は、迫害されて途方にくれる時以外に普通は、自殺を考えない。 それに対し、上に述べた原因で、日本は、文化的には全く特異な性向を持っており、特定の場合の自殺という考え方は、日本文化にもっと深く根差したものである。 男の自殺なら大抵、政治的な失敗による自殺のケースが多い。 鎌倉時代から戦国時代にかけて、武士道精神と禅宗精神が流行り、武士の切腹が多発した。 たとえば、1189年の「判官」源義経の自殺などがある。 元禄時代以降、切腹と心中の歴史は事実よりも文芸に移る。 文学作品「平家物語」と史書「我妻鏡」には、平維盛、平敦盛、熊谷直実などの死が描かれている。 維盛の場合、集団から離脱した時、既に出家、入水を決めている。 集団からの離脱はつまり一種の自殺行為であった。 もちろん、入水や焼身などで、浄土での再生を願うという宗教的性格も帯びている。 敦盛の場合は、武士の名誉のために、直実から逃げなさいと言われても逃げようとせずに、とうとう直実から討たれた。 逃げられる機会を与えられても逃げずに名誉の死を遂げたことも、実際一種の自殺である。 なお直実の場合、我が子が頭に浮かんで、やむを得ず敦盛を殺してから出家遁世したのも、実際やはり一種の自殺と言えよう。 したがって、村井康彦氏は 中世の自殺ないしは自殺的行為を特質づけるものとしては、このような宗教的な意味をもつものとともに、武士社会の発展のなかで見られたそれを見落とすことはできない。 なぜなら、武士社会に生まれた主従意識昂揚、それを基調とする武士の実践倫理ともいうべき「もののふの道」「武者の習」は、つねに死と隣合わせであったから。 「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは、近世武士道の書「葉隠」の言である。 と説明しており、こうした中世の死-自殺の 的行為 精神構造を検討するとき、自分自身を客観的にある種の状況に追い込んだうえではじめて行動を決定するという、こんにちでも日本人にみとめられる精神構造と行動様式とが、実は中世に形づくられたものであることが思われてくるのである。 と結論している。 封建時代の日本において、自殺の作法が儀式化され、たとえば、江戸時代では、有名な赤穂47浪士の復讐後の全員切腹や美濃平野の治水の失敗による薩摩藩士35名の引責切腹などがそれである。 情死・心中も自殺の一種である。 宮島喬氏は、「わが国で「心中」とよばれる複数自殺のうち、情死は、恋愛感情をともなうものをさす」と書いており、周作人は、「情死のことは「昔からあるものである」、南北朝時代には、記載が見られるが、「心中」という名称は徳川時代の産物であった」と書いている。 なぜ近世になってから、心中・情死などは多くなったのか。 宮島喬氏は 封建身分制度の確立した江戸時代には、武士階級の道徳が支配的な位置に立ち、家の観念、貞操の観念がつよめられ、未婚男女の交際は禁じられ、身分の差のある者どうしの結婚はゆるされなくなる。 しかし、農民や町人の階級には、自然の性愛を肯定する古来の伝統がある程度存続しており、とくに経済的に台頭する町人は、その金力にものをいわせて遊女たちと性愛を享楽することが可能になる。 こうした性愛の肯定や結婚の否定という二つの価値の対立という背景のもとで、主として町人のあいだに情死の流行がみられるにいたった。 と大原健士郎氏の説明を引用している。 なお、近世では、文学作品の中に出てくる自殺の形は、「切腹」と「心中」が多数ある。 たとえば、黙阿弥「加賀鳶」の五郎次の入水、「三人吉三」の土佐衛門伝吉の入水、「弁天小僧」の中の弁天の「たちばら」、西鶴の「好色五人女」の中の樽屋おせんの自殺、「忠臣蔵」の中の判官の切腹など。 心中情死も切腹と並んで近世社会の特徴的な自殺である。 たとえば、近松の「曽根崎心中」の手代徳兵衛と遊女お初との心中、「心中天網島」の中の紙屋治兵衛と遊女小春との心中などがある。 近世の自殺は、要するに、罪状刑罰からの逃避や厭世や生活難や失恋などのものではなくて、封建社会的関係連帯の中における自己以上の誰かのために自殺するタイプが多い。 だから、ある学者が「日本近世劇の自殺の大半は第二の愛他的自殺だ」と言っている。 近代の明治時代には、文芸評論家の北村透谷や小説家の川上眉山などが自殺したが、大正時代になってから、作家有島武郎の波多野秋子との心中事件があった。 多くの人々から「男女心中」と取られていたが、それは単なる心中ではないと思う。 太平洋戦争時の「神風」特攻隊と「回天」人間魚雷は自殺ではあるが、本当の意味で言えば、脅迫的な自殺と言えよう。 昭和時代以降、世界中の注目を集めた「武士道精神への回帰に象徴される」とされる作家三島由紀夫の1970年の自決などは、全世界の世論を賑わわせたし、その後の川端康成のガス自殺も、いろいろの謎を世の中に残した。 有島と三島という2件の自殺は、人々に近世の心中と切腹の尾を引いたかのように思わせた。 したがって、この特殊な死生観の問題は、日本人文人・作家の自殺者が多い重要な原因の一つだと思う。 上古の日本民族は現実の事物に素朴な親近感を持ち、自然に「まこと」の文学理念を形成した。 皇室や民間に伝えられてきた神話・伝説・説話や歌謡は、天皇中心の国家体制の確立や国威の誇示を意図して編まれた「古事記」「日本書紀」「風土記」に取り入れられた。 ……古代の人々はこの大和の風土の影響を受けながら、明朗素朴でたくましい気風をはぐくんできた。 その気風は、そのまま上代文学にも反映され、感動を率直に表現した素朴で力強い「まこと」の文学を生んだ。 ところが、世界を悲しむという仏教の人生観は、思想意識体系のバックに欠けていた日本の美意識の中に素早く浸透するようになった。 楽天的に現世に直面する、「まこと」の美学観は、悲しみに溢れた「もののあはれ」に取って代わられた。 中古文学は優美・繊細な情趣を基調とする。 その中心理念は、しみじみとした「もののあはれ」である。 それは、生活に調和的優美さを求めてやまぬ平安貴族が生み出したものであり、はなやかさの裏に、社会の矛盾を鋭く感じ取って、苦悩の日々を送った女性たちが生み出した理念でもある。 「もののあはれ」は紫式部の「源氏物語」で完成した。 浄土宗は貴族や庶民のなかに普及した。 それは、この汚れた現世を厭い 厭離穢土 、一心に念仏を唱えることによって、死後は極楽浄土にゆくことを求めよ 欣求浄土 と説き、悩める人々に光明をもたらし、文学にも深く浸透した。 「幽玄」は、「もののあはれ」の流れをひくもので……南北朝時代から室町時代にいたると、正徹が余情妖艶美の幽玄を唱えたのに対し、心敬が氷のように冷え冷えした平淡な美の情趣を求め、近世の「さび」につながっていくのである。 中世になって動乱に次ぐ動乱は、人心に不安から逃れようとして、心の救いを宗教に求めさせた。 この時代の文学には、優雅な貴族文学から現実的な庶民文学へ移行する過渡的な姿が見られる。 宮廷貴族は気力を失い、武士は戦乱に追われて文学に志す者が少なかったので、文学の担い手として、戦乱をよそに文筆に親しみ、作品を残したのは、主として僧侶・隠遁者であった。 したがって、鴨長明の「方丈記」、吉田兼好の「徒然草」、源平盛衰を描いた「平家物語」などは、仏教的無常観の色の濃い文学として、後世の人々の人生観や死生観などに多大な影響を残してきた。 近世になってから、文学理念としては、町人文学の「粋」「通」「意気」などが生じたが、蕉風俳諧は、閑寂・枯淡の境地を求める「さび」を求めていた。 芭蕉の「さび」は、内面的で、しかも人間的なものの中に発見された「心の色」といえよう。 桜は、綺麗でありながら命を惜しまずに、燦爛たる咲き盛りを過ぎると未練なく萎えて、大地一面に落英で飾りまくる。 日本人はあたかもこの桜のように、咲かないならば、それまでであるが、咲くと言えば燦爛として咲かなければ気がすまないのである。 特に切腹自殺を美化する風潮として、江戸時代の浄瑠璃作家近松門左衛門が20年間に15点、自殺を描く本を書いたと言う。 腹を割って首を切って血が2メートルあまり迸り、その苦痛は烈しいものなのに、日本人は、これは「壮絶」というくらいの美だと思い、痛みを我慢する時間が長ければ長いほど、美しいという。 日本人の中には、切腹してからの流血を眺めることを美談として、それは、たとえようのないほど美妙で壮烈なものだという人もあったそうだ。 惨めであればあるほど壮烈になるのである。 三島の切腹が求めたのは、まさにこういう「美」の効果と言えよう。 近代に入ってから、外国からいろいろの文学思潮が導入され、日本に色々な文学流派を形成させてきたが、「もののあはれ」「さび」などという哀愁の色と日本人独特の審美観は、相変わらず一部の作家の頭脳に残り、それはそのままその作品の中に表れ、それは言うまでもなく、自殺を誘発するもってこいの条件となる。 72歳でガス自殺した作家川端康成とその作品が、典型的な例である。 彼は「哀愁」の中で次のことを書いている。 敗戦後の私は日本古来の悲しみの中に帰ってゆくばかりである。 私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。 現実なるものもあるいは信じない。 川端の美学意識の中で、伝統的「真・善・美」は「哀愁・虚無・幻覚」の美と変容してしまった。 民国から1949年に至るまで、やはり少数であった。 1949年から1976年までは、政治運動で知識人を抑圧する迫害によって自殺した文人・作家は多数になった。 1977年から198五年まで社会は安定していたので、文人・作家の自殺は少数であつたが、1986年から現在にいたるまで、転換期による矛盾とショックによって多発した。 この時期の文人・作家の自殺は、デュルケムの第三種類の「アノミー自殺」に属している。 次に三つの視角から見てみよう。 が、一方、「殺身成仁 身を殺して仁と成す 」「舎生取義」 生を捨てて義を取る 」という言葉が示すように、「仁」・「義」のためなら、自分を殺してもいいということを主張している。 例えば、幸徳秋水は、伊藤博文を暗殺した安重根の行動を、「舎生取義 殺身成仁 安君一挙 天地皆震 秋水題」 生をすてて義をとり身をころして仁をなす安君の一挙 天地みなふるう と褒めていた。 幸徳も安も中国人ではないが、もちろん中国の儒教思想の影響を受けていたであろう。 なお、孔子は論語「里仁編」において言う、「朝聞道、夕死可矣 朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり 」と。 まとめれば、儒教では生を惜しむ一方、仁を目指したり、道を習得したりする場合、決して死を恐れないという態度である。 つまり、必要ある場合の自殺を認めないのでもない。 道家では、自殺を容認しないばかりか、「自然」「無為」「修身」を主張し、煉丹によって長生きさえ求める。 「禍莫大於不知足、咎莫大於欲得」 足りるのを知らないことくらい大きい禍はない、得しようとする欲くらい大きな咎めはない 老子「道徳経」 と、楽天知命を提唱していて、煉丹によって長生きを求める。 仏教では、輪廻転生、来世を重んじるが、仏教が伝わってきた時、儒家思想の倫理観が既にしっかりしたものとなっており、儒家では、社会生活の理性精神を重んじるので、それによって、「人々はめったに空想して精神的な「天国」を追及し、人倫道の生きた経験生活を離脱して超越、先験、無限と本体を追及することをしない」。 それは「詩言志」や「文以載道」という観念である。 「尚書・舜典」には「詩言志、歌永言。 聲依永、律和聲」 詩は志を言い、歌は言を詠む。 声は詠みにより、律はその声に和す とある。 「文心雕龍」には、「大舜云:詩言志、歌永言」 大舜曰く、詩は志を言い、歌は言を詠む、 が書いてある。 「志」とは何か。 「志」とは、内心に隠される思想感情といえそうであるが、先秦以来、儒家は「詩言志」を主張し、詩を政治道徳の道具としていた。 それでも、実際、「思想」「志」「抱負」を重んじるが、思想感情は排除していなかった。 前後漢になってから、「廃黜百家、独尊儒術」と言って、儒家思想は学術文化の凡ての分野を制御していた。 「五経」は一切の文学作品を計る最高基準となってきた。 漢の儒者の目から見れば、文学は経学の従順な奴隷にすぎない。 彼らは、詩歌の政治教化の作用を強調し、詩歌には、道を載せることを要求していた。 したがって、「志」は「情」を遠ざかり、「道」「義」に偏ることを要求された。 「文以載道」も中国古典文学の基本的理念の一つである。 「道」とは何か。 ここでは、「道」とは「儒家思想」をもっぱら指している。 宋の「五子の一人」周敦頤は「不載物之車、不載道之文、雖美其飾、亦何為乎」 「文辞第 二十八」「周子全書」 物を載せない車、道を載せない文、その飾りは美しいが、亦何の使い道があろうか と言って、「載道」の重要性を強調した。 実際、孔子、孟子の思想の中には、既に、「文以載道」のような思想が含まれていた。 ただ周敦頤はそれをまとめて、最初に「文以載道」という言葉で、こういう理念を表した人物である。 儒学、宋学 程朱理学 がいずれも官学となるにつれて、「文以載道」は中国古典文学の「最高指針」となってきた。 「五四運動」の「新文化運動」の中では、ある程度、こういう文芸理念は批判されたので、「五四」以来の文学には、政治を離れて人間の情けと情欲を描いたものが現れた。 そして、王以仁、朱湘などの自殺した文人・作家も現れたのである。 専制的国民党時代の「莫談国事」 国事を語ってはいけない や延安時代以来の「文芸は必ず政治に奉仕しなければならない」などで、中国では、五四以来の魯迅らの作品以外に、自律性のある文学というものは、ほとんどなかったのである。 体制反対とか、哀愁色彩とかいうものはかなり少なかった。 こういった文学理念が、作家の自殺を誘うことは、まずないと思う。 次は、中国人の審美観を見てみよう。 中国人の美意識は社会生活の理性精神に富んでいる。 儒教では、美の社会性、功利性を重んじている。 儒教の美学観は美の社会性、功利性が強く、社会生活、倫理道徳につながる。 道教では、人格精神と天地自然との統一を求めている。 上記から見て、道教は人間が物によって役されることに反対し、「自然」「無為」を主張し、人格心身の絶対な自由を要求するからと言って、人生が嫌になり、来世を求めることはしない。 したがって中国人には、仏教の影響による悲観厭世の美意識はたいへん少ないのである。 上記から見て、中国人の美意識は社会生活の理性精神を重要視し、人々はめったに空想して精神的な天国を追求しない。 虚無的精神的追求は少ないのである。 ・「忍辱偸生」 侮辱を忍んでどうにか生きていく。 これらは中国人の死生観をよくあらわしている。 こういった死生観は、中国の特別な社会歴史の要素によって形成されたものであるが、この中には、中国人の倫理観、価値観が潜んでいる。 奴隷社会では、「普天之下、莫非王土、率土之、莫非王臣」と言われ、貴族に反対する古代ギリシァ、ローマのような強大な平民がなく、氏族から転じてきた奴隷主の貴族のみが政権を握っていた。 国家が作られてからも、元の血縁関係から離脱しなかった。 封建社会では、小家庭を単位とする農業と手工業の結合で、安定して自己調節できたので、資本主義の芽生えを抑えていた。 そして支配階級は文化専制主義を推し進め、秦の始皇帝の「焚書坑儒」、漢の武帝の「廃黜百家、独尊儒術」など、人々の思想を制圧してきた。 科挙を通じて人材を選抜する一方、他方では残酷に異端を弾圧して、「学」と「仕」に結びつけるようにした。 したがって倫理思想は政治と一体化し、強固な血縁と宗法色彩を帯び、強烈な「中庸」の息吹を持っている。 それで人倫、精神、人道を重んじて、倫理を実現し、功業を達成させることを生命よりも高いものとされていた。 儒家と道家の思想の影響によって、「五四運動」までは中華民族の自殺率は低かった。 「五四運動」の「孔家店を打ち砕け」による儒家思想の弱まりによって、いくらか自殺者が増えた。 資料収集と紙幅に限りがあるので、日本近代以来最も影響のある10人の自殺だけを例にして、その自殺の原因を分析してみよう。 いくつかの項目により比較する一覧表を次の通り作ってみた。 19世紀末から20世紀はじめにかけての日本の近代史は、西洋社会の進歩を圧縮した形で一時に再現しようとした時代であった。 西洋の目覚しい進歩は、長い伝統を基礎として初めて可能であったが、ところがそういう基盤を持たず、鎖国期の孤立した社会から突如として近代社会への転換を企てた日本の場合には、数え切れない複雑な問題が現れた。 最も社会に敏感な階層としての知識人は、社会の抱えた問題に気づきやすい。 しかも、それへの反感から、批判を加えたり、抵抗したりして、大人しくする「順民」は少ない。 したがって、文人・作家の自殺は、ある程度から言えば、社会の風見のようになっている。 文人の自殺の様子から、大体、その当時の社会の事情を窺うことができるわけである。 筆者があげた日本の最も有名な自殺文人の置かれた時代は、北村透谷の生まれた1868年から、川端康成の自殺した1972年にわたって、前後して104年、一世紀あまりである。 日本の時代区分から言えば、ちょうど明治維新の年から、沖縄返還実現と日中共同声明国交正常化の年にかけてである。 明治時代全般、大正時代全般と昭和時代の大半をカバーしている。 前述の分析を通じて、我々は、文人の自殺は殆ど、社会の脈動に深くかかわっていると分る。 北村透谷の場合、近代自我と時代・社会との対峙相剋を認識し、魂の触覚を近代の外部に伸ばそうとし、社会の猛烈な抵抗に遭遇し、社会に自我の確立を求められず、悩みの挙句、遂に若くして生命を絶ったし、自殺のドミノ効果を引き起こした16歳の一高学生藤村操も、天皇絶対主義・国家主義思想の蔓延した中で、近代自我に目覚め、「先に国家、後は個人」に哲学的懐疑、苦悶、絶望した結果、自殺したのである。 この二人の自殺は、もちろんデュルケムの言う「社会的統合力」にかかわっていた。 一方では、明治時代は江戸時代ほど統制が強くなかった点において、この二人の自殺は近代社会の文明や進歩を標識してはいるが、もう一方では、彼らの自殺した時の社会は、決して統合力が弱い方でもないのである。 むしろ明治中期の天皇絶対主義や国家主義思想がのさばっていた時代と言えよう。 明治維新はアジアのどの国よりも早く、立ち遅れた封建的生産関係生産方式の束縛を突き破って新しい生産方式と社会文化を成功裏に作った一方、維新以降の「富国強兵」の政策は、列強の弱肉強食の国際規範に因襲し、侵略略奪の歪んだ道にずれたので、先覚者が、必ず、それを疑ったり、それに反抗したりするのは当たり前である。 この二人の自殺は全く自己本位とは言えず、後の人々に対する先駆や目覚ましの作用があり、少なくともある程度、積極的自殺といえそうである。 それで、ある意味では、デュルケムの理論では説明しにくくなる。 川上眉山の場合、侵略に拍車をかけて、人民の生活難に見向きもしない明治政府のもとで生計に困った上、自然主義思潮の気勢にのまれた悩みから自殺したのである。 文学的に行き詰まりという点では、自己本位の種類というデュルケム理論に当て嵌められるが、もう一方では、まさにデュルケムの見逃した経済的原因によったものであるので、デュルケム理論はやはり当て嵌まらないのである。 大正時代に自殺した者は、この10人の中、有島武郎ただ一人であるが、彼の自殺は男女心中の形ではあるが、逍遥の言う「消極的自殺」の類に属している筈であって、宮島喬氏のまとめた「宿命的自殺」の中に分類できそうに見えるが、前述したように、その深層的原因として「第四階級」の発展を予感し、自階級の前途への絶望を感じた上、社会道徳から追い詰められて、知識人の潔癖から、経済的方法で解決しようとせずに、愛情至上に逃げ場を見つけて、「生命の燃焼」という自殺をしたのである。 したがって、有島の自殺もデュルケム理論では、完全に説明されにくい。 昭和時代になってから、芥川龍之介の自殺は、精神的要因以外に主として彼自身が言ったように、未来社会への「ぼんやりとした不安」がその要因である。 牧野信一の場合も、その本人の神経衰弱も原因の一つであるものの、「2・26事件」発生の9カ月後、国内の右翼勢力の台頭が牧野の社会への絶望をもたらさないとは、断言できるであろうか?ましてや、牧野の場合、眉山と同じように、生計困難というデュルケムの見逃した原因もあると思う。 有島、芥川、牧野の自殺は、確かに社会的原因に関わってはいるが、社会的統合力が弱くなったという明確な証明が見られないではないか。 太宰治の自殺は1948年に起こったのであるが、その当時の社会はまだまだ「特需」とか「神武景気」とか「岩戸景気」とかいう経済飛躍の気配は毛頭見せていなかった。 焼け跡や闇市などの敗戦のシンボルともいうべきものがなお残っていた。 とくに、侵略戦争を起こして「御国」のことを無限神聖なものとし、人間の個人の自由と利益は、殆ど全部奪い取られてしまう戦争中の思想への統制さえなければ、敗戦後、その反動としての堕落鼓吹に全力を尽くした無頼派が生ずることは、まずない筈である。 したがって太宰治などの退廃と堕落もあるはずがない。 したがって、あくまで追求すれば、無頼派の退廃、堕落と社会への絶望の根源は、やはり、この「大東亜戦争」にあるのではないかと思う。 もちろん、戦後の滅茶苦茶な社会で、ほかの人はなぜ自殺しなかったのかという点からすると、太宰や田中英光自身には、確かに彼ら自身の原因も認められる。 太宰と田中の自殺はある程度、デュルケムのいう「アノミー型自殺」に近いと思う。 社会的要因を最も著しく表現したケースは、原民喜の自殺である。 研究者たちはいろいろ民喜の精神的要因を過大視して、その社会的原因を見逃した。 虚無的要素も否定できないが、米、ソなどが核戦争を起こそうとして社会に核の脅威をもたらしたため、彼は戦争に対しての反感、抵抗と恐怖から発する人類の前途への絶望などが主な原因となって自殺したのである。 当時の情勢が、核戦争になりそうな危機一髪のものでなければ、原民喜は、ひょっとしたらもう少し生き延びただろうと思う。 ところで、70年代初めの三島由紀夫と川端康成の自殺にも社会的要因があるが、事情はだいぶ違うものだと思う。 なぜかと言うと、太宰治の自殺までは、社会はまだ、いろいろ不満足な点が多かったが、70年代以降、平和憲法のもとで、一歩ずつ民主化へと歩むとともに、人民の生活も、世界の経済大国になったくらい豊かになった。 社会的歪みが既になくなったとはもちろん言えないが、大きな流れとして、日本は基本的に、ある程度、自国の世界での位置と果たすべき使命が分るようになって、平和を求めるために、世界の人民との心の触れ合いを求めようとしている。 それなのに、このような社会に不満を懐き、自殺を敢行したケースは、何と言っても反社会的な行為と言わざるを得ない。 三島の場合は、過ぎ去った「大日本帝国」の伝統を追求し、パフォーマンスをやってのけた自殺であったし、川端の場合、社会の発展、進歩が自分と全然関係ないという現実社会への不満から、美への発掘をする中で仏教的涅槃に憧れる虚無的生死観を懐き、「功成りて名遂げた」時、涅槃的な自殺を遂げた。 この二人とも輪廻転生の夢を見ていたのかもしれない。 さて、社会、国家乃至世界という視角で歴史的に全面的に文人の自殺を見れば、その自殺者には、それぞれ違った生理的原因とか、心理的原因とかがあるにもかかわらず、その共通となる主な原因は、社会的要素となっている。 これまでの多くの研究者、特に、精神医学者たちは、自殺者の生理状態や心理状態に拘り過ぎて、自殺者を国内乃至国内の社会環境の中に置くことをあまりせずに、自殺文人の個人的生理的原因を過大視したりして、「神経衰弱」や「狂気」や「非社会的」とかいう結論を下す傾向がある。 文人であるだけに、神経は繊細で、自分の置かれたマクロ・ミクロの社会環境に、並の人の倍ぐらいに敏感であるから、ごく個別のケース以外に、たいていの文人の自殺は、社会的原因と切り離すことが出来ず、社会学的に説明できそうである。 日本の近代までは、心中や武士の切腹が多かったが、近代に入ってから、文人作家の自殺が著しく増える。 バッシュレール理論によれば、時代の発展と文明の進歩の標識と言える。 現代では自殺する作家がますます少なくなるのは、近代以来の文人・作家たちほど、真剣に社会への使命感に燃え、真剣に人生を思索することをしていないことを物語っていて、これもかなり思索に値するのではないかと思う。 辛亥革命で清王朝が倒れたが、革命の成果は軍閥にのっとられ、反封建主義、反帝国主義の「五四運動」が起こるまでに、革命先駆者としての陳天華は、海に身投げして封建主義反対の先兵となった。 陳天華の自殺は藤村操の自殺よりも、積極的意義がある。 それと反対に、倒れた清の廃帝の教師を担当したことから、孔孟の古い倫理道徳に殉じた王国維の自殺は、取るに足らなかった。 「五四運動」があってから、胡適や陳独秀や魯迅などが、封建文学を倒そうとした結果、現代文学としての「狂人日記」などが現れたばかりでなく、儒教思想の束縛から解放されたからこそ、王以仁や朱湘などの自殺があったのである。 したがって、王以仁や朱湘などの自殺は、その軍閥混戦の社会の歪みを訴えるとともに、封建王朝の束縛から解放された社会の進歩をも示した。 この点では、透谷や眉山などの自殺と大差がない。 とりわけ、貧困に追い詰められて自殺した朱湘の場合、生計に困って人の厄介になる引越しの前日に自殺した眉山と、なんと似通っていることであろう。 ところで、陳布雷の場合、わりと特殊なケースであるが、中国の知識人としての彼は、自分が将来性のない人に仕えて、誤った道に嵌ったと知っていながら、改心しようとせずに、あくまでもその政権に殉じたことも、儒教思想の束縛以外の何物でもない。 1949年からプロ文革にかけては、中国の文人・作家の災難に満ちた歳月であった。 連続した政治運動は、「三反」「五反」「鎮圧反革命」運動以外は、殆どその矛先は全部知識人に向けられたものであった。 「反右」の時に自殺した文人作家はまだ夥しいとは言えず、プロ文革中、非業の死に迫られた文人作家は数えきれないのである。 しかし、この3人とも儒教思想の影響から、自分の人格を守るために死を以って迫害に訴えたのである。 ここから見て儒教思想は、人間に「気骨」というものを与えることができ、糟粕でない精華部分は馬鹿にされない。 大陸と社会制度の違った台湾作家三毛の自殺は、何と言っても、やはり、仏教の虚無的思想の影響によるものだと言えよう。 三毛の自殺はデュルケムの婚姻事情の法則に当て嵌まるものである。 あの世に行ってしまった夫の傍に行きたいというのは、社会とそれほど関係がなかったかのようであるが、実際、三毛に不安感を生じさせたものは、社会以外の何物でもなかった。 ルポ老作家徐遅の自殺は、1996年に起こったことであるが、これは、転換期の純文学を頑張った文人・作家の心理的アンバランスの屈折による。 それとともに、現代社会の社会病--老人問題を仄めかしている。 この点において、田宮虎彦や江藤淳などの自殺と似通ったところがあるのではないかと思う。 まとめて見れば、日本、中国の文人・作家の自殺には、個別なケース以外に大抵、社会事情がかかわっている。 日本の文人・作家の自殺は、同じアジアの中国の作家・文人の自殺とは社会事情の違いで、完全にデュルケム理論で説明しきれない。 透谷や操などの自殺には積極的な一面があるが、デュルケムたちは、それを見逃している。 一方、三島、川端の自殺は、透谷、操の自殺と同じく反社会的性格を持っているが、透谷、操の自殺は、進歩的思想を代表し、社会の前進を推し進める働きがあるのに対し、三島、川端の自殺は、逆コースを代表していて、社会の後退を願っていたから、消極的な作用と影響が大きい。 しかし、自殺は、倫理上、いったい悪いかどうか、これはかなり複雑な問題である。 昔から自殺に対しては、哲学者や宗教家によってさまざまな意見が述べられ、そして、時代や国や民族や信仰などによって道徳的な評価には、幾多の変化も見られた。 カントは故意に己れの生命を断つことは、まづ其が一般に犯罪であると証明され得る場合にのみ自殺 homicidium dolosum と名づけられる。 この犯罪は或いは吾吾自らの人格に対して行われ、或いは又かく己の生命を断つことによりて他の人格に対して行われる 例えば妊娠している人が自ら死ぬ場合の如く と書いて自殺を基本的に否定しているが、また、 祖国を救うために自ら万死の中に突き進むことは自殺であるか?--或いは人類一般の福祉のために身を犠牲に供する決意的殉教は亦之と等しく英雄的行動と看做さるべきか という疑問を出している。 坪内逍遥は、「自殺は二大別あり、殆ど救ふべからざるものと救ひ得べきものと、是れなり」と分類し、「救ひ得べきもの」を「消極的自殺」と「積極的自殺」に分けている。 逍遥の結論として、 自殺は絶対に非なるにあらず、利他救世の誠意の存在は多少之れをして是ならしむるなり。 但し単に自己の為のみにする消極的自殺は概ね皆非認すべし。 その形体苦のためにすると精神苦のためにすると其の有形を対象とすると、無形を対象とすると、動物欲のためにすると悔恨、慚愧、憤怨、嫉妬のためにすると名誉欲、権力欲、究理欲等のためにするとを問はざるなり。 そのうち業秒不治のために自殺するは人情の上より之れを憫み、罪悪悔恨のためにするは倫理上より見ても幾分か是なりとなす。 若し夫れ謂ふ所超倫理の批判に至りては、悉く人類と絶ち悉く人道を離れて事を是非するの標準成り立たざる限りは、殆ど全く意義無きにひとし というものであった。 筆者は逍遥の観点に基本的に同感している。 普通の中国人の目から見れば、自殺は生存意志の貧弱な臆病行為だと言われる。 実際、プロ文革中の自殺者はほとんどが冤罪を蒙って自殺したのである。 「江東の父老」に面する顔がないと烏江で自決した項羽は、絶対に劉邦を畏れたというわけではない。 項羽は自殺を以って、自分の名誉と節操を保てたのである。 プロ文革中、中国現代の優秀な作家老舎の場合、その投水自殺も絶対に「罪」を畏れるのではなくて、自分の人格を紅衛兵の侮辱から守るためであった。 したがって、自殺者にたいして、一概に弱虫だと論ずることは公平を失うことであると思う。 否定論として、臆病や無責任や人生の敗北などであるとか、精神が錯乱したり、権利を剥奪されたり、絶望したり、利己的に過ぎる人間にはもってこいの末路 西洋人 である、とかがある。 それに対し、肯定論としては、何かよいものを追求したり、悪いことと抗争したり、それから逃避したり、人々に訴えたり、呼びかけたり、目覚ませたりするように、危険や侮辱から個人の人格と尊厳を守る行為で、勇気のある、男らしくて尊重すべき行為とか、正義、正統とされる事業や人間に殉じる英雄的な行為とか、恥ずかしくて自分の汚名を雪ぐような背徳謝罪や引責謝罪の行為とかがある。 全体から見れば、カトリック教の影響の強い国では、自殺は少ないが、仏・禅の影響の強い国では、自殺はわりと多い。 国と民族によって違う自殺に対しての議論と評価はケースバイケースである。 各種の文化の是非を評論することは難しい。 ある要因に迫られて死よりも生の方がもっと苦しく思われる場合とか、または、人間らしく堂々として健康に生活していけないうえ、生存条件を変える力がない場合とか、果てしない苦しみからの解放策として、良心をごまかして辛うじて生きていくより、むしろ清らかで潔く死んでしまうほうがいいという自殺した死者を厳しく非難することは出来ない。 それにしても、自殺はあくまでも生命の誤った道であって、人間の生命は尊いもので、一回しかない。 そして、人類の歴史と全ての財産は人間の生命活動の基礎の上に作られてきた。 避けることが出来ればやはり自殺しないほうが妥当である。 無視できないことには、現代社会では、生を軽んずる傾きは往々にして現代意識の中の人文思想に繋がっている。 人々はますます人間の自己価値、個性、尊厳、独立人格、内省を重んじれば重んじるほど、現在の秩序の抑圧と人間関係の隔たりによる孤独感と苦悶が生じやすい。 そこで自殺に救いを求めるのである。 これは、社会のよりよい改善と現代科学意識の発展に期待を寄せるとともに、有益な古典を勉強して、現代でますます希薄化していく人間自身の心理素質と精神の修養を高めるほうも肝心ではないかと思う。 同じ東アジアにおいても、儒家思想の影響で中国の文人は特殊な政治運動の時期 それでも気骨を守るための自殺は多い 以外に自殺者が少ないのに対し、神道、仏教の影響で日本の文人は自殺者が多い。 日本、中国の文人・作家の自殺は本物の精神病によるものが極めて希で、殆どが社会的要因に関わっている。 この点について、フランスの社会学者デュルケムが誰よりも先に社会的要因に着眼した「自殺論」の意義の重要性は否定できない。 全体的に言えば、日、中の文人・作家の自殺は社会的要因という点で、大抵のケースはデュルケム理論に当てはまるものである。 然るに、デュルケム理論はあくまでも、19世紀のヨーロッパの国々に向けたものであって、百年来のアジアの日本と中国に全てがぴったりと当て嵌まるわけではないのも理解できそうなことである。 宮島喬氏の指摘したとおり、「自殺論」の著者は、自殺の「社会的」要因をいろいろ挙げるに当たって貧困、経済的危機、病苦といった要因を見逃しているので、日本の川上眉山や牧野信一や中国の朱湘などの自殺は、デュルケム理論で完全に説明できなくなるのである。 なおデュルケムは、自殺する人間の動機を受動的なものとして固定的に捉えているように思われ、自殺者の主観的能動性 社会発展に積極的な自殺及び社会発展に不利な消極的な自殺に分けられると思う を見逃している。 透谷や操や陳天華や老舎などの自殺には積極的一面がある一方、三島や川端や蓮田や王国維など、社会の後退を願ったものであるから、その消極的な作用と影響は無視できない。 プロ文革中、社会の統合力がいままでになく強いのに、夥しい数の文人・作家の自殺者を出したのは、政治運動の迫害によるものである。 婚姻の良好状態は自殺者のへ圧力を緩めるのに足らないことを物語っている。 だから、デュルケム理論は常態社会にしか当てはまらないが、非常態社会 中国のプロ文革中など には当てはまらない。 それから、明治という専制支配時代の文人・作家の自殺は、低年齢という特徴があるのに対し、60年代後半に入ってからの文人・作家の自殺は、田宮虎彦や江藤淳や徐遅などのように、高年齢化の傾きがある。 老人問題という深刻な社会問題を仄めかしている。 新作映画の公開はもちろん、「冬のソナタ」を初めとするテレビドラマも次々とNHKBS2で流れている。 「冬のソナタ」で一気にスーパースターとなったぺ・ヨンジュンは「ヨン様」と呼ばれ、多くの中高年女性の心を掴んだ。 ヨン様は電通が行ったインターネット調査「消費者が選んだ2004年上半期の話題商品ベストテン」の第4位となり、彼は大塚製薬「オロナミンC」、ロッテ「フラボノガム」と「マカダミアチョコレート」、SONY「ハンディカム」、ダイハツ「ミラ」、KDDIau「グローバルパスポート」などのテレビコマーシャルに出演するなど、日本のテレビや雑誌に引っ張り凧となっている。 一方、韓流には負けまいという勢いで、映画や流行歌をはじめとする香港のポップカルチャーも日本に進出している。 昨年末、梁朝偉 トニー・レオン 、木村拓哉、章子怡 チャン・ツィイー 、王菲 ウォン・フェイ といったアジアのスーパースターの豪華共演を実現できた王家衛 ウォン・カーウァイ 監督の香港映画「2046」が日本で初公開された。 中国のエンターテインメントと言うと、張芸謀 チャン・イーモウ 監督の「英雄」に続き、章子怡、金城武、劉徳華 アンディ・ラウ をキャストとするアクション映画「ラヴァーズ」も大いに日本で受け入れられた。 そして、中国の古典楽器に西洋的ポピュラーミュージックを融合させた「女子十二樂坊」は2003年から連続2年間日本で演奏会を開き、日本中に旋風を巻き起こした。 これらの現象を考えてみると、どうもアジア漢字文化圏のメディアとポップカルチャーの交流は、非常に顕著になっており、アジア全体の文化向上のためにそれぞれの国と地域はお互いに協力しているように見える。 かつて、ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体」1983 の中で国民国家という共同体は活字メディアと国語の普及により作られたものだと指摘した。 現在、映画、テレビや衛星放送、CDやDVD、インターネットといった新しい視聴メディアは、あたかも地域共通の「汎東アジア文化」とでも呼ばれるものを生み出しているようである。 このような流れの中で、日本のポップカルチャーはアジア地域においてどんな影響力を持っているのか、地域の文化向上にどんな役割を果たしてきたのか、そしてなぜ広く消費されたかについて、今日は、主に1990年代半ばから2002年まで中国でヒットした日本のトレンディ・テレビドラマ 通称「日劇」 を例にして、日本の文化商品を消費する一つの主力である中国人大学生の声を交えながら、分析していきたいと思う。 ここで用いるデータは、主に中国における日本大衆文化の受容に関心を持つきっかけを与えてくださった香港大学の中野嘉子博士と共に、2001年から2年にかけて北京、南京、上海、蘇州で行ったインタビュー調査の結果である。 今日のお話も二人の共著の論文「プチブルの暮らし方 中国の大学生が見た日本のドラマ」をベースにしている。 ここで取り上げる例は、経済発展の著しい江南地域の都市部に住む大学生のことであるから、彼らの日劇に関する考え方や日本観は中国の一部の大学生の声しか反映できていないことを敢えて強調したい。 私のお話を聞いていただき、日本大衆文化の海外での受容の現状や、1990年代以降の中国の急激な社会変動を少しでも理解してくだされば幸いに思う。 1990年代初期、中国の計画経済システムが全面的に市場経済に移行するにしたがって、大都市では外資系のデパートやスーパーマーケットが次々とオープンし、その豊富な商品、多彩な陳列法、そして明るいショッピング環境が中国人の目を丸くさせた。 ケーブルテレビ、衛星テレビネットワークの実現やマスメディア産業の発展は、中国人が海外の映像を見るチャンスを増大させた。 スイッチを入れれば、外国の人々がどんな日常生活をしているのか、画面上でいつでも見られるようになった。 こうして外国人との暮らしの違いが目に見えるようになった1995年3月に、上海東方テレビ放送局は中国語版の日本テレビドラマ「東京ラブストーリー」を放送し、大ヒットさせた。 これをきっかけに、日本のテレビドラマは中国の都市部若者の間で人気を集めた。 ここで言う日本のテレビドラマとは、1980年代後半のバブル絶頂期に制作し始め、そして1990年代に入ってからのバブル崩壊を背景に、フジテレビ、TBSなどの民放テレビ局が制作した東京の若者の都市生活を描くトレンディ・ドラマやポスト・トレンディ・ドラマのことを指す。 20代の人気アイドルが主役であるから、中国では「日本青春偶像劇」と呼ばれ、また「日劇」とも略称される。 これはテレビがまだ普及していなかった1980年代 千人に一台 の頃に、中国全土でヒットした日本のテレビドラマとは全く違うタイプで、主に台湾や香港でのブームを受け次第に中国の都市部若者の間に浸透してきたものである。 1980年代の人気日本テレビドラマというと、主に四つある。 第一は、テレビ番組の不足を埋めるために海外の番組を輸入し始めた80年代初期に、上海電視台によって中国語に吹き替えられた「姿三四郎」である。 次のヒット作は、日本女子バレーボール選手の戦う姿を描いた「サインはV」である。 三番目は、1984年に放送された山口百恵の「赤い疑惑」である。 当時、このドラマの放送時間になると、皆一目散に帰宅したり、テレビのある親類や友達の家に集まったりして、町中の道路が閑散となったという人気振りだった。 四番目のヒットドラマは「おしん」である。 これらの人気ドラマに共通する特徴は、いずれも各年齢層を越えて注目を集めるホームドラマであり、伝統的な家族生活、家族愛、人間関係、若者の純情、誠実な愛情、日本人の勤勉さ、忍耐強さ、残酷な運命と戦う精神などを描くものが多かったのである。 それは、主に視聴者層が10代後半から30代半ばまでの若者向けの恋愛ドラマという点で大きな違いがある。 北京、南京、上海、蘇州などでインタビューをした時、大学生たちは皆楽しそうに「東京ラブストーリー」「ロングバケーション」「GTO」などのことを語ってくれた。 彼らにしてみれば、日劇の魅力はストーリーの面白さ、キャラクター、ドラマの魅力を高める制作技術 テーマソングとバックグラウンド音楽、行き届いた細部描写、繊細な心理描写などの非言語効果の使用 、適切な長さ、文化的近似性 容姿、感性、愛情表現、人間関係 などの要素である。 しかし、中国の現代化した都市地域に暮らす若い学生たちが最も共感を抱いたのは、日劇の中に映った中国国内のテレビ番組にはないリアルな等身大の物語、つまり自分と同じ年齢の異国の若者の大都会での恋愛模様、友情、仕事、暮らしぶりなどである。 例えば、2001年に南京の東南大学で調査をしたとき、コンピューター・サイエンス専攻の大学3年生王浩君は、「東京ラブストーリー」を見た後の感想を次のように述べてくれた。 完治は日本の会社に勤めているごく普通のサラリーマンでしょ。 僕らもあと2、3年で彼のような会社員になりますよね。 そうすると彼の身の上で起こった恋愛物語は僕の上でも起きるかもしれないし、僕の周りの人々にもあるかもしれない。 上海同済大学で力学を専攻し、夜は繁華街のパブでピアノを弾いて月に2万元の高額なアルバイト代を稼いでいる四年生の陳傑君は、福山雅治と常磐貴子主演の「めぐり合い」を4、5回も見て、心がゆさぶられるほど感動したという。 このドラマが僕に深い印象を残してくれたのは、とても自分の生活に似ていて、これまでにない共感を覚えたからです。 …中でも福山雅治が演じる役に最も共感します。 彼は建築エンジニアですが、僕の専攻もそれに近い。 彼は撮影が好きなので、卒業後建築関係の仕事に就かず、アルバイトをしながら、写真を撮ったりして、撮影の勉強をしていました。 つまり、職業を選択することや、理想の仕事と現実生活の関係を処理することにおいては、このドラマは僕と共通点がありますね。 僕も時々音楽を自分の職業にするかどうか迷っています。 ですからこのドラマを見たとき心が痛みました。 人間は自分の道を選択する時はとても迷ってしまいますね。 陳君は結局高給取りの方を選択し、今も徐家にある台湾人経営のパブでピアニストをしている。 彼のこの証言は、日劇のリアリズムが若い視聴者を惹きつけ、彼らに感情移入を引き起こさせたことを示唆している。 ドイツとの教育や文化交流が盛んな上海同済大学でコンピューター・サイエンスを専攻している銭勇君は、日本の若者のライフスタイルに目を向けている。 彼は次のように語ってくれる。 彼らは狂ってるほど仕事をしてるね。 週末も残業をする。 大企業はHigh-risesがいくつもあってね。 日本人は水を沸かさないで直接蛇口で飲む。 彼らの冷蔵庫はでっかいね。 スラム街に住んでいる人もいるが、金持ちはみんな高級マンションに住んでいる。 「ラブ・ジェネレーション」でみたら、日本人はセックスに対してとても開放的でね。 夜遅くまで外で生活をしてる。 男女デート用の専門ホテルさえあるし… ドラマの中の暮らしぶりが若者に注目される点は、戦後日本の「朝日新聞」に掲載されていたアメリカのマンガ「ブロンディ」が日本人に受容された頃の状況を連想させる。 当時の日本人にとって、電化製品に囲まれたアメリカ人の便利で豊かな家庭生活は夢のようだった。 中国の若い学生たちの目に、「衣食の心配がない」日本の若い男女が送っている自由で充実した豊かな都市生活と美しい恋愛物語は夢のように映る。 中国では長い間、テレビドラマを娯楽ではなく教育メディアとして捉えてきたから、共産党のイデオロギー的な要素が強く出てくる。 新中国誕生とその発展の歴史や、社会主義建設の業績、改革開放の著しい成果を題材にするドラマは、キーノート・ドラマといって、国家のプロパガンダのような役割を果たしている。 娯楽としての主力ドラマには、時代劇がある。 清朝の宮廷を舞台に、清廉潔白な官僚と貪欲な悪徳官僚を対照的に描くことで、実際は現代の政治腐敗を風刺している宮廷ドラマは特に人気がある。 香港の作家金庸、古竜の原作に基づいて制作した、日本で言う剣豪ドラマも人気がある。 もっと身近な題材のドラマというと、主に都市と農村の住民の家庭生活を描くホームドラマや、「改革開放の問題点」とされた浮気、失業、犯罪などのことを扱ったドラマがある。 どれも内容が切実で、若い人々に夢を抱かせるようなおとぎ話ではない。 主義主張のない娯楽映像というと、香港、台湾などの華人社会の映画・ドラマ、そしてハリウッドと日本のものがある。 恋愛ドラマは、1980年代の後半から香港、台湾、シンガポールのものが放映されてきたが、これも日米のアニメを見て育った世代には物足りなくなる。 というのは、これらのドラマは、往々にして金持ち一族の話で、家柄の格差がモチーフで、若い世代のラブストーリーに親世代の葛藤が織り込まれ、幾組かのカップルが登場し、主人公の年齢設定も少し高い。 話の展開が複雑だから、延々と40話以上続いてゆく。 親が姿を見せない一人暮らしで、恋愛そのものをテーマにし、その過程におけるさまざまな喜びや悩みを繊細に描写するものは稀だった。 そこへ、織田裕二演じる田舎ッ子の永尾完治が、鈴木保奈美演じる都会ッ子の同僚赤名リカと恋に落ちる「東京ラブストーリー」が放映され、大当たりしたのである。 突然、こういった種類の日本製トレンディ・ドラマが出てきて、描いている主人公は自分たちの年齢と大体同じで、ストーリーはまた身の回りでおきる可能性のあるラブストーリーですから、みんな興味津々でしょう。 上海大二女子経営学専攻2002年夏 中国の若者には、東洋の隣国の大都会にいる同世代の主人公たちが繰り広げる恋愛物語が新鮮に映った。 ハリウッド映画は、1995年から年に10本輸入され、中国語に吹き替えて上映されるようになり、香港映画と共に中国の娯楽映像の主流となっている。 しかし、ハリウッド映画と日本のテレビドラマとを比べると、上海外国語大学英文科の2年生で、学内放送のDJをしている陳偉君は、「 たとえば両親が映画で ヨーロッパ系の人を見ていると、非常に自分とは遠いなという感じすると思う。 つまり動物園でも見ているような感じ。 日本人を見ていると、お互いに似ているという気がします。 みなアジアの民族ですから、感情面が理解しやすいし、彼ら ドラマの人物 が何を考えているのか理解できるから」と、文化と感性の類似性から日劇の受け入れやすさを語ってくれた。 その影響で、日劇の人気は1990年代の半ばに、上海という国際大都市で爆発的にヒットした。 1995年3月に中国語に吹き替えられた「東京ラブストーリー」が上海東方電視台により放映された。 このドラマはその後すぐ北京と地方都市のテレビ局からも放映され、全国的に好評を博した。 この結果を踏まえて、中国各地のテレビ放送局は、質の高い日本ドラマを導入し始めた。 日劇は、中国国内のテレビで放映される場合、まずテレビ放送局で中国語に吹き替えて、直轄市や省レベルの地方テレビ局、もしくはケーブル・チャンネルで放映される。 中央電視台や衛星チャンネルのネット放送網を通じて全国的に放映される場合もある。 しかしなんといっても中国における日劇の普及は、上海の各テレビ局による放送に負うところが大きい。 例えば上海電視台14チャンネルの「白蘭氏劇場」は、上海各テレビ局から中国語字幕つきで原語による外国の映画とドラマを放映する番組である。 1997年から、この「劇場」は普段勉学に忙しい学生のために、日本のテレビドラマの番組に倣って、「日曜劇場」と銘打った時間帯を設け、中国語字幕付きで日本語のドラマをそのまま流す番組を作って、毎回2、三話の日劇を放映してきた。 青少年を対象にする上海教育電視台も、2000年より毎夕6時から7時までの1時間を「青春劇場」とし、主に日本のドラマを放映してきた。 上海東方電視台は、平日の連夜、いわゆる帶番組で日劇を放映していた。 1990年代半ば頃から2002年まで、上海で放映された日劇は、「101回目のプロポーズ」「一つ屋根の下」「理想の結婚」「Beautiful Life」など、50作品を超えていた。

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【Switch】あつまれ どうぶつの森 45日目【あつ森】 : ゲーム

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はしごの作り方 はしごを作るまでの手順• 最初の橋を建設する• たぬきちからハウジングキットの設置を頼まれる 3ヶ所• たぬきちから「はしご」のレシピがもらえる• 必要素材を集めてDIY 1:最初の橋を建設する たぬき商店解放後、たぬきちから新住人を迎えるための家の土地を探すように頼まれます。 そこで川の向こう側に渡るための「橋」をレシピをもらえるので、橋を建設しましょう。 2:ハウジングキットの設置を頼まれる 3ヶ所 橋を建設後、新住人の家を作るための「ハウジングキット」を3つたぬきちから貰います。 3:たぬきちから「はしご」のレシピがもらえる ハウジングキットを3つ設置後、新住人を迎えるための「家具」を作るために高台にある「花」が必要になり、たぬきちから「はしご」のレシピがもらえます。 はしごの必要素材 必要な素材 個数 あつ森の最新情報• あつ森の注目記事• 序盤の攻略記事 出発前の攻略記事• 到着後の攻略記事• マルチプレイをする方向け• スマホとアプリの情報一覧• やり方と使い方の解説記事• イベント• 住人情報• 性格別• 種族別• DIY• 素材の効率的な入手方法• シリーズ物のDIY一覧• 魚一覧• 虫一覧• 化石一覧• 海の幸一覧• 掲示板• ゲームの購入前に知りたい情報• 英語版wiki English•

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