事件 備忘録。 事件備忘録

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事件 備忘録

平成13年8月14日 「剛士ぃっ!!!!」 人通りの多いJR神戸線立花駅前のコンビニエンスストア前の路上では、多数の捜査員と揉みあう若い男女の姿があった。 暴れまわる金髪の女に対し、向き合う形で捜査員に引き離された痩せこけた男は、錯乱状態で泣き叫ぶその女を茫然としたまなざしで見つめていた。 この様子はその日の夕方のニュースで全国に放送され、見たものは二人の異常な様子に唖然とした。 この日から1週間前、男と女は小学1年生の女の実子を凄惨な暴力の挙句に殺害し、こともあろうか事件の発覚を恐れて近くを流れる運河に遺棄したのだ。 その遺体は、黒いごみ袋に詰められていた。 男児は勢田恭一くん(当時6歳)。 度重なる虐待から児童養護施設で生活していたが、事件の直前、8月1日から10日間の予定で一時帰宅となっていた。 恭一君は、「嫌やなぁ、(家に)帰りたくない」と泣いていた。 そして、その7日後に、殺害されてしまった。 事件まで 母親はその名を知子という。 当時24歳で、殺害された恭一君の下にも次男がいる。 2度の結婚歴があり、恭一君は最初の夫との間の子供だった。 恭一君は当初、知子と夫が離婚したのち、西宮市内の夫の実家に預けられていた。 恭一君はその祖母宅で愛されて育ち、何の心配もなく健康に成長していたが、小学校入学を来春に控えた平成13年になって突然、知子が恭一君を引き取りに現れたという。 知子は恭一君の親権は持っており、それまでも何度か会いに行ったりはしていた。 知子はすでに再婚しており、夫である剛士(当時24歳)とともに西宮を訪れ、このときは半ば強引に恭一君を連れ帰った。 しかし、2月に入ってすぐ、つまり恭一君を連れ帰って一か月もしないうちに、恭一君は西宮子どもセンターに保護されてしまう。 ことの経緯としては、恭一君をこのセンターに連れてきたのは知子と剛士だった。 理由としては、恭一君が下の弟をいじめて困る、という相談だった。 しかし、ただならぬ様子の恭一君を診察した医師によれば、全身に及ぶ虐待の痕が見てとれたという。 全身に外傷からくる紫斑、皮下出血、そして鎖骨骨折の跡、血液検査からは筋肉組織の挫滅まで判明した。 このことがきっかけで、神戸市内の児童養護施設「尼崎学園」に入ることになった。 「なつかないので叩いた」 尼崎学園の芝明宏園長に、知子はそうつぶやいたという。 芝園長は、「あせらないで。 5年も離れていたのだから、すぐにいい親子になれるとは限らない」と諭した。 この時点では、知子も自分の至らなさを悔い、自分に悪いところがあると反省もしていたようだ。 恭一君を尼崎学園に預けてすぐ、知子は小学生になる恭一君のために、文房具やお祝いのカードなどを送り、同じ園で暮らす子供たちのためにハローキティ電報を15通も送ってきたこともあった。 4月に一時帰宅した後、最期の一時帰宅となった8月のあの日まで、尼崎学園は恭一君を知子夫婦のもとへは帰していない。 夏休みということもあり、8月1日から10日間の予定で恭一君は自宅へ帰る予定になった。 しかし、園の方針だったのか、その日になって突然恭一君にその旨を告げたという。 驚いて動揺する恭一君は、帰りたくないと言って泣いた。 それでも、指導員らがなだめるうちに、自分でビーチサンダルを用意するなどし始め、かえることに納得していたように見えた。 JR福知山線道場駅で知子夫婦が待っているというので、園の指導員が車で駅まで送ったが、その道中も「嫌やなぁ」と言って恭一君は涙をこぼしていた。 園が一時帰宅の際に持たせる食料品とともに恭一君を知子夫婦に引き渡したが、指導員は知子の言動が気になっていた。 そのまま旅行に連れて行く予定だったのか、知子が恭一君の荷物を確認し始めたという。 すると、「服が足りない!」と言って憤慨したというのだ。 久しぶりの息子との対面で、本来ならばうれしくて些細なことなどどうでもいいはずなのに、服が足りないと言って憤慨する知子は異様だった。 8月4日、立花町の文化住宅に住んでいた知子夫婦は、近くの公園での盆踊りに家族で出かけた。 しかし、知子の体調が悪くなり、早めに帰宅したという。 遊び足りなかった恭一君は不満そうだった。 そして、それを感じた知子もイラ立っていた。 翌5日。 恭一君の服にカレーが飛び散っていることに気づいた知子が、そのことを恭一君に訊ねると、恭一君は「気づかへんかった」と答えた。 至極当たり前の返答である。 しかしこれに知子は激高する。 いきなり平手で恭一君の頬を張ると、そこに剛士も加わった。 不貞腐れたように見えたのか、剛士も怒鳴り、恭一君に迫った。 ただ、彼らの真意はカレーが云々ではなく、自宅に戻ったというのに楽しそうではない恭一君の本心を知ることだった。 「園と家と、どっちがいいのか、誰が一番好きなのか」 恭一君はそう聞かれ、「ごはんやジュースをくれるし、おもちゃも買ってくれるし、剛ジィがえぇ」と答えた。 しかし、二人は全く納得しない。 どう答えれば納得したのかはなはだ疑問だが、知子はしつこく恭一君に訊ねた、誰が好きなんや、と。 知子や剛士を好きだと言っても納得しないことから、恭一君はつい、「園のねえちゃん(指導員の事)が一番好き」と言ってしまう。 知子は畳みかけるように訊ねた、「ママは怒るから嫌いなんやろ」と。 おそらくハッとしたであろう恭一君は、「ママが好き」と言い直した。 隣の部屋で聞いていた剛士が割って入り、「俺にも本当のことを言え、さっきは園の姉ちゃんが好きや言うたやないか!」とかわるがわる詰問した。 何を答えれば正解なのか、恭一君が分かるはずもない。 知子夫婦はすでになぜ恭一君に詰問しているのか、その理由すらわからなくなっていた。 黙りこくってしまった恭一君に対し、剛士は知子に聞いた。 「もうこいつ、しばくぞ」 それに対する知子の返事は、 「うん、ええよ、かまへんよ。 怒るときは怒ってや」 恭一君が「剛ジィが好き」「家が好き」と必死で答えても、剛士はそのたびに顔面を殴った。 園が良いと言えば殴られ、ママが好きと言えば嘘をつくなと殴られ、恭一君の逃げ場はなかった。 空腹だった恭一君は、園から持ってきたそうめんが食べたいといった。 この発言も、知子夫婦を激怒させた。 知子はそのそうめんを茹でずに、固いままの束を恭一君の口に押し込んだ。 むせる恭一君に、さらに麺つゆをビニール袋にいれ、残りのそうめんを放り込んで全て無理やり食べさせた。 知子は布団たたきで恭一君の背中をたたき続けた。 恭一君の死 6日の午前中、滞納していた電気料金を支払うため、知子と剛士は外出する。 その際、恭一君を縛り上げ、口にはガムテープを張って出て行った。 帰宅すると、恭一君は自分で縄を解き、おとなしく遊んでいたという。 その日行われた西宮子どもセンターのケースワーカーとの面談では、「恭一を引き取りたい」と申し出るも拒否され、それならばせめて延長をと食い下がって尼崎学園へ戻すのを1週間延ばさせた。 そうしなければならない理由があったからだ。 翌日7日の昼前、知子の母親がやってきた。 もともと仲が良い母娘ではなかったが、西成で日雇い労働者の人夫貸のような仕事をしていたその母親は、思いついたようにこうして立花町の娘の家を訪れていた。 しかしその日娘の家を訪れたのは、前日にただならぬ様子で知子から電話がかかってきたからだった。 「ママ、相談したいことがあるから来てほしい」 娘の夫である剛士とは、正直お互いが嫌い合っていた。 母親がドアを開けると、そこには疲弊した様子の娘夫婦と、その背後の部屋でぐったりとした孫の恭一君が目に入った。 ひと目で知子らが恭一君に暴力を振るったことは分かったが、この母親自身、知子やその兄らを殴って育てて来ていたためか、「こいつら顔殴りやがって(虐待がばれるやないか!)」としか思わなかった。 知子夫婦はその日午前7時ころまで寝ていなかった。 というのも、独り言を口にする恭一君にいら立った知子夫婦は、午前4時ころまで暴行を加え続けていたのだ。 しかも、午前7時ころに便を漏らした恭一君が知子らの寝室へ来た際には、剛士が激高して恭一君に回し蹴りした。 倒れこんだ恭一君は、そのまま動かなくなったが、二人はさして気にも留めずそのまま寝た。 「ビーチボールがないから、洗われへん、どうしよう」 これが、恭一君の最期の言葉だった。 恭一君の様子が尋常ではないことに気づいた知子の母親は、病院へ連れて行けと二人に言うが、「あかん。 虐待がばれる」そういって知子はそれを拒否した。 「そんなもん、病院の入り口に置いてきたらえぇんじゃ!」 ひっくり返りそうな発言だが、この母親はさも名案だと言わんばかりに言った後、話は済んだと寝入ってしまった。 知子の母親が目を覚ましたのは、保育園に行っていた次男が知子に連れられ帰宅した夕方近くだった。 次男と遊んだりしながら、気が付くと知子と剛士の姿はなく、恭一君の姿もなかった。 母親は、恭一君をようやく病院へ連れて行く気になったかと思い、そのまま知子夫婦が帰宅するまで次男の面倒を見ていたという。 午後10時過ぎ、ふと玄関に知子と剛士の姿があることに気づく。 ふたりはなぜかボストンバッグを持っていた。

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事件備忘録

事件 備忘録

「二人は将来を奪われた。 だから(犯人であるあなたも)未来があっていいはずがない」 彼女は職場の上司と同僚を目の前で殺傷され、拉致されたあげく口と鼻に接着剤を流し込まれた後、首を絞められ胸を刺され、瀕死の重傷を負った。 命は助かったが、その傷跡は季節の変わり目になると勝手に疼きだす。 そのたびに、あの日の忌まわしい出来事が嫌でもよみがえる。 包丁を見るたびに体が硬直し、円形脱毛症も発症した。 夜はラジオやテレビをつけていないと眠れず、うなされて飛び起きることもしばしばだ。 生きている自分を喜べないほどに、彼女の精神は打ちのめされたままだった。 2003年8月。 酷暑の熊谷市で、男女関係の恨みをかった男性が殺害された。 そして、たまたま同じアパートに居合わせた無関係の女性3人も巻き添えになり、うち一人は殺害された。 助かった女性二人も、かなりの重傷を負わされた。 犯人グループは男女3人。 主犯格は尾形英紀(当時26歳)という。 尾形はその後死刑判決となり、事件から7年後の2010年7月28日に死刑執行された。 しかし、被害者らにはもうひとり決して許せない人物が残っていた。 主犯格の男に殺害をそそのかした当時16歳の少女Aである。 (注:被害者について、鈴木秀明さん以外の女性被害者はすべて名前を伏せる。 理由は、被害者B,Cさんが勤務していた飲食店について被害者に不利になる情報があること、また、存命の被害者の精神的苦痛が大きいこと、さらには被害者がおそらく匿名を条件に応えたであろうインタビューなどを引用していることから、こちらも匿名とした) 忌まわしい「あの日」 2003年8月18日、熊谷市箱田7丁目にあるアパートの205号室で、B子さんは同じアパートの別の部屋に住む職場の上司・鈴木秀明さん(当時28歳)に頼まれ、スラックスのほころびを直していた。 このアパートは、鈴木さんやB子さんらの職場が寮として借り上げていたアパートであったため、住人は職場の同僚らで構成されていた。 そこへ、インターホンがなり、鈴木さんが応対すると、そこには尾形と少女A、少年の3人の姿があった。 B子さんは面識のない人物だったが、鈴木さんは知り合いのようで、何やら玄関先で押し問答をしているように見えた。 すると、一人の男が鈴木さんを自分の部屋である202号室に戻れ、と言うようなことを言い出した。 そして、B子さんにも同行するよう強要し、二人を鈴木さんの自室である202号室へと連れ込んだ。 そこで突然尾形が、鈴木さんを座らせたうえで罵倒し始めた。 「お前、わかってんだろうな。 なに俺の女に手を出してるんだ。 お前、俺の女をやろうとしただろう」 鈴木さんはひるむことなく「知らねぇよ、やってねぇよ!」と言い返したが、尾形は鈴木さんの頭を蹴ったり殴ったりし始めた。 そして、隠し持っていた包丁を取り出すと、鈴木さんの腹部に押し当て、軽く突くような仕草を見せてなおも脅した。 包丁を見てこれは尋常ではないと察した鈴木さんは、手を出したことは否定しつつも態度を一変させ謝罪した。 しかし、尾形は「ヤクザをなめんじゃねぇぞ!」などと激高し、俯せにつんのめった鈴木さんの背中を数回包丁で突き刺した。 唸り声をあげる鈴木さんに対し、「うううじゃねぇよ!」と言ったかと思うと今度は腹部を突き刺し、傷口からはみ出した鈴木さんの腸の一部を包丁の先に乗せ、「こいつ腸がでてるよw」と笑った。 そして、右ひざを包丁で刺した後、痛みでのた打ち回る鈴木さんに布団をかぶせると、「早く死ね!」と言いながら鈴木さんの首を踏みつけた。 鈴木さんは苦しみの中、出血多量で絶命した。 鈴木さんが死亡した後、標的になったのは当然、一部始終を目撃させられたB子さんだった。 尾形らはB子さんをその場から拉致し、失踪したように見せかけようと企て、少女AにB子さんの私物(財布や携帯など)を205号室に取りに行かせた。 少女はこの時、B子さんの3万円を盗んだ。 するとそこへ、たまたま鈴木さんを訪ねて同じアパートの106号に住むC子さんがやってきた。 出勤時間が過ぎても出勤してこない鈴木さんを心配した職場から、様子を見に行ってほしいと頼まれてのことだった。 不穏な空気の中、尾形らは悟られまいとしてB子さんに対応させようとしたが、B子さんは動揺しきっていたため、C子さんも同じように拉致して殺害しようと決める。 C子さんの私物を少年に取りに行かせると、C子さん方には人がいた。 同居していたD子さんである。 D子さんに顔を見られた少年がそれを尾形に伝えると、尾形はD子さんも拉致して殺害することにし、D子さんも鈴木さん方へ引き込んだ。 尾形らは車のトランクにC子さんを押し込み、B子さんとD子さんを後部座席に座らせた。 車は死のドライブへと走り出した。 尾形と少女Aのそれまで 尾形の幼少時代は詳しく知られていない。 新潮45の上篠昌史氏によるルポによれば、小学生時代に両親が離婚し、母親もその後病死、繁華街のマンションで一人暮らしをしていたという話があるが、実はこれは犯行時に一緒にいた別の15歳の少年の生い立ちである。 中学生の時、同級生との諍いでナイフを持ち出し、左胸部と背中を刺すという事件を起こす。 その後、友人らと恐喝や強盗致傷などの犯罪を犯し、中等少年院へ送られ、退院後もすぐに恐喝などの罪を犯して中等少年院へ逆戻りしている。 それでも私立高校へ進学していた尾形だったが、退学。 その後は塗装工などをしながら暴力団との付き合いも始めた。 平成9年5月、酔っぱらった尾形は通行人に因縁をつけ、暴行を働いたあげくその被害者に対して恐喝も行ったことで逮捕される。 平成10年2月に執行猶予の判決をもらったが、平成12年11月、再び通行人に因縁をつけて暴行し、逮捕された。 執行猶予中の犯行であったため、傷害罪で平成13年4月に懲役6か月の実刑を食らい、前回の執行猶予も取り消されて結局平成14年10月まで服役した。 出所後の平成15年7月、暴力団の後ろ盾を得てゲーム喫茶を経営。 二十歳のころには結婚し、娘も生まれていた。 同年7月10日に、少女Aと知り合った。 出会ったその日にSEXをした尾形は、少女Aを風俗に沈めて稼がせようと目論んでいた。 少女Aは、事件当時熊谷市内から西に30分ほどのところにある寄居町の県営住宅で母と暮らしていた。 姉(長女、次女)と兄、弟や妹の6人兄弟の三女として生まれた。 母親は再婚で、長女は連れ子だった。 1986年11月、再婚相手との間に生まれたのが少女Aである。 昭和57年築のこの団地は、5階建てで家賃が18,000円からというごく一般的な低所得者向けの住宅である。 少女Aが5歳の時、両親は離婚した。 原因は、母親によれば父親による虐待、家庭内暴力であったという。 資産家の実家を持つ少女Aの父親は、自身と血のつながりのない長女、そして次女、長男にひどい暴力を振るった。 その当時住んでいた家の隣にあった倉庫に縛って放置したり、長女に熱湯をかける、庭の池に投げ込む、尿意を覚えて訴えてもその場で垂れ流しにさせられるなど、常軌を逸した暴力が日常茶飯事であった。 少女Aはまだ2~3歳であったろうが、その光景を正座させられてみていたという。 夜も寝室の枕元には木刀が常備され、妻がSEXを拒むと木刀でふすまをたたき、下半身を丸出しにして家の中を歩き回った。 母親はわが子を虐待されながらも長らく離婚に踏み切れなかったという。 それはひとえに、経済的な理由であった。 ようやく離婚した母子は、新しい生活をスタートさせた。 しかし、まもなくその生活は破綻する。 経済的に行き詰まった母親は、長男と少女Aを別れた夫の元へ預けるが、すでに再婚し、再婚相手の子供もいた父親宅で居場所があるはずもなく、1年ほどたったころに再び母のもとへ返された。 学校も転々とし、小学校の間だけでも転校は5回にのぼった。 小学校6年生の夏休みを境に、少女Aはグレ始めた。 長男もすでにグレており、その影響もあったようだ。 髪の毛を金髪にし、腕には根性焼きの痕ができた。 服装はダボダボのジャージで学校は欠席が増え、夜に外出することも多かった。 その当時すでに交際している少年(当時中2)がいて、その少年によれば、少年が交際をやめようと言うと、なんとハサミで尻を刺したという。 少年は3針縫った。 中学に入ると、欠席は8割を超える。 担任らが家庭訪問を繰り返しても、事態は改善されなかった。 中3のときには、女友達への暴行や窃盗などで6度も補導され、地域の警察や児童相談所にも知れ渡る「素行不良少女」となった。 1度、母親も含めて話し合いがもたれ、約束事が取り交わされる。 〇タバコは1日7本まで 〇学校に来たら携帯の電源を切る 〇髪の色は母親と同じくらいにする 〇週3回は学校に来る 冗談はやめてくれと言いたくなるような「約束事」であった。 しかし、それでも少女Aの素行は改まらず、6月にはついに家出してしまう。 年齢を偽り、水商売もやっていた。 事件が起こる前年には、家裁の決定で1か月間鑑別所に行き、その後国立きぬ川学園へ入所した。 きぬ川学園は国内唯一の未成年の女性を対象にした自立支援施設である。 佐世保で同級生を殺害した女児もここへ入所したと聞く。 自然豊かなこの学園で、少女Aも一時は落ち着いた生活が送れるようになっていたようだ。 学園で中学卒業を迎えた際、卒業文集にはこのように書いた。 鈴木さんとの関係と、事件まで きぬ川学園を出た少女Aは、2003年の3月に家に戻った。 家に戻ってすぐは、落ち着いた状態だったといい、早速仕事を探す様子も見られた。 本人はケーキ製造の工場で働きたいという希望があったようだが、その時点ではケーキ製造の仕事の求人はなかった。 そこで、近所のスーパーでのレジ打ちのバイトの面接を受けた。 だらしない服装で金髪だった少女Aに対し、店は「その髪を黒に戻す」という条件で採用したという。 実際、少女Aは翌日、髪の色を黒くして出勤してきた。 店側も、「しっかりと働こうという意思がある」と感じていた。 しかし、1日働いただけで、翌日以降、出勤してくることはなかった。 一方、もう一人の共犯者である15歳の少年はどうだったか。 両親を失った少年は、14歳の秋から名目上の保護者である30代のいとこに1日2,000円をもらい、熊谷市内のマンションで一人暮らしを余儀なくされていた。 中学3年生になると欠席日数が増え、学校に行っても「勉強が分からない」と保健室で過ごすことが多かった。 性格は人懐こく、話も普通にするのだが、母親の話になったときは涙ぐんで口をつぐむこともあった。 繁華街にあったというひとり暮らしのマンションは当然のように溜まり場と化した。 自転車置き場に見るからに近寄りがたい少年らがたむろし、住人が部屋に戻れないこともあったという。 ビッグスクーターを深夜までふかし、騒音やごみの問題で周囲の住民を悩ませていた。 少女Aとの出会いはJR熊谷駅前の路上で、友人とともに少女Aをナンパして知り合った。 少年は少女Aと交際していたという報道もあるが、裁判資料などではそういった事実は出てこない。 尾形に少年を引き合わせたのが少女Aである点、事件の要因である鈴木さんとのことを考えると、尾形に隠れて交際していたとは考えにくいので、親密な交際はなかったと考えている。 ただ、一時期少年の自宅マンションに少女Aが寝泊まりしていた時期があるため、二人の間に何事もなかったかどうかは不明である。 被害者の鈴木さんと尾形らの関係はどうだったか。 尾形と少女Aが知合うより以前、きぬ川学園を出た少女Aは、最初こそ落ち着いた生活に見えたがすぐに外泊を繰り返すようになっていた。 6月下旬、JR熊谷駅付近の路上で飲食店の女性従業員のスカウトを行っていた鈴木さんに声をかけられたことが出会いのきっかけであった。 家に戻りたくなかった少女Aは、そのまま鈴木さんのアパート(殺害現場)で寝泊まりするようになった。 鈴木さんがいないときも、自由に部屋に出入りできるよう鍵も渡されていた。 7月ごろ、鈴木さんにある異変が現れた。 気づいたのは職場の上司だった。 飲食店のスカウトだった鈴木さんは、厨房などで皿洗いもすることがあった。 通常、洗い物をするときは長袖だと濡れてしまうから袖をまくる。 鈴木さんはスカウトという仕事上、ワイシャツを着用していたが、洗い物をしていても袖をまくらなかったという。 それを上司が不思議に思って聞くと、鈴木さんはおもむろに袖をまくって腕を見せた。 そこには、6つの根性焼きの痕があった。 鈴木さんは、「彼女の腕に傷があって、お揃いにしたんだ」と言った。 その際、少女Aが16歳であることを告げられた上司は、「未成年はやめておけ」と忠告したが、鈴木さんはその後の給料日にプリペイド携帯をプレゼントして嬉しそうにしていたという。 しかし、少女Aの素行を心配した鈴木さんは、その携帯を「少女Aを束縛する」道具に使ってしまった節があった。 少女Aは次第に鈴木さんをうっとおしく思い始めていた。 ある時、あまりにも鈴木さんからの連絡がひっきりなしに続くことに嫌気がさした少女Aが、尾形に同行を求めたことがあった。 少女Aは鈴木さんに対し、「好きな人がいる、しつこくするな」といった趣旨の話をした。 しかし鈴木さんは尾形を見とがめ、「俺は〇会(暴力団)の者だ、少女Aは俺の女だ、お前はどういう関係なんだ」と逆に詰め寄ってきたという。 苛立った尾形は、「〇会がなんだ、そんなことは女のことに関係ねぇ、こいつは俺の女だ、手を出すんじゃねぇ」などと自身も暴力団関係者であるかのような言い方をして、鈴木さんを引き下がらせた。 報道や裁判資料では、この鈴木さんが執拗に少女Aに連絡をしたことが要因であるかのようなことが言われているが、実は違うという。 鈴木さんの会社の社長はこう証言する。 「数回の話し合いの際、鈴木さんが尾形と少女Aの関係に気づき、怒って自身の携帯電話を真っ二つに折った。 だから鈴木さんから少女Aには連絡できなかった。 その後も店に少女Aから頻繁に鈴木さんを呼び出す電話がかかっていた」 事実、尾形に仲裁を求めて鈴木さんを遠ざけたはずの少女Aは、一旦は鈴木さんの部屋を出るものの、居場所を失ったことで再び鈴木さんを頼っている。 そして、鈴木さんが出勤している間などに部屋で寝泊まりさせてもらうよう頼んでいたのだ。 8月に入ってからは、鈴木さんがコンビニや路上で少女Aを車に押し込む姿が目撃されていた。 鈴木さんによれば、「目を離すと少女Aがクスリをやってしまうから放っておけない」と周囲に話していたようだが、少女Aが覚せい剤などをしていた事実はない。 おそらく、クスリではなくシンナーであろう。 少年も尾形も、シンナー中毒であった。 少女Aも、尾形らと出会うより前からそういったことをしていることは有名であった。 8月18日、前日から少年宅で酒を飲み、シンナーをあおっていた少女Aは、少年に尾形の事を話した。 少年が尾形に会いたいと言ったことから、少女Aは尾形に連絡を取る。 尾形はそれを受けて二人を車で迎えに行き、熊谷市内のファミレスで食事をした。 その際、少女Aはある出来事を尾形らに話した。 それは、2日前、転寝をしていた少女Aを、帰宅した鈴木さんがレイプしようとしたという話だった。 苛立った尾形は、「あいつ舐めてるな、やっちゃうか?」と呟いた。 すると、少女Aは同調し、「そうだよ、やっちゃって。 やっちゃえやっちゃえ!」と煽った。 この、「やっちゃえ」というひどく曖昧な言葉が、男女4人を殺傷し、尾形を死刑台へ送る引き金となった。

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いい親になりたかった母親の無理筋~尼崎・児童虐待死事件①~|事件備忘録@中の人|note

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調べでは、早川容疑者は1999年9月、同社の未公開株公募に際し財務内容を優良に装う虚偽の記載をした届出書を関東財務局に提出した疑いがもたれている。 中堅ISPを運営していたMTCIは1999年10月、1株256万円の未公開株を新聞広告などで公募するなどして注目。 同月にはベンチャー投資専門の証券会社「MTCI証券」の設立を発表するなど積極的な展開で知られたが、当時から事業内容には疑問が指摘されていた。 現在、MTCIはISP事業を含め実質休眠状態。 MTCIは1999年、同社の未公開株を公募する際、財務内容を優良に装うため、財務書類に虚偽記載をした。 同社会長は2002年11月に証券取引法違反で逮捕され、実刑判決が確定した。 金融庁は、MTCIの有価証券報告書の重大な虚偽をトーマツが見過ごしたとして処分したほか、MTCIを担当していた会計士2人を業務停止3カ月とした。 30 金融庁による処分について 監査法人トーマツ並びに当監査法人元社員7名は平成18年3月30日付で金融庁より、公認会計士法の規定に基づく処分を受けました。 当監査法人は本件を真摯に受けとめ、改めて審理体制、教育研修体制の強化に全力を尽くしてまいる所存です。 当監査法人は、当該案件発生後の平成13年以降に、審理手続・体制の見直しを行い、その充実を図ると共に、不正発見ケーススタディ等の研修を継続的に行う等、信頼性の高い監査の実施に向けて精進を重ねております。 また、当監査法人は監査業務を実施する監査部門と審理等を実施する品質管理部門を独立した部門として機能させておりますが、昨年7月には包括代表社員(CEO)直轄の部門として、レピュテーションリスク担当部門を新設いたしました。 同部門では、品質管理部門が実施している審理等のチェック機能が有効に働いているかの監視を行っています。 当監査法人は、今後とも、これらの体制を一層強化し、社会的信頼の回復に努めてまいる所存であります。 処分の内容(公認会計士法第34条の21第2項第2号及び30条第3項に基づく) 当監査法人: 戒告。 株式会社エムティーシーアイ、株式会社サワコー・コーポレーション、株式会社ナナボシの3件の監査証明に係る審理体制と教育研修体制に関して 業務執行社員: 株式会社エムティーシーアイの監査証明に関して、2名の業務停止3ヵ月 株式会社サワコー・コーポレーションの監査証明に関して、2名の業務停止2ヵ月 株式会社ナナボシの監査証明に関して、2名の業務停止3ヵ月、1名の同1ヵ月 本件に関するお問い合わせ先:監査法人トーマツ 本部広報 Tel 03-3457-1573 当ページに記載の内容は掲載日現在の情報であり、その後情報が変更している可能性があることをご了承ください。 2月13日以降、更新されていないのが残念。

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