清水寺 について。 清水寺について、詳しく教えてください。できるだけ詳しくお願いします。

清水寺について

清水寺 について

〈せいすいじ〉とも。 京都市東山区にある北法相宗の寺。 山号は音羽山。 本尊は十一面観音で,第16番札所。 〈清水寺縁起〉によれば延鎮をとして坂上田村麻呂が798年に創建。 805年の,810年のとなり隆盛したが,のほか,に属したためと興福寺の紛争に巻き込まれたこともあって破壊を重ねた。 現在の本堂(国宝)は1633年のもので,密教本堂の典型的形式を示す。 急にあるため長い束柱 つかばしら でささえられたいわゆる懸造 かけづくり となっており,前面は〈清水の舞台〉として有名。 檜皮葺 ひわだぶき の大きな寄棟 よせむね 造は江戸時代建築の代表的遺構。 1994年世界文化遺産に登録。 【高橋 富雄】 [田村麻呂をめぐる伝承] 田村麻呂が東山で僧延鎮 もと賢心 と会い,力をあわせて観音像を作り,仏殿を建ててこれを安置しと号したことは《清水寺縁起》 伝藤原明衡作 ,《今昔物語集》,《扶桑略記》などに見え,中世に入っても多くの書物に散見する。 《吾妻鏡》は田谷窟(たつこくのいわや) 現,達谷窟 について述べる中に〈田村麿・利仁等の将軍〉が蝦夷征伐のとき,敵主悪路王(あくろおう)・赤頭(あかがしら)たちがこの窟に柵を構えたとし,のち,田村麻呂が窟前に堂を建て西光寺と号して,鞍馬に模して多聞天 毘沙門天 像を安置した 文治5年 1189 9月28日条 と伝える。

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清水寺の歴史を簡単にわかりやすく解説!【観光前に抑えておきたい豆知識】

清水寺 について

清水寺の見どころとは?観光前に要チェック! ここでは 清水寺の見どころを 紹介していきます。 観光前に要チェックです! 本堂【清水寺の見どころ】 清水寺の一番の見どころは、 やはり「 本堂」と「 清水の舞台」。 日本では 「 清水の舞台から飛び降りる」という、 思い切って大きな決断をする際の ことわざもあり、非常に有名なスポットです。 また、十一面先手観音像は秘仏であり、 33年に一度の御開帳でその姿を拝むことができます。 脇侍の毘沙門天、 勝軍地蔵ともに秘仏となっています。 仁王門【清水寺の見どころ】 清水寺に訪れて、 まず目に入るのが仁王門でしょう。 その奥には総丹塗に極彩色文様が 美しい三重塔と西門がそびえています。 この場所は写真映えする スポットとしても知られています。 また、仁王門は別名 「 目隠しの門」と呼ばれています。 理由は、清水の舞台から 天皇の住まいである「 御所」を 見下ろしてしまわない為に、 その場所に建てられたからなんです。 昔の人たちの配慮を 感じられる建造物ですね。 三重塔【清水寺の見どころ】 三重塔は重要文化財で、 赤い総丹塗が印象的です。 一層の壁には真言八祖像、 天井や柱には密教物画や飛天・ 龍などが極彩色で描かれています。 三重塔としては日本最大級で、 高さが約31メートルあります。 最後に 清水寺とはどんな寺なのか? あなたの心の中で少しでも イメージが膨らめば幸いです。 繰り返しになりますが 清水寺を建てた人物は 賢心 のちの延鎮上人 とです。

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清水寺|【京都市公式】京都観光Navi

清水寺 について

清水寺は千葉県市川市中山にある大本山中山法華経寺第56世貫首眞如院日等聖人が開山された四百余年の歴史がある日蓮宗のお寺でございます。 法華経寺に龍王池があり、その池から当山まで小川が流れていて、小池が当山にありました。 その小池の水が美しいことから清水坊と名称され、法華経寺を参拝するときの宿坊として隆昌しておりました。 時代の流れとともに小川はなくなり小池もなくなり、宿坊としての役割もなくなりましたが、お寺にお越しの方々へおもてなしの精神と気持ちよくお帰りいただけるような心遣いをモットーにお寺の運営をさせていただいております。 多くの方々にお越しいただいて、お役に立てれば光栄でございます。 中山と日蓮大聖人との歴史 中山法華経寺の基をつくられた初祖富木常忍はもと因幡国(鳥取県)富城郷の出身で、父である蓮忍の時に、関東に移住してきました。 そして常忍は下総国八幡庄若宮戸(市川市若宮)に館を構え、下総の守護千葉介頼胤に仕えました。 当時府中(国府台)に置かれた守護所に通い、鎌倉幕府からの通達を受けたり、下総国内で起こる諸事を頼胤の決裁を受けて処理する事務官僚で、特に千葉介頼胤の執事的立場にありました。 建長6年(1254)に下総の地を布教していた日蓮大聖人は鎌倉に向かうため、二子ノ浦(船橋市二子)で便船を求めていた折、丁度参勤で鎌倉に向かう富木常忍と同船することになり、そこで問答となり、意気投合し、大聖人の信者となったといわれています。 諸説あり) 文応元年(1260)、鎌倉の松葉ケ谷の御草庵で焼け討に遇った大聖人は富木常忍を頼って若宮へ難を逃れられました。 このとき大聖人は鎮守若宮八幡の拝殿で百日間説法をしましたが、この説法で大聖人に帰依する者が多く現れました。 そこで常忍は法華経信仰の記念として館の中に法華堂を建立して大聖人に献じました。 このとき大聖人は自ら釈迦如来の立像を彫って法華堂に安置し、妙蓮山法華寺と号して開堂入仏の式を挙げたと言われています。 これが法華経寺の起源となるもので、現在の奥之院になります。 大聖人は常忍に絶大な信頼をよせていて、様々な手紙を出されたり、教学的に宗門的に重要な書物を送られています。 その書物や手紙類が聖教殿に現在も恪護されていて、歴史的にも大変重要な役割を担っております。 弘安5年(1282)10月13日、大聖人がご入滅すると、常忍は出家して法名を日常と号しました。 そして正安元年(1299)日常は死に臨んで、自分が治めた法華寺を地元の豪族の太田乗明の子日高に譲りました。 また、大聖人の書物や手紙など一切を寺から外に出さぬよう末永く保存することを書き残して、3月20日84歳で遷化されました。 後継者の二祖日高上人は幼少のころから大聖人の弟子として修行に励み、大聖人のそばで給仕をされていました。 日高上人は中山にある父乗明の館跡に本妙寺を建立し、ここに住みながら法華寺の住職も兼ねました。 いわゆる法華・本妙両山一主制をとられました。 この両寺が一寺となり法華経寺となりました。

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