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富野由悠季

富野 よし ゆきの 世界 展

来歴 [ ] 出身。 1992年から2008年までの在住。 1992年、エジプトのランド・オペレーターであるバヒ・トラベル・エージェンシーでガイド/通訳として働く。 2003年、カイロ・アメリカン大学()人文社会科学エジプト学卒業。 2004年からピラミッド研究の第一人者であるアメリカ人考古学者マーク・レーナー率いる米国古代エジプト調査協会()の調査プロジェクトに参加。 区画責任者として、ギザのピラミッド群を造営した人々の居住地であるヘイト・エル=グラブ遺跡(通称「ピラミッド・タウン」)の発掘に従事。 2006年、米国古代エジプト調査協会の日米合同調査によるケントカウエス女王墓の3D計測調査を担当。 2007年、アメリカ・エジプト調査センター()による東岸修復保全プロジェクトに考古写真の専門家として参加。 同年、米国古代エジプト調査協会による緊急考古学調査に参加。 2008年、エジプト事務総長の要請を受け、エジプト最古のピラミッドであるの3D計測プロジェクトにフィールド・ディレクターとして従事。 2012年、論文"3D Data of the Tomb of Khentkawes [I] and its interpretation"(『ケントカウエス一世女王墓の3Dデータとその解釈』)で、大学院文学研究科人文学専攻博士課程後期課程修了、(歴史学)取得。 2012年から15年までとして、メンフィス地区の3D計測調査に従事。 2013年からギザ3D調査(Giza 3D Survey)プロジェクトを立ち上げ、TBS「世界ふしぎ発見」の協力を得て、2度に渡りの大に登頂。 大ピラミッドの『頂上部』と『くぼみ』と『洞穴』の3D調査を完遂させた。 2015年からチェコ・エジプト学研究所()と共同で、のピラミッド群の3D計測調査を開始。 同年には、日本語版から、創刊20周年を記念して企画された「日本のエクスプローラー」 の一人として選ばれ 、翌年の2016年には、米国によって、先進的なビジョンをもった気鋭の科学者や探検家の一人として「新世代の探求者(エマージング・エクスプローラー、Emerging Explorer)」に選出された。 2017年には、再び、TBS「世界ふしぎ発見」の協力を得て、ドローンを用いた世界初のギザのの計測に成功している。 2018年にはデジタル・ギザ・プロジェクト()を推進するハーバード大学に招聘され、"Analyzing Egyptian Pyramids in the Digital Age" デジタル時代におけるエジプト・ピラミッド群の分析)という講演を行っている。 2018年より、世界最高水準の研究活動を推進し、卓越した研究成果を挙げることを目的とする名古屋大学准教授 に着任。 同年、イタリア内務省並びに文化省が認定する科学、文化、スポーツ、平和貢献など、様々な分野で活躍されている人に授与される国際ジュゼッペ・シャッカ賞を受賞。 さらに、2017年にドローンによって取得した30000枚近くの三大ピラミッドの画像から3Dデータを生成するポスト・プロセッシングのクラウドファンディングにも挑戦し、成功させている。 先端技術や数理計画を導入するといった異分野融合的な考古学調査を行いつつ、さらに民間企業やメディアともスクラムを組むというによって、古代エジプトの研究を推進している。 活動として『』や、『』などメディアにも多数出演し、について広めている。 著書 [ ] 単著 [ ]• 『ピラミッド・タウンを発掘する』(2015年9月、、)• 『河江肖剰の最新ピラミッド入門』(2016年12月、日経ナショナルジオグラフィック社、)• 『ピラミッド 最新科学で古代の謎を解く』(『ピラミッド・タウンを発掘する』改題。 2018年3月、、) 共編著 [ ]• Giza Occasional Papers 3 2009, Ancient Egypt Research Associates, Inc. Giza Occasional Papers 4 2009, Ancient Egypt Research Associates, Inc. Giza Occasional Papers 5 2011, Ancient Egypt Research Associates, Inc. , 監修 [ ]• 「覆る定説 ピラミッドを築いた人々」(『』2016年2月号)• 「放送20周年スペシャル 大河ナイルの旅 I 氷河の一滴から黄金の国へ」(2016年4月10日放送)• TBS THE世界遺産「放送20周年スペシャル 大河ナイルの旅 II 海に沈んだクレオパトラの宮殿」(2016年4月24日放送)• TBS RAKUEN と巡る楽園の旅 Episode-05 エジプト(初公開日:2016年10月31日)• 「古代の美を探して、エジプト」(『』2017年 1/1・15 合併号) 受賞 [ ]• American University in Cairo, Ahmed Fakhry Award• American University in Cairo, the Humanities and Social Sciences Honor• 名古屋大学、名古屋大学学術奨励賞受賞• ナショナル ジオグラフィック日本版、「日本のエクスプローラー」• National Geographic Society, "the 2016 class Emerging Explorer"• Premio Internazionale Giuseppe Sciacca Archaeology メディア出演 [ ]• 「ピラミッドに秘められた古代の英知-エジプト・フランス-」(2013年4月20日放送)• 「エジプト スフィンクスの謎 遂に解明!!」(2013年8月3日放送)• 「誰も知らなかったニューヨーク グレート ピラミッド シティ」(2014年8月16日放送)• 「ミイラ!巨像!財宝!? 古代エジプト続々新発見」(2014年10月11日放送)• 「日本初!ピラミッド登頂!!! 201段全段計測!」(2015年3月14日放送)• 「30周年直前 ミステリー大挑戦! 世界三大ミュージアム発 最新ナゾ解きの旅スペシャル(2016年1月23日放送)• 「イタリア エジプト愛の二千年物語」(2016年5月21日放送)• 「世界ふしぎ発見!30周年スペシャル 巨大クジラが自撮り! 驚異の折り紙顕微鏡! 古代人の暗号解読!? 未来を変える冒険者たち」(2017年1月21日放送)• 「世界初!ついに解明か?!ピラミッド王朝の秘密」(2017年3月11日放送)• 「アブ・シンベル神殿発掘記念スペシャル 朝日の奇跡 200年目にして初めて明らかに!?」(2017年12月16日放送)• 「エジプト大ピラミッド 建造の謎を解くメレルの日誌」(2018年5月5日放送)• 「さかなクンが紐解く!魚代(ぎょだい)エジプトの謎」(2019年7月20日放送)• 「黒いピラミッドの謎 古代エジプトで最も輝いた時代」(2019年10月19日放送)• TBS特別番組• 「〜古代エジプト世紀の大発見プロジェクト〜 ツタンカーメンと伝説の王妃3300年の新事実」(2016年7月18日放送)• 「シリーズ古代遺跡透視 プロローグ 大ピラミッド 永遠の謎に挑む」(2016年5月1日放送)• 「シリーズ古代遺跡透視 大ピラミッド 発見!謎の巨大空間」(2017年11月4日放送)• 特集番組 「挑戦!人類200万年の旅 ~大英博物館展」(2015年5月5日)• 「4500年前の古代都市」(2015年11月27日 放送)• 視点・論点 「最新技術によるピラミッド調査」(2018年7月3日 放送)• 「ピラミッド透視 謎の空間を発見!」(2016年10月31日放送)• 地球アゴラ 「世界遺産 エジプト・ピラミッド トルコ奇岩の大地!」(2007年5月放送)• ほっと@アジア 「日本の力が繋ぐ大ピラミッドと未来」(2012年2月17日放送)• 超常ファイル 「神々の遺産?謎の超古代文明を徹底解明!」(2015年6月13日放送)• 超常ファイル 「エジプト 呪いと超古代文明ミステリー」(2017年11月18日放送)• スーパープレミアム「古代エジプト 3人の女王のミステリー」(2017年11月25日放送)• ナイルを飛ぶ〜空から見る古代エジプト文明(2019年3月30日放送)• 「ツタンカーメンの素顔も判明!? 最新科学が解き明かした古代エジプトの謎」(2015年2月28日放送)• の今でしょ!講座• 「春の豪華3時間SP」(2016年3月15日放送)• (2015年9月27日放送)• (2017年4月16日配信)• (2017年7月2日配信)• (2017年5月7日放送)• 4人の専門家が語る『インディ・ジョーンズ』発掘トーク 1(2017年12月2日, 2017年12月7日, 2018年1月2日, 2018年1月15日放送) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• ナショナル ジオグラフィックによる「エクスプローラー」の定義は、未知の地域に入り踏査する「探検家」ということにとどまらず、科学的発見を含めた未知の知識を探りに行く人という広い意味である。 出典 [ ]• - 博士論文• - ナショナルジオグラフィック日本語版 2015年12月号• - National Geographic Society• www. facebook. com. 2018年4月23日閲覧。 Agency, Japan Science and Technology. researchmap. 2018年10月3日閲覧。 premiosciacca. 2018年10月29日閲覧。 readyfor. 2019年4月5日閲覧。 - 新潮社• - 日経ナショナルジオグラフィック社• - 新潮文庫• (PDF)• (PDF)• (PDF)• - National Geographic Society• 2018年5月5日閲覧。 2020年1月16日閲覧。 2020年1月16日閲覧。 日本放送協会「」『解説委員室ブログ』。 2018年7月16日閲覧。 外部リンク [ ]• yukinegy -• - ナショナルジオグラフィック日本語版• - Harvard Museums of Science and Culture(英語)• - National Geographic Society(英語)• - TEDxKyoto(日本語)• - Academia. edu• - SEKAI•

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2019年 福岡篇:橙の水炊き、富野由悠季の世界展、福岡市美術館、プリンスオブフルーツ、西鉄ホテルクルーム博多、ラーソーメン

富野 よし ゆきの 世界 展

2015年、にて 本名 富野 喜幸(旧ペンネーム) 別名義 とみの 喜幸(とみの よしゆき) 井荻 麟(いおぎ りん) 斧谷 稔(よきたに みのる) 斧谷 喜幸(よきたに よしゆき) 井草 明夫(いぐさ あきお) 阿佐 みなみ(あさ みなみ) など 生年月日 1941-11-05 (78歳) 出生地 ・ 国籍 身長 168cm 血液型 AB型 職業 、、、、 ジャンル アニメ 活動期間 - 配偶者 あり 著名な家族 長女: 次女: 主な作品 『』(1971年) 『』(1972年) 『』(1975-1976年) 『』(1977-1978年) 『』(1978-1979年) 『』(1979-1980年) 『』(1980-1981年) 『』(1982-1983年) 『』(1983-1984年) 『』(1984-1985年) 『』(1985-1986年) 『』(1986-1987年) 『』(1988年) 『』(1991年) 『』(1993-1994年) 『』(1998年) 『』(1999-2000年) 『』(2002-2003年) 『』(2005-2006年) 『』(2014年 - 2015年) 目次• ペンネーム [ ] 本名・旧ペンネームは 富野 喜幸(読み同じ)で、1982年以降 富野由悠季というペンネームを原作、監督、小説執筆の時に使うようになった。 喜幸という名前は、両親の喜平と幸子の一文字ずつをとって付けられた。 作詞家としては 井荻 麟(いおぎ りん)で、事務所のあるがの隣 (となり)であることに由来する。 ほか、絵コンテ、脚本、演出に とみの善幸、 斧谷 稔(よきたに みのる)、 斧谷 喜幸(よきたに よしゆき)、作画監督に 井草 明夫(いぐさ あきお)、に 井荻 翼(いおぎ つばさ) などのペンネームを使う。 経歴 [ ] 幼少期 [ ] 、生まれ。 同年生まれのアニメ監督にや同じ虫プロ出身のがいる。 富野が生まれる前、両親は東京で生活していたが、仕事の関係上小田原へ転勤していた。 母についてはあまり語っていないが、父はの与圧服の開発スタッフで 、父が終戦直後の軍命令に背いて残した与圧服の資料が、科学や宇宙を題材とした自分のアニメ作品の原点になったという。 小学生の頃は同級生たちから孤立していた。 当時は、どうして周囲の人間が自分をのけ者にするのか理由が分からなかったが、現在になって思い返してみたら自分のほうから彼らにケンカを売っていたことが分かったと回想している。 小学生の時にの「アトム大使」(「」の前身にあたる作品)を読み、親に「アトム大使」を連載していた雑誌『』を毎月買ってくれるように頼む。 この経験が、後に富野が手塚治虫と関わるきっかけにつながる。 この頃は画家になりたかったのだが、いつまでたっても絵がうまくならず、14歳で画家になる夢に見切りをつける。 その後映画の魅力にとりつかれ、映画業界の仕事に興味を持ち始める。 卒業後、映画科入学。 一年先輩に、同窓にがいる。 、の入社。 就職先はアニメ業界ではなく映画業界を志望していたが、富野の大学卒業前、すでに大手映画会社は大学新卒者の採用をやめており、学部の関係上、就職口が虫プロしかなかったと述べている。 母親から虫プロが見込み(新卒)採用を行っているという話を聞き、志望していた演出の仕事ができるならばこの際なんでも構わないという気持ちで学園祭の準備期間中に採用面接を受け、学園祭が終わった頃に採用が決まっていた。 なお、虫プロが見込み採用を行ったのは、後にも先にもこの時一度きりであった。 当時アニメは子供のものという認識しかなかったため、大の大人がおもちゃ屋の宣伝番組であるアニメの仕事をやるのは非常に恥ずかしかったと述べている。 現在でも、実写ドラマの監督がやりたいという野心があると語っている。 虫プロ時代 [ ] ではおよび演出助手を担当する。 虫プロで富野に仕事を教えていたのは、後にを起こす若尾博司だった。 後に人手不足も手伝い、手塚から直々に「演出やらない?」と頼まれた富野は演出・脚本なども手掛けるようになる。 富野は自分より年下のスタッフの絵のうまさに衝撃を受け、「彼らに負けない仕事をするにはどうするか? 」と悩んだ末に出た答えが「誰よりも早くコンテを描く(切る)」ことだった。 『』 では制作進行・演出助手・脚本・演出を担当。 1964年11月放送の第96話「ロボット・ヒューチャー」で、新田修介の名で演出家としてデビューした。 同話では脚本と絵コンテも担当している。 同話を含め『アトム』では合計25本の演出と絵コンテを担当。 自ら脚本を書いたエピソードも多い。 この演出本数はアトム全体で最も多く、2話連続コンテなども何度かある。 元々メインだったとは後年まで軋轢があったが現在では和解している。 当時の虫プロでの軋轢について「アニメだって映画、動かなくてはいけない。 それを止めて見せることができるという発想は許しがたかった。 最初は仕事と割り切っていたが、半年もすると不満が沸いてきた。 当時、虫プロで働いていたのは、映画的なセンスがない人たち。 僕は映画的な演出ができる確信があったので、アニメとは言えない電動紙芝居でも、作りようはあると思うようになった。 そんな体質が分かるのか、僕が演出になると、先輩から徹底的に嫌われた。 『アトム』での僕の演出本数が一番になったとき、みんなの視線が冷たかった。 『アトム』が終わると、虫プロを辞めた」と語っている。 ただし富野は「(手塚治虫から)アニメは全部動かさなくても伝えられるということを教えてもらった」とも語っている。 フリー時代 [ ] 1967年、虫プロを退社。 で講師として講義を持つかたわら、オオタキ・プロダクション シノ・プロ でCM制作に関わる。 1968年、オオタキ・プロダクションを退社、フリーとなる。 講師やオオタキ・プロダクションとの付き合いも続けながら、アニメ界への復帰を模索するようになりで仕事を受注する。 虫プロ時代は以前使った絵を使い回してうまく話を作るという作業が多かったため、タツノコでは一般的な映像演出能力の不足を指摘されることが多く、「うぬぼれを認めざるを得なかった」という。 この経験以降「才能を持つ人間に負けたくない」という思いが更に強まる。 ジャンルを問わず精力的に仕事をこなし、業界内で「富野が絵コンテ千本切りを目論んでいる」と半ば非難と冗談を交えて噂された。 当時、どこのスタジオに行っても見かける「 さすらいのコンテマン」として有名だったという。 この時期の富野は、ある程度の作風は確立していたものの、演出家として評価が高いとは言えず、そこそこのコンテをとにかく早く上げられるため、業界の便利屋として使われている部分が多かった。 『』ではコンテをに全て描き直され(ただし、宮崎は誰のコンテでも全て自分で手直しする)、畏敬の念もあり『』の制作時には「コナンを潰すのが目標」と語っていたが、番組終了時には「ついにコナンは一度も抜けなかった」と語った。 苦手なコンテはギャグ方面のアニメで、『』では何度もやり直しを受け「下卑たギャグと舐めてかかったがゆえに惨敗した」、また『』については「アニメで畳部屋を描くことに抵抗を感じた」と吐露している。 富野は2作の作者について著作 で嫌悪感を明らかにしていたが、日本人のメンタリティに訴えかけることについては評価するとも発言している。 他方、『』のような作品は「またやってみたい」と発言している。 1971年、結婚。 結婚式当日でさえ絵コンテ用紙を手放せなかったと回想している。 このころにに引っ越す(『』の「シン・ザ・シティ」の元ネタとなる)。 監督デビュー以降 [ ] 1972年、『 』で実質的に初のチーフディレクター・監督・絵コンテを務める。 の新聞連載漫画『青いトリトン』(後にアニメに合わせて原作漫画も『海のトリトン』に改題して単行本化)を原作としているが、「トリトンやピピはトリトン族である」といったキャラクター設定以外には共通点は薄い。 放送当時は視聴率が伸びずに2クールで終了した。 、『 』に関して本人は第3話(実際には第4話)の絵コンテをプロデューサーに強引に引き受けさせられたと語っている。 そのストーリーが気に入らなかった富野は、ストーリーに手を加えて渡し、西崎義展を激怒させた。 翌日か翌々日に本来のストーリーに修正した絵コンテを再納品したが、それきり二度と西崎義展からの依頼は来なかったと言う。 のちに「ガンダムを作るきっかけですが、以前にも少し話したんですけど、本音はただ一つです。 ごたいそうなものじゃなくてね、『ヤマトをつぶせ! 』これです。 他にありません。 松崎君()も1話でヤマトを越えたと言ってくれましたんで安心してます(笑)」と語っている。 1975年、『 』の監督、絵コンテも担当。 オリジナル・ストーリーをやれると思って引き受けた仕事だったが、原作()が持っていたオカルト的要素が、諸事情により第1話の作画作業に入ってから決まった放送局の方針と合わずに、急な方向転換を余儀なくされるという不運の中、前半2クール(第26話)で降板となった。 後任のは、富野への横暴な人事に激怒しながらも引き受け、富野も鬱憤を感じながらも、後半でも長浜の下で何本か絵コンテを切るなどの形で番組自体には関わり続けた。 この機会に長浜忠夫の下で技法を吸収する事に努め、監督の立場から作品全体をコントロールする術を学んだと自身で回想している(後ににも演出、絵コンテとして参加している)。 同年、途中降板したの後任として『』の最終話までの3クール目(第27話〜第39話)を、総監督のの下で監督を務める。 、がとして改組・独立。 『ライディーン』途中降板の経験を受け、企画段階からスポンサー・放送局に「まず要求を全部言って下さい」と談判し「戦闘シーンは何分いるのか」「武器は何種類出せばいいのか」など、全ての条件を受けいれた上で「その中でどこまで劇を入れられるか実験を試みた」という。 当作品は、本来ヒーローであるはずの主人公たちが周辺住民から嫌われ追われる、登場人物が次々と非業の最期を迎えるなど、「アニメは子どもが見るもの、子どもに夢を与えるもの」という考え方が一般的だった当時の常識を覆すものであった。 1978年、『 』の原作・総監督・脚本・絵コンテ・作画監督を担当(井草明夫名義)。 前作『ザンボット3』の暗さを吹き飛ばすかのように全体的にコミカルな作品となった。 衝撃的な『ザンボット3』の後番組だったため、初期の視聴率は伸び悩んだが、最終話はシリアスなストーリーで締めくくった。 その後もノベライズやオーディオドラマによる後日談など関連作品が生み出されていった。 ガンダム以降 [ ] 富野由悠季(2008年) 1979年:自身の代表作といえる『 』の総監督・原作・脚本・演出・絵コンテ・作詞 を務める。 それまでの巨大ロボットものとは一線を画し、「リアルロボットもの」と呼ばれるジャンルを確立したエポックメイキングな作品。 ロボットものでありながら、人間ドラマを主軸とした物語は初回放送時に一部に熱狂的な支持者を獲得した一方、スポンサーの玩具売上で苦戦し、スポンサーであるの意向によりテコ入れの路線変更が決定され、2クール目より冒頭にガンダム換装シーンが入り、新商品Gメカと毎回敵メカが出てくるスーパーロボット路線への変更を余儀なくされた。 また、玩具の売上不振により4クール52話の予定から39話への短縮を要求され、結局1か月分の4話を延長した全43話で折り合いが付けられた。 しかし、年末商戦のフラッグアイテムであるDX合体セットがヒットしたため、クローバーはサンライズに放映延長を打診する。 しかしスケジュール的に話数の変更は不可能であり、翌年1月に放映は43話で終了。 そして放映終了を境に人気が本格的に過熱。 熱心なファンの再放送嘆願により、再放送、そして映画化へとつながる社会現象を引き起こして行く。 1980年7月にスポンサーではなかったから300円のキャラクタープラモデル(いわゆる)が発売され、ガンダムの盛り上がりと呼応するようにラインナップを増やし、劇場版公開を境に一大ブームが発生。 は、「社会現象となったのはガンダムブームではなく"ガンプラブーム"なのだ」と語っている。 1980年、『 』の原作・総監督・脚本・演出・絵コンテ・作詞 を務める。 『機動戦士ガンダム』終了のわずか3ヶ月半後に放送開始された。 前作『機動戦士ガンダム』同様に残り4話を残して打ち切りとなるが、折からのアニメブームの中、「本当の結末が見たい」というファンの声援に後押しされて、後にテレビ版総集編と完結編が2本同時に劇場公開される運びとなる。 1981年、映画『』の総監督を務める。 他に井荻麟名義で「スターチルドレン」(主題歌のカップリング曲、本編未使用)を作詞。 劇場版3部作の第1作であり、テレビシリーズでホワイトベースがサイド7から地球に辿り着き、敵・ジオン公国の脅威を認識する場面(との遭遇と、その後のの演説)までのエピソード。 当時、テレビアニメで評判の高かったものを再編集して劇場公開するケースは多かったが、それらのほとんどは劇場版となった途端に実写畑の監督や監修者が立てられていた。 そのことに違和感を持っていた富野は、あらかじめ会社側に対し「将来ガンダムが映画化されることがあった際、監修者なり監督という形で外部(実写)の人間を導入するならフィルムを渡さない」と正式文書で申し立てていたため、監督権を勝ち取ることができた。 、続編第2作映画『機動戦士ガンダムII 哀・戦士編』の主題歌発表記者会見にて、作詞家「井荻麟」の正体が自分であることを公表。 『』の演出家部門でこの年から3期連続で1位となる。 1981年7月11日、『機動戦士ガンダムII 哀・戦士編』公開。 総監督、井荻麟名義で「哀 戦士」(テーマソング)、「風にひとりで」(挿入歌)作詞。 テレビシリーズで地球に降下してから連邦軍の本拠であるにたどり着き、ジオン軍との決戦のために再び宇宙へ旅立とうとするところまでのエピソード。 1982年第3作『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』公開。 総監督、井荻麟名義で『めぐりあい』(テーマソング)、『ビギニング』(挿入歌)作詞(ただしとの共同作詞)。 再び宇宙に舞台を移してから最終決戦を経て終戦に至る最終話までのエピソード。 テレビシリーズ制作時に病気で現場を離れていた作画監督のによるリターンマッチということもあり、ほとんど新作に近い量の新規作画が起こされた。 他に井荻麟名義で挿入歌「セーリング フライ」「海に陽に」を作詞。 2本同時公開であり、『接触篇』がテレビ版の物語の中盤程度までの総集編。 『発動篇』は終盤の総集編から、打ち切られて描かれなかった物語の完結までを高クオリティの完全新作映像で描写し、壮絶なその展開はアニメファンに大きな衝撃を与えた。 しかし接触篇は所詮ダイジェスト版にすぎず、テレビシリーズをあらかじめ見ていなければ発動篇のストーリーがわからないというハードルの高さがあり、再放送の放映状況もあまり芳しくなかったためか、結局ガンダムのようなブームを起こすには至らなかった。 とはいえ、イデオンがやをはじめ、後進のクリエーターに与えた影響は非常に大きい。 同1982年、『 』原作 と共同 ・総監督・ストーリーボード・作詞。 元々はが監督となる予定であったが降板したため、富野が後を引き受けた。 初めの1クール半は『ガンダムIII』や『イデオン劇場版』の仕事で手一杯で人任せにしていたが、自分の求めた動きになって来ないと見て取るや、時間を捻出して他人のコンテを全面的に直したりコンテに動画の中割りまで指定した。 そのため一時はスタッフとの間にかなり険悪なムードが立ちこめたが、終了後には「転機になった」「つらかったけど楽しかった」等、新境地を見出したらしい言葉が多く聞かれた。 停滞や馴れ合いを嫌う富野はしばしばスタッフとの間に軋轢を生み出すが、その姿勢に刺激を受けた者も少なくない。 1983年、劇場版『ザブングル グラフィティ』監督。 テレビ版の再編集版で、『』と併映。 上映時間が90分以内という制約のため、まともなストーリーを作るのは無理と判断、割り切ってにして本編の勢いを悪乗りさせた作品となった。 1983年、『 』の総監督、原作・脚本・ストーリーボード。 井荻麟名義で作詞。 放映がの発売と同時期であり、王侯・騎士と神話・妖精が織りなす中世ヨーロッパ的ファンタジーは、まだ一般にさほど認知されていなかった。 したがって、リアルロボットものが隆盛をきわめつつあった当時、ファンタジーの舞台にテクノロジーを据えた同作は異色だったといえる。 富野自身が放送終了前に失敗作宣言をしたり、放映中にスポンサー企業のが倒産するなどのトラブルが発生した。 舞台となる異世界「バイストン・ウェル」は、富野がしばしば同じ世界観で小説を書くライフワークとして続くこととなった。 1984年、『 』の原作・総監督・ストーリーボード。 井荻麟名義で作詞。 とにを起用。 物語としては、前半は明るい作風だったが、後半、物語がシリアスな展開を見せる。 テレビアニメでの富野の単一の作品としては総話数が全54話と最も多い。 デザイナーとして起用した永野が、世界観についての提案をたびたび行っている。 富野は「この作品は永野のもの、永野にやる」と後年に述べており、当時は伏せられていたが、元より永野自身による企画であった事が近年 [ ]に明かされている。 過去に作られたロボットを使っているなどの世界観は永野が元々構想していたものであり、そこに富野による具体的なキャラクター原案や基本のストーリーラインが入ることで両者の共作のような形となった。 ただし、著作権などの諸権利の譲渡が行われた訳ではなく、従って永野の『』とエルガイムの間に権利的な関連性はない。 1985年、自身初の続編シリーズ物の『 』総監督。 後の本人の口からいい意味でも、悪い意味でも「思い入れのある作品」と答えている。 原作・総監督・脚本・ストーリーボード・オープニング、エンディングの絵コンテ・挿入歌の作詞。 それまでの続き物にありがちだった続編とは違う続編の作り方を意図的に試みた作品。 前作の登場人物が年齢を重ねて再登場したり、時代の変化によってかれらの立場や考え方が変わっているなど当時としては斬新な作品となった。 2005年に20年の歳月を経て富野自身の手により劇場版3部作に「新訳」されて公開された。 井荻麟名義で「一千万年銀河」作詞。 時代的には前作から連続し、前作の主要キャラクターは脇に退き、ミドルティーンの少年少女を主役グループに置いて「暗い」「カタルシスがない」と評された前作とは正反対に「明るいガンダム」を目指した。 しかし、中盤以降は『Zガンダム』と同様のシリアスなストーリーへと路線変更がなされた。 1988年、当時ガンダムシリーズの最終作品として作られた『 』の原作・監督・脚本・絵コンテ。 初の劇場版オリジナル作品。 「との物語に決着をつける」ために作った作品と本人は述べている。 小説版も富野自身が手がけており、徳間書店版『』 と角川書店版『』の二種類がある。 角川書店版は同作の初期案をベースとし、アムロとベルトーチカの関係が続いており、ベルトーチカがアムロの子供を身篭っているという設定は上層部から「ヒーローに子供ができるのはどうか」と指摘を受け、映画版では取り下げた。 1991年、新たなるガンダムシリーズとして作られた『 』の原作・監督・脚本(と協同)・絵コンテ・挿入歌の作詞。 日本アニメ大賞・最優秀作品賞を受賞。 背景となる時代は一気に下り、『逆襲のシャア』までのキャラクターが引き継がれることはなかった。 キャラクターやメカニカルデザインに『機動戦士ガンダム』当時のスタッフを起用。 本来はTVシリーズの予定で企画されたが、劇場公開用として再編集された。 本作公開時にスタッフは、テレビシリーズかビデオシリーズかで本作の続編を作るつもりでいたが、立ち消えとなった。 1993年、『 』の原作・総監督・絵コンテ・構成。 井荻麟名義で作詞(みかみ麗緒との共同作詞)。 第1話に主役機のガンダムが出てこないため、スポンサーの意向により第4話が第1話と置き換えられた。 制作における心労や上層部からの指示による軋轢・混乱が大きく、制作途中から数年間に渡って徐々に状態が進行し、最終的には立っていられないほどの目まいがしたり、ほとんど気絶するような感じで眠りについていたという。 自らの評価も手厳しく、本作DVD-BOX発売時には、同梱リーフレットに「この作品は見られたものではないので買ってはいけません!」との見出しをつけ、「全てにおいて考えが足りなかった」「本当にひどい作品である」と記している。 一方で、作品や人を褒めることが決して多くない富野にしては珍しく、音楽を担当したを絶賛しており、によるキャラクターデザインについても好意的なコメントを残している。 『Vガンダム』放送終了後、富野は次回作ガンダムの監督を拒否して代わりにを指名し、戦争ものではなくロボットをやるようにと指示した。 その結果誕生したのが、『』である。 ただし現場には顔を出し、いくつかの作業を手伝っている。 前述の鬱状態から心身が回復するまでの期間は、いくつかの作品で脚本や絵コンテを手がけているが、監督は引き受けていない。 Vガンダム以降、テレビ版の「ガンダム」は富野の手を離れ、複数の監督が制作を続けた結果、「『ガンダム』はすでにジャンルである」と言われるほどに多様化した。 そのことは今日なお「ガンダムシリーズ」が作り続けられる理由の一つとなっている。 1994年、『機動戦士ガンダムF91』の続編となる漫画『』の原作(作画は)。 原作者の肩書きだけだった富野が、初めて漫画制作に携わり、1997年まで連載された。 1996年、初の作品の『』の原作・監督・脚本・絵コンテ。 『ダンバイン』と同じくバイストン・ウェルの世界を舞台にしているが、ロボット(オーラバトラー)の出てこない、純粋なファンタジー作品。 富野が前述の鬱状態の中制作した作品。 後年作品を見直した富野は「糸が伸び切っているという印象」との感想を残している。 1997年、この頃に虫プロ時代の同期であるから、高橋がプロデューサーを務めた『』のシナリオ執筆を依頼されたものの、「ストーリーを考えるのが面倒だから嫌だ。 コンテならいくらでも切るけど」という理由でこれを辞退している。 1998年、初のオリジナル有料アニメ『』の原作・総監督・脚本・演出・絵コンテ。 井荻麟名義で作詞。 1993年の『』以来5年ぶりのテレビ作品放映。 だったため、視聴者数はある程度限られた。 富野は「自分たちは子供たちを『親なし子』にしてしまったのではないか」という危機感から「人と人とが絆を結ぶとはどういうことか」を示そうとした、と語っている。 『エルガイム』以来14年ぶりのオリジナル・ロボットアニメ。 初期の数話でスタッフからガンダム作品と同じ演出になっているとたしなめられるエピソードがあったという。 ロボットデザインに旧知のを起用する一方、キャラクターデザインにを抜擢した。 1998年、『』誕生20周年記念作品として、『 』の原作・総監督・絵コンテ。 井荻麟名義で作詞。 過去に作られた「ガンダム」と名の付くすべての作品を、全否定かつ全肯定する作品を目指したものである。 にはのを、はアメリカの・を起用した。 「サイマル・ロードショー」方式という日替わりで1部・2部を上映する公開方法がとられた。 なお、この作品のノベライズをとが個別に引き受けており、両小説ともに富野による初期構想案メモを元にしている。 なお福井小説版においては、構成案メモから先の物語は福井晴敏独自の展開にすることを富野自身が了解している。 安田朗のカプコンによる「ガンダムのゲーム作っていいですか?」という質問に「いいよ」と答えたのが、ガンダムゲームの代表作のひとつ『』である。 2002年、WOWOWでのスクランブル放送アニメ『 』原作・総監督・脚本・演出・絵コンテ。 井荻麟名義で作詞。 富野とによる元気なオープニングアニメと主題歌が作品世界を象徴し、当時、富野自身が多く発言していた・といった要素が、作品の内容や演出に取り入れられている。 富野は「当作品のライバルは『』」と発言している。 本作ではキャラクターデザインにグループワークという概念を取り入れ、、、の3名の共同作業により、高いレベルのデザインを実現。 富野の案、登場メカは人工素材「マッスルエンジン」で柔軟な動きが可能で、オプション装備の「オーバーコート」を着用する事によりそれぞれが特殊な能力を発揮するロボットという設定から出発した。 メカニックデザインには安田朗を再起用。 若手のスタッフが「いかに凄惨に描くか」を話していた時に、「もう悲惨な話はいいよ」と諭したこと、「100歳まで現役でやれる」と発言し、周囲を驚かせたという。 近年 [ ]• 2003年:客員教授に就任。 「ガンダム創出学」の講義を担当。 2004年:(井荻の隣の駅)に転居。 名実ともに「井荻麟」となった。 2005年:劇場版『』三部作を制作し、順次公開。 映画『』には、反乱軍として通信所を占拠する海軍大尉として(画面での確認は困難)。 12月から自身初のWEBアニメ『 』の監督を務める。 富野が初めてネット配信という形式で作ったアニメで、自身の小説『リーンの翼』を多少アレンジし、その数十年後の物語である。 ダンバインで出てきた「オーラバトラー」が登場する。 オーラバトラーなどにCGが使用されている。 独特のセリフ回しと非常に早い展開が特徴。 2006年:映画『』にカメオ出演(京都の高僧役)。 2008年:映画『』に主人公()の亡き祖父としてカメオ出演。 2009年:で名誉豹賞を受賞。 同年、の「機動戦士ガンダム30周年記念 みんなのガンダム 完全版」と言う番組に富野を初めとしたスタッフが出演。 特に富野のガンダムに対するインタビューが多く語られた。 2010年:映画『』に元陸軍大将・役で出演。 2014年:TVアニメ「」の原作・総監督を務める。 2016年:「」理事長に就任。 近年は大学で講義を持ち、文化庁の依頼で海外で講演を行うなど、今なお方面を広げて精力的に活動している。 雑誌では、各界のスペシャリストとの対談記事『教えてください。 富野です』が毎月連載されている。 作風 [ ] 監督、絵コンテ(を参照)、演出をしながらも、しばしばオープニング・エンディング曲や挿入歌の作詞をする。 さらに並行して小説(主に自分の作品の小説化や自分の作品の派生作品)も書く。 ただ、「小説でうっぷんを吐き出してしまうという悪い癖がある」と自認し、後書きなどで反省している。 また「富野節」と呼ばれる、独特の倒置表現や言い回しも監督作品の特徴の一つである。 絵コンテ フリーの若手だった頃、ジャンルを問わず多くの作品に参加し、をかなりのスピードで上げていったことから「 コンテ千本切りの富野」、「 さすらいのコンテマン」という異名をとるようになる。 業界では「富野に頼めば3日でコンテが上がる」と言われていた。 制作スケジュールの厳しいアニメ業界では、富野のように絵コンテを上げるのが早い人材が重宝された。 一時期富野の片腕と言われたアニメーターのによると、一部に例外があるようだがと断りながら「おトミさんのコンテの画は、どうとでもとれるような描き方なんですよ。 アニメーターがもっと面白い事をやってくれればいいかという感じにもとれるのね。 」と語っている。 元々映画系志望だっただけにリミテッド・アニメとは指向が違っていたと言われ、によれば「画を描く手間を考えない『真面目にやっているのか? 』というコンテ」、は「動かす意欲を刺激する良いコンテ、これぐらいでないとつまらない」、は「いわゆる職業化された、システム化されたコンテマンからは窺がえない意欲が感じられるコンテ」と評価。 安彦の回想では、画面の奥の方で関係のないキャラクターの芝居が入っているなど、処理に困るシーンがあると現場で適当にカットしていたそうである。 それでも特に文句を言ってこないため「軽い演出家」との印象を持っていたが、ガンダム制作時に膨大な設定を持ち込むのをみて考えを改めたという。 『』開始時点での絵コンテ総数は、名前が確認できるもののみで少なくみて586本で、アニメ史上最多記録と推測される。 監督業に就いてからも自ら多くのコンテを切り、スタッフに任せたコンテに満足できない時は忙しい時間を割いて自身で手直しをすることもある。 『ザブングル』の時に顕著だった事例だが、ほとんど自分のコンテになってしまった時でもスタッフロールの記載を変えることはしない。 これは「手直しされた人間にもプライドというものがあるだろう」という配慮からである。 富野が絵コンテとして参加しクレジットもされた『』において監督のがほとんど自分でコンテを書き替えたことも少なくなかったという経験も影響していると考えられている。 しかし「ただ彼らを甘やかしただけだったかもしれない」とも書いている。 ジャンル 監督を務めた作品には、アニメが主なジャンルである。 本稿にもあるように、ロボットアニメ以外にもシリーズを始め、広範にわたるジャンルにおいてコンテや脚本を手がけている。 また「ガンダム」「イデオン」では登場するロボット群の大半のデザイン原案を自ら描いており、ほぼそのまま登場したものも多い。 ストーリー展開 主要な登場人物を一カ所(多くは戦艦)に放り込んでストーリーを展開するスタイルは「富野方式」と多少揶揄的に評されていると本人は述べている。 重要なキャラクターが死ぬ展開もいとわず、『』、『』、『』、テレビ版『』、『』、『』など終盤に近づくにつれ、主要登場人物の大半が相次いで死に至るような作品を作ることが多く、「 皆殺しの富野」などの異名で呼ばれたこともあった。 代表作『』では大半が生き残ったが、後の小説版では途中で主人公を戦死させるという展開が見られる。 これについては「全員殺した方が、きれいさっぱり何も残らずまとまりがつく(=制作者・視聴者共に、作品全体へ未練を残さず完結させる『 最も理想的な表現法』)」と語っている。 また、『』、『』など、的な作品も作っている。 その場合は主要登場人物が悪役やライバルを含めてほとんど死なない。 登場キャラクターの特徴 主人公は「家庭環境が悪いので、性格は理屈っぽく捻くれている」パターンが多い。 また家庭環境の影響か、軍隊をはじめとする(チーム)の中に溶けこむことができなかったり、あるいは嫌悪を表明したりする。 作品中では主人公と両親の関係が決して良好なものではなく、両親を殺したり存在を忘れさせたりするなどしている。 その上「 、、身内同士であっても決して理解し合えるわけではない」というへのアンチテーゼが込められる。 両親であるキャラクターはその「死の瞬間」、まさに肉体が消滅するその瞬間までも醜悪な人間であり続けることが多い。 富野自身も両親に対して憎悪のような感情を抱いていたと述懐している。 作品の一部の男性キャラクターはに飢えているという共通点もある。 総括的に言えば、父親は一見社会人として正常な思考を持ち合わせた常識人に見えるが、子供に対しては無責任な一面のある人物として、母親は親としての自覚に欠けており、女性としてのエゴの強い人物として描かれる傾向が強い。 当時のヒロインの多くは、若かりし頃につきあいのあった「チョキ」というニックネームの女性をモデルとしていると記されており、ヒロインには芯の強さが目立つ。 実年齢とは別に、主人公よりもやや大人びた感じや引っ張っていくような性格の強さが目立つ。 また、ほとんどの作品で、富野自身の思想、境遇などの特徴と似た面を持つ政治家、権力者や野心家のキャラクターが登場している。 これらのキャラクターは、同時に前述のような「主人公と敵対する父親」の役割をも備えている。 その例として、ドン・ザウサー、、ドバ・アジバ、ドレイク・ルフト、、、、、、、、クラックス・ドゥガチ、、などが挙げられる。 これらのキャラクターはほぼ全ての作品において少なくとも体裁的にはであり、最終的には、主人公の少年の手によってその思想・野望を打ち砕かれる結末を迎えている。 演技指導 『』の主人公のイメージが強かったを『機動戦士ガンダム』の役に推したり、の、、舞台役者だった、などを声優として発掘したりしている。 演技においては峻厳な指導で知られる。 アフレコ現場には必ず立ち会って声優と演技の詳細を詰めるといわれ、その指導を受けたことで実力をつけた声優は少なくない。 大のガンダムファンでもあるも複数の作品で起用された結果、自身の演技の幅を広げた。 要求に応えられないときはブースに駆け込んで罵声を飛ばすこともある。 特に阪口に至っては殴った事もあると噂されたが、後年阪口本人はそれを否定している。 また、『』で主役を務めたは「キャラを殺して降ろす」とまで言われたという逸話もある。 しかし一方で、『』でを演じたや、『』でクリム・ニックを演じたのインタビューなどによれば、「 監督自ら熱心に指導するのは女性声優に対してのみであって、男性声優の指導は本人任せか音響監督に任せっぱなしだった」と述べている。 メカデザイン 最終的な決定稿は専門のの手によるが、自ら登場メカをデザインすることもある。 また、で覆われたの胴体やのビットやに配された多方面スラスターなどの機能的なデザインもある。 俗に言われる「富野ラフ」にはほぼ決定デザインに等しい物も多く、ゾック以降のモビルスーツ、モビルアーマー、艦船の大半は、ほぼ富野のラフ通りにクリーンアップされている。 小説 レーベルから発行しており、アニメに関連した物が多い。 作風はアニメ視聴者より上の対象年齢の層をターゲットにしているものの、の様な擬音を多用する。 また人物描写・背景説明が簡素でアニメの脚本のように地の文が少なく、セリフが多い。 人物像 [ ]• 趣味は(ドローイング)で 、自身の小説の挿絵もしばしば描いている。 たびたびが富野作品で印象的に登場するが、スタッフによると富野自身バイク好き(ただしメカニックとして)であるということ。 雑誌の表紙で半裸の女性がバイクに跨るようなものに対し、それは別に見たいものであって、一緒にして欲しくないと語っていた。 で、などが好物。 であり、メイキングやインタビューなどでタバコを吸っている姿がたびたび目撃される。 物が捨てられない性格で、所有物をゴミに出す際、なかなか踏ん切りがつかない。 さらに妻も衣類を捨てられない性格なので「家の中は地獄沙汰」と語っている。 家族構成は、妻 と2人の娘。 発言 [ ] 「アニメを見るな」 [ ] 富野は、将来アニメ業界に就きたいと思っている若者たちに対して、「アニメを見るな」「文芸、演劇、物語を見ないで映画、アニメが作れると思うな」「アニメ以外のことに奮闘しろ」「・、を学べ」「大人から学ぶものなんて何もない」「映画産業全般に就きたいのなら学生時代から広くものを見なさい」「45歳までは君たちも挽回できる。 人間の基本は9歳までの、当時は解決方法が見えなかった欲求で、それからは逃れられない。 それが何だったか思いだせ」とアドバイスをしている。 また、近年のアニメについて「アニメや漫画を好きなだけで入ってきた人間が作るものは、どうしてもステレオタイプになる」「必ずしも、現在皆さん方が目にしているようなアニメや漫画の作品が豊かだと僕は思いません」と述べている。 また、「アニメや漫画は、子供が親に隠れてこっそり見るものであり、大人(成人)になればアニメはさっさと忘れなさい」と主張している。 富野作品中でも、そのようなテーマを打ち出しているものも多い。 そのため、40歳を過ぎようとしている「大人」が、自身の代表作『機動戦士ガンダム』に熱中していることを嘆き、やなどの世界文学や、『』や『』など古典を大人は読むべきと唱えるに共感し、対談を申し込んだこともある。 この対談では『機動戦士ガンダム』は娯楽に過ぎず、人生の指針や教訓になるような大そうなものではないし、そのようなものはないと結論している。 宮崎駿に関して [ ] とは同年の生まれ(宮崎が早生まれのため学年的には1年上で、富野はキャリアも含め宮崎の後輩にあたる)であり、自身のインタビューにおいて「宮崎ら制作作品にライバル意識を持っている」というような発言や批判もしばしばする。 だが宮崎を非常に高く評価している発言もあり、「(を取った宮崎駿のように自分がなれなかったのは)能力の差であるということを認めざるを得ない」 、「誤解を恐れず言えば、宮崎、高畑の演出論は以上だ」とまで評している。 ハイジや三千里でともに仕事をしたことのある宮崎に対して、 『「富野くん、それ読んでないの?」その一言。 家の本棚にはその本があって、半月前に半分くらい読んだ本でした。 宮崎監督は大学時代から堀田善衛氏の本を読んでいて、アニメ作家になってからはその人とも付き合いがあったようです。 そういう意味で学識の幅とか、深みが圧倒的に違う、僕では競争相手にならないと思いました。 高畑勲に関して [ ] 発言では宮崎同様、を非常に高く評価している。 高畑没後の2018年の取材に対しては、 「1分耐えられるセリフやストーリーが作れるのか、それがアニメの勝負だと教えられたんです。 それに気づいたのはその仕事の20年後ですが、逆にいうと、高畑勲という人はずっとその方法論でやってきた方なのです。 」 「僕にとってもパクさん(引用者注:高畑)は『師匠』だったんです。 でなければ、ただの宇宙モノ好きの僕が、ガンダム以降の作品を作れるはずがないよね。 」 と述べ、自らに影響を与えたことを認めている。 庵野秀明に関して [ ] 『』に対し、「エヴァは病的。 イデオンなどの後継的な作品とは言って欲しくない」との趣旨の発言をしている。 一方で、監督については「新世紀エヴァンゲリオン」で大ブレイクしたけど、それ以降は実写を撮ったりして、さらになぜか声優業もやって、で、そこから脱却して今がある。 彼はいろいろありつつも、その軌跡の中で「映像作品を作る!」という確かな視点を持っている人だと思う。 と述べている。 ビデオゲームに関して [ ] プライベートでは基本的に無趣味だと語るが、夫婦で家庭用テレビゲーム版『』などのパズルゲームをプレイして楽しんでいる様子をインタビューにおいて語っている。 なお、ゲームに関しては自身の性格からして、のめり込んで身を滅ぼすだろうという想いから、触れないよう尋常ならざる努力をしてきたと語っている。 『』の特典DVDでは、「ゲームは麻薬」「ゲームに携わる仕事をしている人間は嫌い」との発言をしているが、ゲーム技術の発展については理解を示している。 また、のゲームショーへ赴くなどしており、積極的にゲーム関連のイベント(自身の関連した作品が出展されたからだろうが)に参加している。 作品 [ ]• 主な映像演出参加作品年表一覧• (テレビシリーズ 1963年-1966年)- 脚本・演出• (テレビシリーズ 1972年)- 監督・脚本• (テレビシリーズ 1975年-1976年)- チーフ・ディレクター(前半のみ)・演出・絵コンテ• (短編教育映画 1975年)- 演出• 1975年の教育映画祭一般教養部門児童劇・動画部門の最優秀作品賞、第17回厚生省児童福祉文化賞を受賞。 全国の幼稚園や小学校で情操教育などを目的に上映された教育映画。 一般公開はされていない。 (テレビシリーズ 1975年)- 監督(後半のみ)• (テレビシリーズ 1977年-1978年)- 原作・総監督• (テレビシリーズ 1978年-1979年)- 原作・総監督• (テレビシリーズ 1979年-1980年)- 原作・総監督• (テレビシリーズ 1980年-1981年)- 原作・総監督• (劇場用作品 1981年)- 原作・総監督• (劇場用作品 1981年)- 原作・総監督• (劇場用作品 1982年)- 原作・総監督• (テレビシリーズ 1982年-1983年)- 原作・監督• (劇場用作品 1982年)- 原作・総監督• (テレビシリーズ 1983年-1984年)- 原作・総監督• (劇場用作品 1983年)- 原作・監督• (テレビシリーズ 1984年-1985年)- 原作・総監督• (テレビシリーズ 1985年-1986年)- 原作・総監督• (テレビシリーズ 1986年-1987年)- 原作・総監督• (劇場用作品 1988年)- 原案・原作・総監督・脚本• (劇場用作品 1991年)- 原作・監督・脚本• (テレビシリーズ 1993年-1994年)- 原作・総監督• 第2話「正体を見る」(テレビシリーズ 1995年)- 脚本・演出• (OVA 1996年)- 原作・監督・脚本• (テレビシリーズ 1998年)- 原作・総監督• (ターンエーガンダム)(テレビシリーズ 1999年-2000年)- 原作・総監督• (劇場用作品 2002年)- 原作・総監督• (テレビシリーズ 2002年-2003年)- 原作・総監督• (OVA・ネット配信 2005年-2006年)- 原作・脚本・絵コンテ・総監督• (劇場用作品 2005年)- 原作・脚本・絵コンテ・総監督 第10回、第20回・優秀賞を受賞。 (劇場用作品 2005年)- 原作・脚本・絵コンテ・総監督• (劇場用作品 2006年)- 原作・脚本・絵コンテ・総監督• (イベント公開 2009年)- 原作・脚本・絵コンテ・総監督• (テレビシリーズ 2014年-2015年)- 原作・総監督・脚本・絵コンテ。 最終話(第26話)のみ声優( 井荻翼名義)としても参加している。 (劇場用作品 2019年)- 原作・脚本・総監督• (劇場用作品 2020年)- 原作・脚本・総監督 フリー時代の参加作品 「さすらいのコンテ・マン」だった時代に関わりを持ったアニメには次のようなものがある。 (1967-1968年)• (1968-1971年)• (1968年)• (1968-1969年)• (1969年)• (1969年)• (1970-1972年)• (1969年)• (1969年)• (1969-1970年)• (1969-1971年)• (1969-1970年)• (1970-1971年)• (1970-1971年)• (1970-1971年)• (1971年)• (1971-1972年)• (1972年)• (1971-1972年)(阿佐みなみ名義)• (1971-1972年)• (1972年)• (1972-1974年)• (1972-1973年)• (1973年)• (1973-1974年)• (1973年)• (1973年)(阿佐みなみ名義)• (1973-1974年)• (1974-1975年)(第4話のみ)• (1974年)• 新みなしごハッチ(1974年)• (1974-1975年)• (1973-1974年)• (1974-1975年)• (1975年)• (1975-1976年)• (1975-1995年)• (1976年)• (1976-1979年)• (1976-1977年)• (1977-1978年)• (1978年-1979年)(阿佐みなみ名義)• (1976年)• (1976-1977年)• (1977年)• (1977-1979年)(第39話のみ)• (1977年)• (1977-1978年)• (1978年)• (1978年)(第14、21話のみ)• (1977年)• (1979年)• (1980-1981年)(第一話絵コンテ/斧谷稔名義) その他参加作品• (テレビシリーズ 1979-1980年)- 絵コンテ• (テレビシリーズ 1980-1981年)- 絵コンテ• シリーズ(テレビシリーズ、OVA 1983-1998年)- 原案• 『』のように子供たちだけで宇宙をサバイバルする物語のプランは『機動戦士ガンダム』の企画時に出されたボツ案であり、改めてこのアイディアを用いたのが本作であるため「原案」としてクレジットされている。 (OVA 1988年)- 原作・監修• (テレビシリーズ 1991年)- 初期オープニング• (テレビシリーズ 1992年)- オープニングストーリーボード• スーパーロボット大戦 プロモーション(東京ゲームショー会場で上映 1997年)- 監督、脚本、絵コンテ• (特撮ドラマ 2000年)- 原作・特別監修• (劇場用作品 2000年)- 原作・特別監修• (劇場用作品 2001年)- 原作・特別監修• (劇場用作品 2007年)- 原作・特別監修• (OVA 2007年)- ストーリープロット・アイデア協力• の作品のひとつ。 クェスとハサウェイの悲劇的な結末を変更し、アムロが子供(クェス)のわがままを叱ることのできる父性的な面で描かれたり、クェスが死ななかったりと転化されている。 過去のGUNDAM EVOLVE作品と違いとセル画を合わせる手法、内部フレームがむき出しのと変形ギミックが搭載されているのアイデアは富野自身が出した。 著作 [ ] 小説 [ ] 機動戦士ガンダムシリーズ• 『機動戦士ガンダム』全3巻(〈〉、1979-1981年)、(〈、のち〉、1987年) 文庫版は若干の改訂が施されている。 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』全3巻(前篇・中篇・後篇)(〈〉、1987-1988年) 2009年復刻 雑誌『』に『』として連載された。 2002年、このタイトルに戻して『機動戦士ガンダム ハイ・ストリーマー』全3巻(1巻:アムロ篇、2巻:クェス篇、3巻:シャア篇)(徳間書店〈〉)として刊行。 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン』全1巻(角川文庫〈のちに角川スニーカー文庫〉、1988年)• 『』全3巻(上・中・下)(角川スニーカー文庫、1989-1990年) 角川書店版の『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン』の続編であり、現在流布している宇宙世紀の正史とは一部異なった世界観の作品。 『機動戦士ガンダムF91 クロスボーン・バンガード』全2巻(上・下)(角川スニーカー文庫、1991年)• 『』全5巻(角川スニーカー文庫、1988-1992年) Vガンダムから50年後の宇宙世紀0203年が舞台。 宇宙世紀の正史とは一部異なった世界観の作品。 に1987年から1991年にかけて連載された。 『機動戦士Vガンダム』全5巻(角川スニーカー文庫、2003-2004年) 1巻:ウッソ・エヴィン、2巻:マルチプル・モビルスーツ、3巻:マリア・リーディング、4巻:コンビネーション、5巻:エンジェル・ハイロゥ。 『』上巻・下巻 -(角川mini文庫、1997年)、全1巻 -(角川スニーカー文庫、2000年) 文庫版はmini文庫版の二冊を一冊にまとめた物で、加筆修正がなされている。 『はじめたいキャピタルGの物語』 - ガンダムエース誌創刊100号(2010年12月号)に寄稿したもので、地球から伸びるが舞台の作品。 未完の為今後の展開については不明。 挿絵も富野本人が描いている。 バイストン・ウェル物語シリーズ• 『』全6巻(角川書店 カドカワノベルス、1984-1986年) 文庫版全6巻(角川文庫〈のちに角川スニーカー文庫〉、1986年) 完全版全4巻(角川書店、2010年)全面改稿および書き下ろし(4冊セット版も存在)。 一般雑誌『野性時代』(角川書店)に連載された。 『ファウ・ファウ物語』全2巻(上・下 )(角川文庫、1986-1987年) 月刊ニュータイプに『ファウファウ物語(リストリー) From BYSTON WELL STORIES』として1985年4月号〜1986年12月号に連載(全21回)。 『』全11巻(カドカワノベルス、1986-1992年)、(角川スニーカー文庫、2000-2001年) 『野性時代』に連載。 1巻:アの国の恋、2巻:戦士・美井奈、3巻:ガロウ・ラン・サイン、4巻:ギィ撃壊、5巻:離反、6巻:軟着陸、7巻:東京上空、8巻:マシン増殖、9巻:オーラ壊乱、10巻:重層の刻、11巻 完結編:ハイパー・ホリゾン。 『バイストン・ウェル物語 ガーゼィの翼』全5巻(〈ログアウト冒険文庫、のちに〉、1995〜1997年) 『月刊』に連載(第1巻分のみ)。 その他の小説• 『伝説巨神イデオン』全3巻(ソノラマ文庫、1981-1982年)、(角川文庫 のちに角川スニーカー文庫 、1987-1988年) 1巻:覚醒編、2巻:胎動編、3巻:発動編。 『』全4冊(ソノラマ文庫1987-1992年) の作品。 『シーマ・シーマ』全3巻(アニメージュ文庫、1988-1989年) 前篇:疾風の果てに、中篇:修羅に昇る、後篇:血族を払う• 『アベニールをさがして』全3巻(ソノラマ文庫、1995-1996年)• 『(作画:)』全6巻(角川コミックス・エース、1994-1997年 「機動戦士ガンダムF91」の続編。 初めてガンダムシリーズの漫画原作者として、原作および企画に関わった。 続編の『機動戦士クロスボーン・ガンダム外伝』『機動戦士クロスボーン・ガンダム 鋼鉄の7人』『機動戦士クロスボーン・ガンダム ゴースト』『機動戦士クロスボーン・ガンダム DUST』等には関わっていない。 自著、エッセイ [ ]• 『だから僕は… 「ガンダム」への道』(徳間書店、1981年)、『だから、僕は…(増補改訂版)』(アニメージュ文庫、1983年 、『だから僕は… ガンダムへの道』(角川スニーカー文庫、2003年• 自伝的エッセイ。 ガンダムの事はほとんど触れられていないが、それまでの仕事について詳しく書かれている。 虚実入り混じる、TV版から番組打ち切りを経て映画版公開へといたる『イデオン』制作手記風創作。 『』誌にTV放映時に同時進行で連載していたものをまとめたもの。 2002年に文庫版刊行。 エッセイ。 『-ビギナーからプロまでのコンテ主義(キネ旬ムック)』(、2002年)、『 改訂版 キネマ旬報ムック 』(2011年)• 映像の特徴から編集・作画・演技・音響など、映像作りに必要なほとんどの作業についてを記した実務書。 『富野に訊け! 』(徳間書店、2005年)、『富野に訊け!! 』(アニメージュ文庫、2010年)• 『アニメージュ』誌上連載をまとめたもの。 読者からの相談に富野が答える人生相談である。 『「ガンダム」の家族論』( ワニブックスPLUS新書、2011年)• 『情けない神の国の片隅で』• のハードロック雑誌『炎』連載のコラム。 共著 [ ]• 『戦争と平和』共著:・・(徳間書店、2002年)• 『教えてください。 富野です』(角川書店、2005年)• 富野がホスト役を務める『ガンダムエース』誌連載の対談企画をまとめたもの。 対談相手は、、、、。 装丁はで、両手を掲げて咆哮する全裸の富野というビジュアルが強烈な印象を与える。 解説は。 『ガンダム世代への提言 富野由悠季対談集 I』、『II』、『III』(角川書店、2011年)• ガンダムエース誌連載の対談企画(全100回)をまとめたもので、全3巻に96回分の対談が収録されている。 関連書籍 [ ]• 『富野由悠季全仕事 1964-1999(キネ旬ムック)』(キネマ旬報社、1999年)• ロングインタビュー及び、多くの業界人が富野を語っている。 資料性も非常に高い。 『富野語録 富野由悠季インタビュー集(ラポートデラックス)』(ラポート、1999年)• 『ガンダムの現場から 富野由悠季発言集(キネ旬ムック)』編:・(キネマ旬報社、2000年)• 『ガンダム者 ガンダムを創った男たち』(講談社、2002年) 作詞提供 [ ]• 『ザ・ロンゲスト・ロード イン 破嵐万丈/鈴置洋孝』(1980年)• :のレコードのプロデュース、ドラマ、作詞。 A面がドラマレコード。 『LOVE PROFILE』(1983年)• 井荻麟名義で全曲を作詞したアルバム。 『STARLIGHT SHOWER』MIO(現)(1984年)• 井荻麟名義で「阿母麗(アモレイ)」、「Good-bye Tokyo」を提供。 LPアルバムであったが、2012年にCD化された。 『REVERBRATION IN GUNDAM』• 『HEROES〜to my treasure〜』(2008年)• 「ララの夜想曲 -nocturne-」を井荻麟名義で作詞。 作曲はGacktが手がけた。 原作・原案名義作品 [ ] 以下の作品では、富野由悠季以外のスタッフの手によって制作された映像作品であっても、テロップでは「原作者」もしくは「原案者」とされ、と名を連ねて表示される。 なお、富野はガンダム第1作の企画案を当時サンライズへ30万円で売り渡したため(当時は業界の慣例としてそれが当たり前であった)、ガンダム関連商品の売上が富野自身に還元されることは長年なかった。 三部作(1986-1987年)• (1988-1991年)及び、以降のシリーズ全作品• (1989年)• (1991-1992年)• (1994-1995年)• シリーズ(1995-1998年)• (1996年)• (1996-1999年)• シリーズ(2002-2007年)• シリーズ(『EVOLVE 5』のみ原作・原案以外にも関与)(2003-2007年)• シリーズ(2004-2009年)• シリーズ(2007-2010年)• (2010年)• (2010-2014年)• (2011-2012年)• シリーズ(2013年-2014年)• (2014年)• (2015年) その他、漫画・小説のガンダム作品などにも必ず名前が入っている。 これはサンライズの監修を受けた正式なガンダム作品であることを意味する名義にもなっている。 受賞 [ ]• 教育映画祭一般教養部門児童劇・動画部門の最優秀作品賞、第17回厚生省児童福祉文化賞: 演出(1975年)• 演出家部門、3期連続で1位• ・優秀作品賞(『OVERMANキングゲイナー』)• 第11回AMDアワード 功労賞(2006年)• 第42回 アニメーション特別功労賞(2006年)• 名誉豹賞(2009年)• 作詞賞(1989年 - 1999年)(「ターンAターン」(井荻麟名義)、2019年)• 文化庁長官表彰(2019年) 出演 [ ] 映画出演 [ ]• 『』(2005年) - 間宮大尉役。 『』(2006年) - 京都の高僧役 カメオ出演。 『』(2008年) - 凛の祖父(写真のみのカメオ出演)• 『』(2010年) - 役 声の出演 [ ]• 『ガンダム Gのレコンギスタ』(2015年) - 農家のお父さん役(井荻翼名義) CM出演 [ ]• 2005年に開催された美術展『』のでの開催時に新しく展示物に加わった作品で、大阪での開催時は展示されていない。 ZAKUの夢 From Firstのリニューアル。 以前に富野がプロデュースしたブロンズ像作品『大地より』(上井草駅前に展示)の鋳造失敗品を流用して作った壊れたガンダム像を、12体のザクが取り囲む作品。 にて展示されている。 元々富野は実物大ガンダムが作られている事自体を知らされていなかったが、完成間際に「頭部の可動、ミスト噴射、発光」を提案し、そのために工期が一ヶ月遅延したとされている(ただし1993年に作られた「10mのVガンダム」では頭部及び肘関節の可動が実現している事から、可動が考えられていなかったというのは多少不自然である)。 脚注 [ ] []• テレビアニメとしてはそれ以前に『』『』『』『』などが放映されている。 GUNDAM. INFO. 2016年2月2日閲覧。 ,NHK• の連載コーナー『おやじのせなか』• NHK BS2「週刊手塚治虫」2009年4月17日 ゲスト富野由悠季• 『だから僕は… ガンダムへの道』(角川スニーカー文庫、2003年)• が自身の同名漫画を原作に制作した日本初30分のテレビアニメーションシリーズ(モノクロ)。 『アニメ大国の肖像』中日新聞連載、2006年• 産経新聞ニュース「ガンダムの富野監督の語った鉄腕アトムと手塚治虫」(2013年6月)• オオタキ・プロダクションの表記は著作『だから僕は…』に準拠。 『だから僕は…』• 『富野由悠季全仕事』• 『』後半で、演出として初のチーフディレクターを務めたが、実際には前半で演出を務めた木下蓮三が引き続き作業を行っており、富野の作品への関与は数話程度にとどまるとしている。 著作『だから 僕は…』• 『』第10号、1980年• ノンクレジットだが、富野本人が証言している• 井荻麟名義で「」(オープニング)、「永遠にアムロ」(エンディング)、「シャアが来る」「いまはおやすみ」(挿入歌)、「きらめきのララァ」(挿入歌・本編未使用)作詞• TARKUS編「Chapter:1 ガンダムビッグ・バンへの道」『ガンプラ・ジェネレーション』、1999年4月14日、、38頁。 井荻麟名義で「復活のイデオン」(オープニング)、「コスモスに君と」(エンディング)作詞• 徳間書店. 2010年9月17日時点の [ ]よりアーカイブ。 2009年11月11日閲覧。 ガンダムは頻繁に再放送がなされており、また劇場版は物語の大筋を捉えていたため、テレビシリーズを見ていなくても特に問題はなかった。 参考文献『ロマンアルバム・エクストラ57 戦闘メカ ザブングル』(徳間書店)• 永野護『ファイブスター物語リブート 1』• 前・中・後。 徳間書店版は劇場版とほぼ同じストーリーだが、前半に劇場版以前の物語が追加されている。 なお、本編ビデオ各巻末には本人出演による、バイストン・ウェルの世界観、演出、作画に関する解説が収録されている。 本作DVD説明より• DVDブックレット• 金沢工業大学. 2009年11月12日閲覧。 「時代を駆ける:富野由悠季:YOSHIYUKI TOMINO 5 」 『毎日新聞』 2009年11月11日、12版、9面。 Film Festival Locarno 2009年8月9日. 2009年11月11日閲覧。 2016年9月16日時点の [ ]よりアーカイブ。 2016年9月16日閲覧。 で連載されていた湖川友謙へのインタビューより抜粋• 『富野由悠季全仕事』の調査• が語るところによる• 著書『映像の原則』の後書き• 「ほとんど」という点についてであるが、コンテというものは1つのカットではなく、カットの連続に意味があるので、直す場合はどうしても全て直すということになる• Check it Out! 1998 バンダイカタログ• NHKBS、アニメ夜話• 『月刊アニメージュTV! 』 63でのイデオン制作時のエピソードにて• 著書『だから 僕は…』にて• 2012年1月5日時点の [ ]よりアーカイブ。 2011年11月30日閲覧。 本人執筆の小説(F91他)の作者紹介欄等による。 著書『だから僕は…』や『「イデオン」ライナー・ノート』においては「亜々子」という名前で記されているが、本名かどうかは明らかにされていない。 メディア芸術プラザ 2007年10月12日 - において• 齋藤孝『なぜ日本人は学ばなくなったのか』(、2008年)• INSIGHT NOW!. 南青山インサイト 2009年7月21日. 2017年11月2日時点のよりアーカイブ。 2018年4月22日閲覧。 ORRICON NEWS. 2017年10月15日. の2017年10月15日時点におけるアーカイブ。 2018年4月22日閲覧。 ORRICON NEWS オリコン. 2018年4月21日. の2018年4月22日時点におけるアーカイブ。 2018年4月22日閲覧。 『全マンガ論』大塚英志との対談 過去に富野と対談した吉本の発言• 後半の演出。 つまり初のチーフディレクター作品という事になるが、実際には初期数話に関わった程度であり、演出は前半に引き続き木下蓮三が行っている(『富野由悠季全仕事』p430)。 イラスト構成で見せる非アニメ作品。 クレジット表記は無し、上映時間は3分35秒。 (『富野由悠季全仕事』p364より)• 下巻の初版は第17〜22章 総77頁分 が欠落している。 2019年5月1日. インタビュアー:. 2019年11月11日閲覧。 2019年3月8日閲覧。 2016年3月4日時点の [ ]よりアーカイブ。 2014年4月13日閲覧。 関連項目及び富野の制作関係者等の一覧 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 (五武冬史)• 外部リンク [ ]•

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