鎌倉時代 中心地。 鎌倉時代に発展した海の道や街道の話

鎌倉の歴史

鎌倉時代 中心地

そうですね。 鎌倉時代における鎌倉は、幕府が置かれた事もあって政治の中心地のひとつではありましたが、依然として京都が「都」である事に変わりはありません。 それどころか鎌倉時代は朝廷もそれなりの政治力を有していたので、京都もまた政治の中心ではあったのです。 ややこしいところです。 鎌倉時代における鎌倉幕府を外国人に説明する場合、 辺境の地に派遣された遠征軍の司令官が、軍事クーデターを起こして政権を掌握するも、その司令官は首都にはとどまらず、遠征軍の司令部がある辺境の町に帰って、そこで政治を行うようになった。 この「遠征軍の司令部」が幕府であり、「遠征軍の司令官」が征夷大将軍であり、「遠征軍の司令部が置かれた町」が鎌倉という事になる。 だから、鎌倉時代における鎌倉の位置づけを教える場合も、政治的実権を掌握した遠征軍の司令部が置かれた町と言ってみたらどうでしょう。 あるいは、ヨーロッパの事例で説明してみるというのも一つの手です。 ローマ帝国の第2代皇帝ティベリウスは、皇帝在任のままカプリ島に引きこもり、そこで政治を行うようになります。 ゆえにティベリウス帝時代のローマ帝国の政治的中心地はカプリ島なわけですが、首都は当然ローマのままです。 ローマには依然として元老院が置かれたままであり、その元老院は依然として政治的影響力を維持している。 しかしカプリ島に引きこもった皇帝は、ローマに側近を配置し、その側近を通じて元老院に対してあれこれ指示を出したり、元老院の頭越しに様々な政治を行ったりしたので、皇帝と元老院の対立はのっぴきならない状態になりました。 この元老院が日本の鎌倉時代における朝廷、カプリ島に引きこもった皇帝ティベリウスが、鎌倉に根拠地を置いて政権を掌握した征夷大将軍のようなもの、といえば少しは分かりやすいかな。 実際鎌倉からあれこれ指示をだし、かつ朝廷の頭越しに政治を行った幕府に対して、朝廷の反発は大きく、結果承久の乱が起きたりしました。 まあいずれにしても、政治の中心と首都が別、というケースは今でもあります。 例えばオランダの憲法上の首都はアムステルダムですが、行政府や立法府(議会)、さらに王宮などが置かれているのはハーグという町です。 補足読みました。 基本的にはそれでいいと思います。 もしそれで外国の方が理解できないのであれば、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の関係を持ち出せばいいと思います。 ローマ教皇はキリスト教の盟主であり、欧州における宗教上の最高権威です。 時に教皇は宗教上の権威にとどまらず世俗的な権力を掌握することもありましたが、いずれにせよ教皇を上回る権威は存在せず、常に皇帝よりも上位の存在でした。 そして教皇はローマにいます(一部例外を除く)。 一方、世俗的権力の代表者ともいうべきローマ皇帝(神聖ローマ皇帝)は基本的にはドイツやオーストリアにいて、ローマにはいません。 神聖ローマ皇帝は、本拠地のあるドイツやオーストリアの地から政治権力を行使していました。 ローマにいる教皇を、京都にいる天皇に置き換え、 ドイツやオーストリアにいる神聖ローマ皇帝を、鎌倉にいる将軍に置き換えればいい。 少なくともヨーロッパ人なら理解できると思う。 株式会社に例えるとわかりやすいと思いますが。 天皇は日本株式会社の創業者にして唯一・最大の株主です。 会社が小さかった頃は自分が直接経営していたが、会社が大きくなるに連れて、会社経営を番頭に任せるようになった。 鎌倉は、鎌倉時代に本社機能があった都市で、源頼朝が天皇から経営を任されて幕府を開いたところです。 日本国民は日本株式会社の従業員。 最初は右も左も分からない新入社員でもキャリアを重ねると中間管理職に育っていく。 経営学的にいえば、資本-経営-労働といった関係です。 時代によって経営者が代われども、天皇は現在に至るまで一貫して日本の大株主です。 天皇の信認を得ずに日本を統治した政治家は日本史に一人もいない。 これは外国人でも知っていることなんです。 天皇が国家元首なので、天皇の居住する街が首都です。 鎌倉が首都になったことは一度もありません。 鎌倉が政治の中心地だったというよりは、 当時、朝廷の力の及ばない遠隔地に行政府を置くことによって、 政治的実権を掌握したわけですが、 あくまでも朝廷の組織の一部として成立しているのが前提なので、 京都との二重行政と考えると中心地というのもどうでしょうか。 征夷大将軍が幕府を置くというのは、字の通り臨時政府ですからね。 本来は、遠征先で幕を張って臨時政府を置いて支配地を監督するのが目的です。 当時、政治的実権を握っていた征夷大将軍が居住していた街ですね。 それは江戸時代も同じなんですが、政治の中心というより、 行政の中心地というべきなのかな。 中心地という言葉に拘ると誤解を招く恐れがありますよね。 「征夷大将軍が朝廷に代わって、行政を代行していた所。 」 ハッキリ云っちゃえば、軍隊が無理やり実力行使して軍事政権を建てた所です。 ただし、京都の天皇が頂点に君臨しているままだという点が日本独特の形態で、 外国人の理解し難い部分だと思います。 外国では国王は処刑されるのが普通なので。

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鎌倉時代

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それが、源頼朝によって鎌倉に幕府が置かれることになったのです。 源頼朝が鎌倉に幕府を開いたその理由には 関東の武士団の勢力が関係してきます。 そもそも武士の成り立ちは、関東の農民たちが自分たちの土地や財産を守るために武装したということが始まりとされています。 当時、関東では朝廷に任命された国司や目代が土地を奪ったり、過剰に税を徴収するなどして勢力を振るっていました。 しかし、地域の住民や関東の武士団たちは苦しめられていました。 当時の武士団は歴史上は豪族であり、その地域の実力者なのですが、国司に歯向かうような立場にはなかったのです。 そこで、特に武士の中でも実力者である平家や源家と親戚関係を持つようになります。 特に源頼朝は富士川の戦いによって平家に勝利し勢い付いていたので、京都に上洛して朝廷を治めようという動きを見せていました。 しかし、関東の武士団の想いは朝廷のある京都に入ることではありませんでした。 武士団の願いは 「朝廷に干渉されたくない」という想いだったのです。 源頼朝はこの想いを汲み、実行に移すことで武士団の信頼を益々得ることになったのです。 「鎌倉」が源頼朝に選ばれた理由 では、江戸幕府滅亡まで約 680年間も続いた武家政権の幕を開けた源頼朝が、「鎌倉」という地を幕府を開く場所として選んだ理由を具体的に見ていきましょう。 このような地形は 守りやすく攻めにくい地形であると言えます。 源頼朝が鎌倉を根拠地とした当時は平氏との戦いが多い時期でしたので、平氏に攻め込まれた場合を想定して自身の本拠地の防御を整える必要性がありました。 その点、鎌倉の地形は自然の要塞となっていたので源頼朝にとってとても都合が良かったのです。 鎌倉の地は歴史の教科書では「天然の要害地」と表現されることがあります。 また、この土地は、元々源頼朝の先祖の土地であったことから縁のある土地でした。 地形から考えると源頼朝にとって好都合であった点は具体的には以下の通りになります。 当時、山を最小限だけ切り取って鎌倉と各地を結ぶ道を作ったとされていますが、江戸時代には東海道は天下の街道として賑わいをみせました。 このことは、現在は国道1号線が東海道に沿って開通している様子からも想像できるでしょう。 その想いを汲んで、源頼朝は朝廷のある都「京都」ではなく、離れた土地、関東で幕府を開きました。 武士の想いとは、具体的には以下のような内容だと考えられます。 鎌倉幕府と切り通し 最後に、鎌倉幕府が作った 「切り通し」について説明します。 鎌倉幕府は、鎌倉を取り巻く山々に切り通しを作ることで鎌倉につながる街道と鎌倉をつなぎました。 本来、切り通しは道幅が広いものもありますが鎌倉の切り通しは、一様に道幅が狭く人が一人分くらいしかと通れないように作られています。 切り通しについて理解を深めていきましょう。 本来、切り通しは道幅が広いものもありますが、鎌倉の切り通しは一様に道幅が狭く人が一人分くらいしかと通れないように作られています。

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鎌倉幕府成立から滅亡まで。鎌倉で幕府ゆかりの史跡スポットを歩く旅13選

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「鎌倉時代の勉強をしよう」が本になりました。 大人から子供まで、どなたにも分かりやすく庶民の生活を知ることができます。 全国有名書店、ネットで購入してください。 よく見ると馬借の子供が米のようなものを口に入れています。 荷主が駄賃(だちん=馬の運搬料)を出し渋ると米を抜いたりしたそうですから、多分この絵は腹をすかした子に抜いた米を食べさせている場面でしょう・・・面白いですね・・ 荷車は一度に大量に運ぶことができますが,でこぼこ道や坂道がぬかるんでいたりするとお手上げです.特に西日本ではこの絵のように牛に引かせることが多かったようです.このように車を使った輸送業者を「車貸」(しゃしゃく)といいます.この絵では五俵の俵を牛車に積んで運んでいますがよく見ると手前に米俵二俵を積んだ馬借も描かれています。 興味深いのはどちらも少年がひいていることです。 庶民の子供達は早くから親の仕事を手伝い、10歳くらいになれば一人前として家計を助けていました。 湖や沼,それにちょっとした川なら小舟でものを運ぶことが便利でした. 町作りやお寺作り,それに日本の大切な輸出品だった「木材」の多くはこのように「いかだ」を組んで運ばれました. 大切な道の役割 いかがでしたか,道には人と物と情報を運ぶ大切な役割があるということが分かりましたか?どんな時代もどんな文化も道がなければ発展しません.人が住んでいると言うことはそこに必ず道ができるということです.私たちは現代のことも含めて,歴史を学ぶときに「道」の存在を忘れてはなりません. ゲンボー先生はこのページを作りながら,鎌倉時代の航路と道路の関係が「まるで現代のフェリーとトラックのようだ・・」と感じました.古代の大道が現代の高速道路と同じルートを通ることや,海や川の道と陸の道がまるで人間の血管のようにうまくつながっていることにも感心しました.道に限ったことではありませんが,私たちは「昔」という言葉のひびきにとらわれずに,祖先の素晴らしい仕事を見失なわないように注意をはらう必要があると強く感じています. 「鎌倉時代の勉強をしよう」が、本になりました。 大人から子供までが読める、楽しくて分かりやすい総合的な鎌倉時代の本です。 新情報も満載。 鎌倉時代観が大きく変わります。 制作・著作 玉川学園・玉川大学・協同 多賀歴史研究所 多賀譲治.

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