項羽本紀 書き下し文。 史記の原文をweb上で閲覧したいです。

四面楚歌 現代語訳

項羽本紀 書き下し文

生涯 [ ] 挙兵まで [ ] 項羽は、の将軍であったの孫。 項氏は代々楚の将軍を務めた家柄であった。 『史記』では本籍を下相としている。 叔父のに養われていた。 『』によれば、項羽は文字を習っても覚えられず 、剣術を習ってもあまり上達しなかった。 項梁はそのことで項羽を怒ったが、項羽は「文字なぞ自分の名前が書ければ十分です。 剣術のように一人を相手にするものはつまらない。 私は万人を相手にする物がやりたい」と答えたので項梁は喜んで集団戦の極意である兵法を項羽に教えた。 項羽は兵法の概略を理解すると、それ以上は学ぼうとしなかった。 項梁に従い、呉に移住した。 成人すると、身長が82寸(1尺が23-24cmとして約188-196cm)の大男となり、怪力を持っており、才気は人を抜きんでていたこともあって、呉中の子弟はすでに項羽には一目置いていた。 また、瞳が二つあったと伝えられる()。 反秦軍 [ ] 秦末期、元年()7月、が起きると、同年9月、項羽は項梁に従って役所に赴いて、項梁に命じられてであるの頭を斬り落とした。 さらに、襲いかかってきた殷通の部下百人近くを一人で殺した。 会稽の役人たちは項羽の強さに平伏し、項梁は会稽郡守となって造反軍に参加した。 その後、項梁は項羽に命じて、を攻めさせ、項羽はやっと攻め落として、城兵を全て生き埋めにして凱旋した。 2年()12月、陳勝が御者のによって殺害されると、同年6月 、項梁はから教えを請い旧王家の末裔・を探し出してこれを「楚王」に祭り上げる。 羋心は「懐王」を名乗り、大いに威勢を奮った。 同年7月、項梁の命令で、項羽は劉邦とともに、城を落とし、西に向かい、秦軍をの東で撃破した。 二人は、城を攻めたが、落とすことができず、さらに西に向かい、同年8月、雍丘において、秦の郡守である(の長子)を討ち取る。 引き返して、を攻めたが、そこから去ってを攻めた。 しかし、陳留を攻めている時、同年9月、項梁は定陶で秦のと戦い、戦死する。 懐王は、からに移り、総大将となった。 同年後9月 、懐王は、斉の使者に項梁の戦死を予言したが楚軍を上将軍に任じ、項羽を次将にして、魯公に任じる。 章邯が攻めていた趙の救援軍は宋義が率いることになった。 項羽は、項梁の仇を討つため、とともにを入ることを望んだが、懐王の老将たち から、「項羽は勇猛ですが残忍で、以前、襄城で皆殺しを行い、通過する先々では残滅されないことはない」という反対があり、劉邦のみが関中に派遣され、西方の地を攻略することとなった。 宋義は趙の・の救援要請を受けて趙のへ向かったが、進軍をまでで止めてしまい、46日間安陽に留まる。 項羽は進軍すべきと宋義に直訴したが「秦が趙との戦いで疲弊したところを打ち破る」と言い、「使うことができないものは斬刑に処す」という項羽に対してあてこすった命令を出す。 宋義は斉と和親するため、斉の宰相に就任しようと楚軍から離れていく息子の宋襄を送るための大宴会を開く。 その一方で、兵は飢え、凍えて苦しんでいた。 3年()11月、項羽は、「秦が趙を打ち破れば、さらに強大になる。 懐王は宋義を上将軍に任じ、国運を託しているのに、宋義は兵を憐れまず、子の出世という私事ばかり考えている。 社稷の臣ではない」と言い、懐王の命令と偽り、宋義が斉と謀り反逆したとして、宋義が帰ってきたところを殺害する。 諸将は項羽に従い、項羽を仮の上将軍とする。 また、宋襄も追いかけて殺害した。 懐王は、項羽を上将軍に任じ、項羽が趙救援の軍を率いることとなった。 項羽は北進を開始し、鉅鹿を包囲していた秦のが率いる20万を超える大軍 と決戦を行い、大勝利を挙げる()。 この戦いで数に劣る楚の兵は皆一人で十人の敵と戦ったと伝えられる。 同年12月、項羽の勇猛さと功績により各国の軍の指導者たちは項羽に服属し、項羽は各国諸侯の上将軍となり、諸侯の軍はその指揮下に入った。 項羽はその後も章邯率いる秦軍を攻めて連戦連勝する。 同年6月、章邯は配下のや趙のに降伏するよう進言を受け、項羽と盟約を結ぼうとする。 この時の盟約は成立しなかったため、項羽はさらに章邯を攻撃して勝利して、章邯と盟約を結んだ。 同年7月、章邯は降伏し、雍王に引き立てることで、戦いは終わった。 降伏した20万人以上の秦兵を先鋒にして、に進ませた。 しかし、元年()11月、暴動の気配が見えたため、新安において、夜襲を行い、章邯・司馬欣・の3名を除いて、全て阬(穴に埋めて殺すこと)した。 項羽は行く先々で秦の土地の平定を行い、同年12月、に入ろうとしたが、その時すでに、別働隊として咸陽を目指していた劉邦が関中に入っていた。 劉邦は、項羽によって章邯が雍王になると聞き、劉邦が関中の王になれないと思い 、函谷関を兵で防ぎ、項羽の関中入りを拒否したため、項羽は関中に入れなかった。 劉邦に関中入りを阻まれたことと、先に劉邦が咸陽を陥落させていたことを聞いて、項羽は大いに怒り、函谷関を攻撃して関中に入った。 また、劉邦の配下のから「劉邦が関中の王となろうとして、元の秦王・を宰相にして、咸陽の財宝を自己の所有としました」と知らせたため、項羽は怒って、劉邦を攻め殺そうとした。 劉邦は慌てて項羽の叔父のを通じて和睦を請い、項羽と劉邦はを開いて和睦の話し合いを行い、劉邦は命拾いをした。 これが有名なである。 西楚の覇王 [ ] 項羽は劉邦を許した後、劉邦に降伏していた秦の最後の王である子嬰とその一族 を処刑にして、を焼き払って財宝を略奪した。 その後、ある論客から地の利が便利な咸陽を都とするように進言されたが、項羽はこれを聞き容れず、「富貴を得て、故郷に帰らないのは錦を着て、夜出歩くことと同じである。 誰も知ってくれはしない」と語った。 退出した論客は「人は『楚人とは沐猴(獼猴。 猿の一種)が冠をつけているのと同じ(楚人沐猴而冠耳)』と申すが、まさにその通りである」と呟いたため、これを聞いた項羽は激怒して、その論客を捕らえて、に処した。 項羽は使者を彭城に使わして、懐王に報告を行うと、懐王は「始めの約(一番始めに関中に入った劉邦を関中の王になること)のようにせよ」と回答を行う。 同年正月、項羽も王になろうとして、秦を滅ぼすことに功績のあった諸将を王侯に任じた()。 劉邦については、和解した上に、懐王の約に背きたくなく、諸侯に背かれることを恐れて、巴・蜀・漢中を与えて、漢王とした。 項羽も自立して「西楚の覇王」と名乗り、楚の彭城(現在の)を都と定めた。 また、懐王を尊んで「義帝」と呼んで楚王から格上げを行った。 他の封建の詳細については参照。 同年2月、という名目で彭城から追い出し、長沙の郴県に移すことにした。 同年4月、封建が終わると、項羽を含めた諸侯は領国に赴いていった。 さらに留任させたを彭城に伴った。 楚漢戦争 [ ] 同年5月、の王族・が挙兵した。 その後、封建に不満を抱く陳余やが続々と項羽の封建した王に対して兵を起こす。 同年7月、項羽は、韓王成を侯に格下げして、殺してしまった。 同年8月、劉邦が挙兵し、関中に封じた章邯・司馬欣・董翳と交戦を行った。 2年()10月、義帝の臣下は次第に背くようになり、項羽は、 ・・に命じて、その途中でさせている。 項羽は、かつて韓王成に仕え、劉邦に仕えていた張良から「劉邦は、懐王の約の通り、関中を得れば、東に進んで項羽と争う気はない」という書簡と斉()と梁(彭越)の謀反書を受け取ったため、同年正月、北上して斉を討伐する。 城陽にて、田栄を破り、田栄はまで逃亡して殺される。 項羽はさらに北上して、北海まで進軍して、斉の城や家屋を焼き、田栄の降伏した兵士を生埋めにし、老弱や婦人をしばって捕虜とした。 そのため、斉の人々は集まって抵抗して、が斉の兵を収めて城陽にて反抗した。 項羽は田横と連戦したが、なかなか降伏させることができなかった。 九江王に封じたにも救援要請を行ったが、病と称して拒否され、英布を恨むようになった。 また、三秦(関中)を平定し、洛陽にて義帝が殺害されたことを知った「漢王」劉邦は大義名分を得て、諸侯へ項羽の討伐を呼びかける。 これ以降の楚と漢の戦争を「」と呼ぶ。 このときの諸侯に向けた檄文は以下のものであった。 「天下共立義帝,北面事之.今項羽放殺義帝於江南,大逆無道.寡人親為發喪,諸侯皆縞素.悉發関内兵,収三河士,南浮江漢以下,願従諸侯王撃楚之殺義帝者.(天下の人はともに義帝を立て、北面して仕えた。 項羽が義帝を江南に放逐して殺したことは、大逆無道の行いである。 私(劉邦)は自ら喪を発した。 諸侯もみな喪服を着よ。 関中の兵を全て発し、三河(河內、河東、河南)の兵を収め、南の方、江漢に浮かべて下っていき、諸侯王に従って、楚の義帝を弑した者(項羽のこと)を討つことを願う)」 同年4月、劉邦は魏・趙などと連合して56万の大軍を率いて楚の彭城を占領するが、3万の精兵のみを率いて急行してきた項羽はこの大軍を一蹴し、20万余を殺戮する()。 劉邦は敗走し、劉邦の父であるや妻のは項羽の捕虜となった。 淮南王である英布が漢につき、楚に反したため、項声と龍且に討伐を命じる。 3年()12月、龍且は淮南を攻撃して英布を打ち破り、英布は逃亡した。 項伯を派遣し、淮南は占領する。 同年4月、項羽は(けいよう、河南省)一帯に劉邦を追い込んだが()、その間に、田横がを王として斉を手中にいれてしまった。 諸侯は項羽に味方し、項羽は滎陽を攻め立てたが、劉邦側のによる内部分裂工作により、参謀にあたり亜父(父についで尊敬する人)とまで呼んでいた范増や、これまで共に闘ってきた・・の将軍らを疑うようになった。 項羽は、范増の進言を聞き入れないようになり 、次第に范増の権限を奪ったため、范増は辞職を願い出、項羽はこれを認めた。 范増は病死した。 同年7月、劉邦は滎陽を脱出し、項羽はやっと滎陽を落とす。 続いて成皋も包囲し、劉邦の脱出後に落城させるが 、彭越の後方撹乱行動によって西進を阻まれる。 項羽は彭越を撃破するが、劉邦は成皋を奪回し、広武に陣地を布いた。 項羽もまた、広武に赴き、劉邦と相対する。 項羽は、劉邦の父を人質にとり、劉邦に降伏をうながすが、劉邦に「項羽と兄弟となることを約束した。 わしの父はお前の父である」と言われ、降伏を拒絶される。 項羽は劉邦の父を殺そうとしたが、項伯に止められて断念する。 項羽と劉邦の対峙は続き、項羽の軍は次第に兵役と補給に疲れ果ててきた。 項羽は劉邦と一騎打ちで戦乱の決着を求めるが、断られる。 項羽は、楚軍の勇士に挑戦させるが、漢軍の楼煩に3度まで射殺される。 項羽が自ら楼煩に挑戦すると、楼煩はその目を合わせると逃亡し、再度出てくることはなかった。 項羽は、劉邦と広武山の間にある澗水をへだてて語り合った。 劉邦は、項羽の罪を数え上げた。 その内容は以下のものであった。 「始與項羽倶受命懐王,曰先入定關中者王之,項羽負約,王我於蜀漢,罪一。 項羽矯殺卿子冠軍而自尊,罪二。 項羽已救趙,當還報,而擅劫諸侯兵入關,罪三。 懐王約入秦無暴掠,項羽燒秦宮室,掘始皇帝冢,私收其財物,罪四。 又彊殺秦降王子嬰,罪五。 詐阬秦子弟新安二十萬,王其將,罪六。 項羽皆王諸將善地,而徙逐故主,令臣下爭叛逆,罪七。 項羽出逐義帝彭城,自都之,奪韓王地,并王梁楚,多自予,罪八。 項羽使人陰弑義帝江南,罪九。 夫為人臣而弑其主,殺已降,為政不平,主約不信,天下所不容,大逆無道,罪十也。 吾以義兵従諸侯誅残賊,使刑餘罪人撃殺項羽,何苦乃與公挑戰! (私が)はじめに項羽と一緒に「先に関中に入ったものを王とする」という懐王の命令を受けたのに、項羽が約束を破り、私をの王とした。 罪の第一である。 項羽は(懐王の命令を偽って)、卿子冠軍(宋義)を殺して、自分で上将軍という尊い地位についた。 罪の第二である。 項羽が趙を救ったからには、(懐王の元に)もどって報告するべきである。 しかし、(現実は)ほしいままに、諸侯や兵を脅して関中に入った。 罪の第三である。 懐王は、「秦(の土地)に入ったら、暴虐・略奪してはいけない」と(項羽に)約したのに、項羽は秦の宮室を焼き、皇帝の墓を掘り、その財物を納めて自分のものとした。 罪の第四である。 また、無理に降伏した秦王・子嬰を殺した。 罪の第五である。 だまして、秦の子弟・20万人を生埋めにして、その将軍(章邯・司馬欣・董翳のこと)を王とした。 罪の第六である。 項羽は(自分とともに戦った)諸将を皆、良い土地の王とし、元の君主を追い出して、臣下に争って(元の君主に)反逆させるように仕向けた。 罪の第七である。 項羽は、義帝を彭城より追い出して、彭城を自らの都とし、韓王の土地を奪い、梁と楚(の土地を)併合して、多くを自分(の土地として)に与えた。 罪の第八である。 項羽は、人を使って、義帝を江南において弑逆し、殺した。 罪の第九である。 人臣でありながら、君主を弑殺し、降伏したものを殺し、不公平な政治を行い、盟約の主でありながら、まことではない。 (項羽は)天下の許されないところであり、大逆無道である。 罪の第十である。 私は、義兵をもって諸侯を従え、残虐な賊を誅するに、刑罰を受けた罪人を仕向けて項羽を打ち殺そうと考えている。 何を苦しんで、君に挑み戦うことがあろうか! 項羽は、一騎打ちでの決着を劉邦に求めたが、劉邦は聞き入れなかった。 項羽は隠し持ったで劉邦を射た。 劉邦は負傷して、成皋に逃亡した。 4年()11月、項羽は漢に攻撃された斉の援軍として龍且を派遣するが、龍且はと戦い、戦死する。 また、彭越が楚に反して、梁の土地を占領し、項羽の軍勢の糧道を絶つ。 項羽はそのため、大司馬のに打って出ないように注意した上で、成皋を任せて、彭越討伐に向かう。 項羽は東に向かい、外黄県が数日にわたり抵抗して降伏しなかったので、15歳以上の男子を全て、生埋めにしようとした。 この時、外黄県令の舎人の子にあたる13歳の少年が、「外黄の人は、彭越に無理に脅されただけです。 大王(項羽)が皆を生埋めにすれば、梁の土地は(項羽に生き埋めにされることを恐れて)降伏しないでしょう」と進言すると、項羽は同意して、外黄の人々を許した。 これを聞いて(梁の土地は)みな争って降伏した。 しかし、成皋にいた曹咎は項羽の命令に反して城を出て漢軍を攻撃し、敗北した曹咎は自殺し、楚軍の財貨は全て奪われた。 項羽は引き返して滎陽の東で包囲されていた鍾離眜を救い、漢軍と対峙する。 項羽の軍勢は疲れ、兵糧も欠乏していることに対し、漢軍は軍勢が盛んで兵糧が多かった。 四面楚歌 [ ] 京劇『覇王別姫』の虞美人 同年9月、項羽は、劉邦からの提案を受け、鴻溝を境に西側を漢の領地とし、東側を楚の土地とした上で、劉太公と呂雉を返還することで劉邦と盟約を結ぶことを承諾する。 盟約は結ばれ、項羽は軍とともに東に帰る。 この時、漢軍が盟約を破り、項羽の後背を襲った。 項羽は、韓信と彭越の軍が合流していない漢軍を打ち破った。 劉邦は、韓信と彭越を再度誘い入れ、韓信・彭越・(劉邦の親族)が漢軍と合流。 楚の大司馬の周殷も楚に反して漢軍につき、項羽のいるに集まってきた。 また、項羽の軍も陳において・樊噲らに敗北する。 5年()12月、垓下では、韓信の兵力30万を始めとする諸侯連合軍に対し、項羽軍は10万ばかりであった。 項羽は、一度は韓信を攻めて退けるが、左右から攻められ苦戦するところを再度韓信に攻められ、敗北する ()。 項羽は垓下に拠ったが、兵は少なく、兵糧も尽きていた。 この時に城の四方から項羽の故郷である楚の国の歌が聞こえてきた。 これを聞いた項羽は「漢は皆已に楚を得たるか? 是れ何ぞ楚人の多きや」と嘆いた。 ここから の言葉が生まれた。 項羽の兵は、漢軍が楚の地を全て得たものと考えた。 その夜、項羽が本陣で酒を飲む。 この時、 に送った詩がである。 「力は山を抜き,気は世を蓋う。 時、利あらず、、逝かず。 騅の逝かざるを奈何にす可き。 虞や、虞や、若を奈何んせん! 」 (私の)力は山を抜き、(私の)気は世を覆うほどである。 (だが)時勢が味方せず、(愛馬の)騅も(疲れて)進まない。 騅が進まないのに、どうしようか。 虞よ、虞よ、お前をどうしたらよいか! 項羽が数回歌うと、虞美人も唱和する。 項羽は落涙し、側近も泣き、仰ぎ見るものもなかった。 項羽は手勢八百余騎を率いて漢軍の包囲網を南へ突破する。 漢軍は灌嬰が騎兵五千で追撃。 項羽らは淮水を渡る時には、百余騎にまで減っていた。 陰陵県に着いた時に道に迷い、道を尋ねた田父に騙されて、沼沢の地に陥り、漢軍に追いつかれる。 項羽は東に転じ、東城県に着いた。 この時、28騎にまで減っていた。 項羽は脱出をできないと考え、従う騎兵たちに語った。 「私が兵を起こして8年。 わが身は70余回戦った。 (私が)当たった敵は破れ、討った相手は降伏し、いままで敗北したことはなかった。 そして、覇王として天下を有したのだ。 そうであるのに、今はこのように追い詰められている。 これは、天が私を滅ぼそうとしているためであり、戦い方のせいではない(此天之亡我、非戦之罪也)。 今日、まことに死を決した。 願はくば、諸君のために決戦を行い、必ず三度勝とう。 諸君のために、囲みをつぶし、(敵)将を斬って、(敵の)旗を倒すことで、諸君に天が私を滅ぼすのであり、戦い方のせいではないということを知らせよう」 項羽は28騎を4隊に分け、1隊を率いて四方に向かう。 漢軍の一人の武将を斬り、包囲を突破する。 さらに、漢軍の一人の都尉を討ち取り、百人近くを殺した。 項羽の部下は2騎を失っただけであった。 項羽は長江を渡ろうとして、烏江(うこう、現在の烏江鎮)という所までやってきた。 烏江の亭長に、 「江東は小さな所ですが土地は千里あり、万の人が住んでいます、彼の地ではまた王になるには十分でしょう。 願わくは大王、早く渡ってください。 今は私一人が船を出し、漢の軍は至っても渡ることはできないでしょう」 と言われたが、項羽は 「天が我を滅ぼすのに何故渡ろうか? 私が江東の子弟八千人を率いてここから西へ出発し、今一人として帰る者が居ない。 たとえ江東の父兄が哀れんで私を王にしようとも、私に何の面目があろう? たとえ彼らがそれを言わなくとも、どうして私一人が心に恥を感じずにいられようか」 と断った。 項羽は自分の乗馬である騅を烏江の亭長に譲り渡し、従卒を下馬させ、漢軍を迎え撃ち、項羽みずから数百人の敵兵を討ち取った。 この戦いで十数か所に傷を負った項羽は、追っ手の中に旧知のがいるのを見つけると、 「漢は私の頭に千金と一万戸の邑を懸けていると聞く、旧知のお前にその恩賞をくれてやろう」と言って、自らの首を刎ねて死んだ。 享年31。 死後 [ ] 項羽の墓 劉邦は項羽を殺した者に対して領土をかけていたので、項羽が死んだ時、王翳が頭をとり、その他の部分の死体に向かって兵士が群がり、死体を取り合い、殺し合う者が数十人にもなった。 故に死体は五つに分かれた。 劉邦はその五つの持ち主(楊喜・王翳・呂馬童・呂勝・楊武)に対して一つの領土を分割して渡した。 漢軍の取った首級は8万人にのぼった。 項羽が死ぬと、楚の土地は抵抗をみせるが、灌嬰・ら派遣された漢の軍勢により平定されて漢に降伏する。 抵抗した中には、浙江を都にして王を名乗った壮息という人物もいた。 ただ、魯だけが降伏しなかったため、劉邦は全軍を率いて魯に赴き、項羽の首級を示すと、魯は降伏した。 劉邦は項羽が楚において、魯公に封じられていたことと、魯が最後に降伏したため、魯公の礼を以て穀城に葬った。 劉邦は、項羽の墓前で泣いてから去っていった。 項一族のその後 [ ] 項羽の死後、(射陽侯)・(桃侯)・(平皋侯)・玄武侯(名は不明)といった項一族は劉邦によってに封じられ、劉姓を賜っている。 のは、その子孫である可能性がある。 評価 [ ] は『』の中で「項羽が勃興したことは何という速さだろう。 項羽は土地も有していないのに、勢いに乗って民間の中から決起し、3年で秦を滅ぼし、天下を分けて王侯を封じて、覇王と名乗るまでになった。 終わりこそ全うしなかったが、古今、いまだかつてなかった事業であった。 (中略)(項羽は)自分のなすべきは覇王の業と考え、武力で天下を征服・管理しようとして、5年間で己の国を滅ぼし、自分自身も死んでしまった。 それでも、死ぬ前にもまだ悟らず、自分を責めようとしなかった。 『天が私を滅ぼすのだ。 戦い方の過ちではない』と語ったのは、間違いの甚だしいものではないか」 と評価している。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 京劇『覇王別姫』 項羽と同時代の人物であり、かつて項羽に仕え、後にについたは、「項羽が叱咤すると、皆、恐れるが、すぐれた将に任せることができない。 これは『匹夫の勇』である。 また、人と会うと相手を敬い慈しみ、言葉づかいは穏やかで、病気の人には涙を流して食事を与えるが、手柄のある人に土地や爵位を授けることはできない。 これは『婦人の仁』である」、「項羽が行き過ぎるところで、残滅されないことはなく、天下の人は大きな恨みを持ち、民衆はなつかず、ただその威と強さを恐れているだけである。 覇王と名乗っているが、実は天下の人心を失っている」と評している。 同じくかつて項羽に仕え、劉邦についたは、「項羽の人柄は人に対して謙虚で敬い愛しするため、高潔で礼を好む士が数多くその元に向かう。 しかし、功績を立てて土地や爵位を与えることを惜しむため、士はなつくことはない」、「項羽は人を信じることができず、愛し任せるのは、一族か妻の親族だけである。 優れた人物がいても用いることができない」と評している。 劉邦に仕えたは、「項羽は斉を討ち、自分で資材を背負って、兵士の先頭に立っている」と評している。 劉邦は、「私は・・韓信という三人の人傑をうまく用いて天下を得ることができたが、項羽はただ一人の范増を用いることができなかった。 これが、項羽が私に敗北した理由である」と評している。 項羽の参謀として仕えた范増は、「他人にひどいことをすることに忍びない」と評している。 項羽は劉邦と対照的な性格とされ、それを示す逸話として項羽と劉邦がそれぞれのに会った時の発言がよく取り上げられる。 項羽は始皇帝の行列を見て「彼奴に取って代わってやるわ! 」と言ったが、劉邦は「ああ、大丈夫たる者、ああならなくてはいかんな」と言ったと伝えられる。 『史記』の中で、項羽の事項は第7巻・項羽本紀を立てられている。 なお、この項羽本紀は『史記』の中でも特に名文の誉れが高く、日本の『』におけるの最期を描いた場面は、項羽本紀に於ける項羽の死の描写に影響を受けているといわれている。 司馬遷が、項羽の伝記を本紀に立てたのは、後世に異論があり、は『』において、「項王は崛起して雄を一朝に争う。 たとひ西楚を号すと雖も、竟(つい)に未だ天子の位を践まず、本紀と称すべからず」と論じている。 これに対し、『』(を編纂した)は、項羽の伝記は本紀に立てることを肯定する張照や馮景の論を引用して、二説を是として、項羽本紀を立てたことを妥当としている。 司馬遷は、項羽を歴代帝王の一人として認めたのではないが、『史記』の執筆者としては、当時の事情として、秦漢の間に項羽本紀の一遍を立てるのは、また当然と考えたのであろう。 項羽が、天下を取ったか否かは意見が分かれている が、現時点では世界史にて西楚は歴代王朝には名を連ねていない。 近年の項羽評価としては、漢文学者のは、「では俎上の鯉の如く遇した劉邦と、遂に所を換えての一戦で敗れ去ったのには、一掬の涙を禁じ得ない。 彼がしばしば言った如く、彼の豪勇と戦略は比類で、はるかに劉邦にまさり、漢軍を窮地に逐いこみながら、再三長蛇を逸したのは、その智謀において一籌を輸したとみるべきだろうか」としている。 また、は著書『項羽』において、「皇帝劉邦に対する御前会議である『楚漢春秋』を根本史料とする『史記』は、項羽の敗北を導いたかれの性格的な弱さについて過剰な記述をのこしている」 (ただし、同時に、「『史記』は中国史書のなかで、もっとも虚構の要素の少ない史書である」としている )、「歴史的に見たときに、項羽が果たした最大の功績は、この一千年にわたる西高東低の地政学的状況に終止符を打ったことだろう。 (中略)東西の統合あるいは融合の形勢はいっそう深化するとともに、地政学的な重心もまたこれに対応して東遷した」 、「お互いに熱い心で結びついていた人びとが、やがて項羽から離れていき、かれが孤立したことは事実である。 (中略)これらすべての問題の基礎にあるのは、弱冠24歳で蜂起した項羽の心に、楚国への愛、楚文化への愛、楚の民衆の愛のみがあって、これを周囲のさまざまな要素とのあいだに正しく位置づけることのできない狭さがあったという事実である」 としている。 項羽の短くも苛烈な生涯に多くの人々が魅了されてきたのも事実であり、の「覇王別姫」は現在も人気の演目となっている。 参考文献 [ ]• 、『項羽』、、2010. 、『劉邦』、、2005. 、『項羽と劉邦の時代』、、2006. 、『史記会注考証』、、1934• 、「史記二(本紀)」、、1973. 4 関連研究 [ ]• 、『項羽』、、1966• 6(上記の文庫版)• 歴史群像シリーズ32、『【項羽と劉邦 上巻】 龍虎、泰滅尽への鋭鋒』、、1993• 、『項羽と劉邦の時代』、、2006. 、『項羽』、、2010. 、『漢帝国成立前史』、、2018. 、『漢帝国の成立』、、2018. 3 関連項目 [ ]• - 『西漢演義(西漢通俗演義とも)』では、項羽は火尖槍を得物としている。 - 項羽が最後の最後まで一緒にいたのが愛馬・騅。 - 秦の始皇帝が建てた宮殿である。 阿房宮は項羽に焼かれた。 - 詩「題烏江亭」に「項羽が楚に落ち延びていたら捲土重来できたろうに」と。 の語を作った。 項羽が登場する作品 [ ] 小説• 『西漢通俗演義』 作:甄偉 中国の小説• 『通俗漢楚軍談』 訳:夢梅軒章峯・称好軒徽庵 8年()に刊行された『西漢通俗演義』の漢文による翻訳。 によるも存在。 『項羽と劉邦』 作:(1917年)• 『』 作: 連載時の題名は「漢の風、楚の雨」(1977年~1979年)• 『小説 項羽と劉邦』 作:• 『』 - の戯曲(1917年)。 『』(作の。 上記の長與善郎の『』が原作)• 『項羽と劉邦』(企画・構成)。 主演(1986年)。 『』(1994年、中国・香港合作、演:)• 『』(2011年、中国、演:)• 『』(2012年、中国、演:) テレビドラマ• 『』(1991年、中国、演:)• 『』(1997年、中国、演:)• 『』(2004年、中国、演:)• 『』(2004年、香港、演:)• 『』 (2007年、中国のテレビ人形劇。 原題『秦漢英杰』)• 『』(2009年、中国、演:)• 『 』(2012年、中国、演:) 漫画• 『史記 項羽と劉邦』 作:、• 『』 作:• 『』 作:• 『レッドドラゴン』 作:• 『バウンダー 最強の少年 項羽』 作:• 『』作: ゲーム• 『項羽と劉邦』 - ソフトプラン社が発売した用のゲームソフト(1988年)。 PC-98で続編も出ている。 『』()• (フリーゲーム)• 『』( 声:)• 『』(2018年 声:)• 『楚漢女子』(株式会社Viola) 脚注 [ ] []• 『史記』項羽本紀などによる。 『』では「字は子羽」とする。 以下、特に注釈がない部分は、『史記』項羽本紀による。 年号は『史記』秦楚之際月表第四による。 西暦でも表しているが、この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。 また、秦代では正月を端月とする。 は著書『項羽』でこの称号を疑問視する。 本来は「楚王」あるいは「大楚王」と名乗ったところを、劉邦陣営が楚を「西楚」と領土を狭め、王を「覇王」と暴力的な意味をわざと付けて呼んだのが記録に残ったとする。 『史記』項羽本紀、「学書不成」異説として、は「ここでいう書とは歴史書のことで、項羽は『歴史書なんか歴史上の人名がわかればよいのだ』と開き直ったのだ」という。 通説では本文の通りで、も雨森の説を退けている。 (『史記会注考証』)• 項羽の兵法は『』藝文志に「項王一巻」とあり、後世に伝わったが、現存はしていない。 (『史記会注考証』)• 清のは「(『史記』黥布列伝によると)黥布の陣立てが、項羽の兵法に依っていることを見た劉邦はそのことを憎んだ」という文章を注釈として引用している。 (『史記会注考証』)• 『』の著者であるは、「(私が)思うに、(項羽は)兵を統率し、陣を形勢するのを得意としていたがために、力戦することができ、敵を撃ち砕けた。 しかし、権謀の策が足りず、後に(相手に)奔走させられて、疲れ果てたところを敵に乗じられて倒されてしまった。 これが、ここでいう(項羽が)『兵法の概略を理解すると、それ以上は学ぼうとしなかった』という文の意味である」と論じている。 (『史記会注考証』)• 司馬遷はも瞳が二つあったと伝えられることから、項羽は舜の子孫ではなかったかと疑っている。 この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。 以下、同じ。 後9月は、における。 佐竹靖彦は、「懐王の身辺に、どのような老将がいたのであろうか」と疑問を投げている。 佐竹靖彦『項羽』146頁• 『史記』高祖本紀• 『史記』「黥布列伝」によれば、「項氏に生き埋めにされて殺された人は、数千数万人にのぼる」とされる。 『史記』高祖本紀• 佐竹靖彦は項羽が怒った理由を、「劉邦が関中に王権を持つ王として、項羽を対等の諸侯と見なして、軍隊の侵入を阻んだ」ためとする。 佐竹靖彦『項羽』192頁• 史記によれば、この時の項羽の兵力は40万、劉邦の兵力を10万だったとする。 『史記』始皇本紀• この論客の名は『』陳勝項籍伝と『』では「韓生」、『』では「蔡生」と記されている• 永田英正は、『(前略)(彭城は、)いくら要害といったところで、これを「金城千里」といわれた関中の地と比較すれば、まったく問題にならず、一望千里の平野のどまんなかに位置するこの城は、東西南北、四面から敵の侵入にさらされていた。 まして天下に号令せんとするには、彭城の地はあまりにも東方に偏りすぎていた。 項羽が関中を引き上げて彭城に都したことは、明らかに戦略上の失敗であった。 』としている。 永田英正は、『義帝(懐王)との約束に違反して劉邦を関中王にしなかったことも含め、論功行賞が不公平だった(中略)。 項羽がこの論功行賞でとった一つの原則は、文字どおり軍功の有無ということ(中略)。 項羽のこの原則は、いちおう筋道は立っていた。 しかし問題はその判定の基準と恩賞の較差である。 (中略)それは、あまりにも主観的であり、あまりにも利己的な立場から行われたために、全体として不公平の譏を免れることはできなかった。 』としている。 永田英正は、『すでに秦も滅び、自分(項羽)が天下の第一人者となったいまでは、かれの存在がしだいに目の上のこぶとなっていた。 そこで封地を与えるという名目で、かれを遠い僻地へ隔離しようとしたのである。 』、『秦を滅ぼしていらい、項羽にとって、義帝は煙たい存在であった。 その義帝に反抗のそぶりがみえたと聞いて、かれ(項羽)は殺す決心をしたのだ』としている。 『史記』黥布列伝• 永田英正は、『理由は何であれ、秦政権打倒、楚国再興という大義名分のためにおしいただいた盟主義帝である。 その義帝を暗殺したことは、まったく弁解の余地のない不義な行為であった。 項羽は道義上の責任を問われ、かれを攻撃する絶好の口実をみずからつくってしまったのである。 道義心の強い項羽としては、これはとりかえしのつかぬ大きな失敗であった。 』としている。 『史記』高祖本紀• 『史記』高祖本紀• 佐竹靖彦は、彭城の戦い後の形勢において、劉邦は関中と・に郡県制を行い、大きな国力を手にいれているのに対し、「項羽の側は、劉邦軍の彭城占領によって天下の主催者としての威望は傷つけられた」としている。 佐竹靖彦『項羽』245頁• 『史記』黥布列伝• 『史記』陳丞相世家• このような事態が生じた原因として、佐竹靖彦は「項羽集団においては、目的合理性な官僚体制がまったく育っていなかった」ことを挙げている。 佐竹靖彦『項羽』276頁• 佐竹靖彦は、「(楚は)国力としては(劉邦の漢に比べ)劣勢に立ちながらも、名将項羽に率いられ、高い戦意に支えられた楚軍は最初圧倒的に優勢であった」としている。 佐竹靖彦『項羽』267頁• 『史記』高祖本紀• 佐竹靖彦は、「項羽楚軍の幕僚部と武将のあいだの関係も、うまくいっていなかった可能性がある。 何よりも、項羽の懇切な命令が守られていないことに、楚軍の規律の崩壊が感じられる」としている。 佐竹靖彦『項羽』302頁• 佐竹靖彦は、「この時期になると、楚国の軍事体制は、もっぱら項羽に率いられた中央軍の滎陽・成皋包囲を焦点として組み立てられており、予想外の事態にはきわめて脆弱な反応しか示しえない状態に落ち込んでいたのである」としている。 佐竹靖彦『項羽』298頁• 楚漢戦争の後半は、『項羽本紀』と『高祖本紀』とにおいて、時系列が異なる。 ここでは、項羽本紀に従う。 藤田勝久は、「このあたりの経過は、『史記』の項羽本紀と高祖本紀に混乱があり、正確にたどるのは難しい」としている。 藤田勝久『項羽と劉邦の時代』• 『史記』樊酈滕灌列伝• 『史記』高祖本紀• ただし、や佐竹靖彦らは垓下の戦いはなく、佐竹靖彦は『項羽』にて陳下における戦いで項羽は戦死したと主張している。 佐竹靖彦『劉邦』487~492頁• 『史記』高祖本紀• 中国紙・北京新浪網の記事によれば、漢書項籍伝や項氏宗譜では夫人(妻)とするが、中国の学者・王立群は結婚していなかった、愛人に過ぎなかったとし、逆に寧業高は「正式に結婚していた」としているという。 『史記』高祖本紀では、項羽が敗北して逃走したため、楚軍は大敗したものとする。 『史記』高祖本紀• 佐竹靖彦は、「実際の戦闘は、大規模な正規軍を率いた灌嬰が東城を含む九江郡を掃討したときに、左右司馬各一人、卒万二千人(兵卒、12,000人)が降伏した。 彼はさらに長江を渡って鄣郡、豫章郡、会稽郡を平定して、合計五十二県を得たということであろう。 これらの戦役全体の斬首が八万であったということになる」としている。 佐竹靖彦『項羽』311頁• 『史記』樊酈滕灌列伝• 『史記』絳侯周勃世家• 『史記』高祖功臣侯者年表第六• 『』島夷劉裕伝において、劉裕について「或云本姓項,改為劉氏。 」と記載されている。 「天が私を滅ぼすのだ」という項羽の負け惜しみについては歴代の学者がこぞって批判しており、漢のは「天ではなく(劉邦が組織した)集団の力に負けたのだ。 項羽は最後までそれがわからなかったのだ」と批判している(『揚子法言』)。 『史記』「淮陰侯列伝」• 『史記』「陳丞相世家」• 『史記』「黥布列伝」• 『史記』「高祖本紀」• 『』劉項俱觀始皇• 『』「史記二(本紀)」503頁• 『新釈漢文大系』「史記二(本紀)」503頁• 佐竹靖彦は『項羽』で項羽が天下を制したとするが、の『』やの『ビジュアル三国志3000人』(頁79)はこれを否定している。 『新釈漢文大系』「史記二(本紀)」503頁• 佐竹靖彦、『項羽』9頁• 佐竹靖彦、『項羽』348頁• 佐竹靖彦、『項羽』42~43頁• 佐竹靖彦、『項羽』330~331頁• このサイトの中で、項羽はと同じく最強を誇るとされる。 外部リンク [ ] 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。

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彼取りて代はるべきなり・項羽と劉邦 現代語訳・書き下し文

項羽本紀 書き下し文

項王の最期(項王自刎) (現代語訳・解説あり)項羽本紀第七 史記 漢文 項王の最期 -項羽本紀第七より- I think; therefore I am! 本文(白文・書き下し文) 於是項王乃欲東渡烏江。 烏江亭長、檥船待。 謂項王曰、 「江東雖小、地方千里、 衆数十万人、亦足王也。 願大王急渡。 今独臣有船。 漢軍至、無以渡。 」 項王笑曰、 「天之亡我、我何渡為。 且籍与江東子弟八千人、渡江而西。 今無一人還。 縦江東父兄憐而王我、 我何面目見之。 縦彼不言、籍独不愧於心乎。 」 乃謂亭長曰、 「吾知公長者。 吾騎此馬五歳、所当無敵。 嘗一日行千里。 不忍殺之。 以賜公。 」 乃令騎皆下馬歩行、持短兵接戦。 独籍所殺漢軍数百人。 項王身亦被十余創。 顧見漢騎司馬呂馬童。 曰、 「若非吾故人乎。 」 馬童面之、指王翳曰、 「此項王也。 」 項王乃曰、 「吾聞漢購我頭千金・邑万戸。 吾為若徳。 」 乃自刎而死。 是に於いて項王乃ち東のかた烏江を渡らんと欲す。 烏江の亭長、船を檥して待つ。 項王に謂ひて曰はく、 「江東小なりと雖も、地は方千里、 衆は数十万人、亦た王たるに足るなり。 願はくは大王急ぎ渡れ。 今独り臣のみ船有り。 漢軍至るも、以て渡る無し。 項王笑ひて曰はく、 「天の我を亡ぼすに、我何ぞ渡ることを為さん。 且つ籍江東の子弟八千人と、江を渡りて西す。 今一人の還るもの無し。 縦ひ江東の父兄憐れみて我を王とすとも、 我何の面目ありて之に見えん。 縦ひ彼言はずとも、籍独り心に愧ぢざらんや。 乃ち亭長に謂ひて曰はく、 「吾公の長者たるを知る。 吾此の馬に騎すること五歳、当たる所敵無し。 嘗て一日に行くこと千里なり。 之を殺すに忍びず。 以て公に賜はん。 乃ち騎をして皆馬を下りて歩行せしめ、短兵を持して接戦す。 独り籍の殺す所の漢軍、数百人なり。 項王の身も亦十余創を被る。 顧みるに漢の騎司馬呂馬童を見たり。 曰はく、 「若は吾が故人に非ずや。 馬童之に面し、王翳に指して曰はく、 「此れ項王なり。 項王乃ち曰はく、 「吾聞く、漢我が頭を千金・邑万戸に購ふ、と。 吾若の為に徳せしめん。 乃ち自刎して死す。 烏江の亭長は、船を出す用意をして待っていた。 項王にこう言った、 「江東は小さくはありますが、地は千里四方、人口は数十万人、 王となるには十分の大きさです。 大王は急いで渡られてください。 今はわたくし一人だけが船を持っています。 漢軍は、ここに至っても、渡ることができません。 」 項王は笑ってこう言った、 「天が私を滅ぼそうとしているのに、どうして渡河しようか、いやしまい。 しかも、私は江東の子弟8千人と渡河して西進し、 今一人の帰る者も無い。 たとえ江東の父兄が私を憐れんで王にしたとしても、 私は何の面目があって彼らに会えようか、いや、全く面目なく、会えない。 たとえ彼らが何も言わなかったとしても、 私が心に恥じないことがあろうか、いや恥じる。 」 そして、亭長にこう言った、 「私はあなたが高徳の人であることを知っている。 私はこの馬に5年間乗ってきたが、当たる所敵無しであった。 かつて、一日に千里走ったこともあった。 とても殺すには忍びない。 あなたに与えよう。 」 そして、配下の騎兵を下馬させ、白兵戦を挑んだ。 項王は一人で数百人の漢兵を殺した。 項王の身も十余創の傷を受けた。 項王が振り返ると、そこには漢の騎司馬呂馬童がいた。 項王は言った、 「お前は私の旧友ではないか。 」 呂馬童は顔を背け、王翳に指し示して言った、 「項王はここにいるぞ。 」 項王は言った、 「私は聞いている、漢は私の首に千金・一万個の邑を掛けていると。 私はお前に恩恵を施してやろう。 」 そうして、項王は自ら首をはねて死んだ。 烏江亭長、檥船待。 ここにおいてかうわうすなはちひがしのかたうかうをわたらんとほつす。 うかうのていちやう、ふねをぎしてまつ。 項羽は""の垓下から漢軍の包囲を突破して南方へ逃げてきていた。 「亭」は"宿場"であり、秦代には警備の役も担った。 「檥」は"船を出す用意をする"。 かうわうにいひていはく、「かうとうせうなりといへども、ちははうせんり、しゆうはすうじふまんにん、またわうたるにたるなり。 「江東」は江南に同じ。 今独臣有船。 漢軍至、無以渡。 」 ねがはくはだいわういそぎわたれ。 いまひとりしんのみふねあり。 かんぐんいたるも、もつてわたるなし。 「独」は「のみ」と呼応する。 且籍与江東子弟八千人、渡江而西。 今無一人還。 かうわうわらひていはく、「てんのわれをほろぼすに、われなんぞわたることをなさん。 かつせきかうとうのしていはつせんにんと、かうをわたりてにしす。 いまひとりのかへるものなし。 「且」は"そのうえ・また"。 縦彼不言、籍独不愧於心乎。 」 たとひかうとうのふけいあはれみてわれをわうとすとも、われなんのめんぼくありてこれにまみえん。 たとひかれいはずとも、せきひとりこころにはぢざらんや。 「縦 たと-ヒ 」は"たとえ〜であっても"。 「見 まみ-ユ 」は"会う・お目にかかる"。 ここにおける「独」は反語を表す。 「愧」は"恥じる"。 「籍」は項羽の名前である。 「羽」は字。 吾騎此馬五歳、所当無敵。 すなはちていちやうにいひていはく、「われこうのちやうしやたるをしる。 われこのうまにきすることごさい、あたるところてきなし。 「公」は尊敬をこめた呼びかけの語で"あなた"のような意味。 「長者 ちょうしゃ 」は"徳の高い人"。 「歳」は「年」に通じる。 不忍殺之。 以賜公。 」 かつていちにちにゆくことせんりなり。 これをころすにしのびず。 もつてこうにたまはん。 「不忍」は"耐えられない・我慢できない・見逃せない"。 「賜」は"お与えになる"、尊敬表現である。 従ってここは、自尊表現になっている。 独籍所殺漢軍数百人。 項王身亦被十余創。 すなはちきをしてみなうまをくだりてほかうせしめ、たいぺいをじしてせつせんす。 ひとりせきのころすところのかんぐん、すうひやくにんなり。 かうわうのみもまたじふよさうをかうむる。 「令」は使役。 「兵」は戦争関連の事柄を表すが、ここでは"武器"の意である。 「創」は傷を表す。 曰、「若非吾故人乎。 」馬童面之、指王翳曰、「此項王也。 」 かへりみるにかんのきしばりよばどうをみたり。 いはく、「なんぢはわがこじんにあらずや。 ばどうこれにめんし、わうえいにしめしていはく、「これかうわうなり。 「騎司馬」は"騎兵隊長"。 「若 なんぢ 」は"おまえ"。 「故人」は"旧友"、死んだ人ではない。 「非〜」は"〜でない"。 「面」は"顔を背ける"。 吾為若徳。 」乃自刎而死。 かうわうすなはちいはく、「われきく、かんわがかうべをせんきん・いふばんこにあがなふ、と。 われなんぢのためにとくせしめん。 乃ち自刎して死す。 「購」は"懸賞を掛けて求める"。 「邑」は城壁で囲まれた町を表す。 中国古代の町はほとんどこれだった。 ちなみに城壁の外を「郊」という。 「徳」は"恩恵を施す・手柄を立てさせてやる"。 「自刎」は"自殺"。 総括 から漢の大群を少数精鋭で破りながら烏江まで逃げてきた項羽だったが、 やはり故郷に至り、ともに出発した8千人が皆死んでしまったことに思うところがあったのだろう。 ここで項羽は逃亡をあきらめた。 もともと項羽は敗れたことがなかった。 劉邦が何度も敗れ、逃亡してはまた復活を繰り返したのとは対照的である。

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鴻門之会(史記)(1)原文・書き下し文・現代語訳

項羽本紀 書き下し文

スポンサーリンク 中国の前漢時代の歴史家である 司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した 『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。 『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。 『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。 史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。 このページでは、『項羽本紀』について解説する。 参考文献(ページ末尾のAmazonアソシエイトからご購入頂けます) 司馬遷『史記 全8巻』 ちくま学芸文庫 ,大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫) 楽天広告 [書き下し文] 項籍(こうせき)なる者は、下相(かしょう)の人なり、字(あざな)は羽。 初めて起ちし(たちし)時、年二十四。 その季父(きふ)は項梁(こうりょう)、梁の父は即ち楚将項燕(こうえん)にして、秦将王剪(おうせん)の戮(りく)する所と為る者なり。 項氏世世(よよ)楚の将為りて、項に封ぜられ、故に項氏を姓とす。 項籍少き(わかき)時、書を学ぶも成らず、去りて剣を学ぶも、又成らず。 項梁これを怒る。 籍曰く、「書は以て名姓(めいせい)を記するに足るのみ。 剣は一人の敵、学ぶに足らず。 万人の敵を学ばん」と。 ここに於て項梁乃ち(すなわち)籍に兵法を教う。 籍大いに喜ぶ。 略(ほぼ)その意を知るや、又肯えて(あえて)学ぶを竟えず(おえず)。 [現代語訳] 項籍という者は下相の人で、字は羽という。 初めて決起したのは、24歳の時である。 彼の末の叔父は項梁であり、その項梁の父は楚の名将として知られる項燕で、項燕将軍は秦の将軍王センに殺された。 項氏は先祖代々、楚の将軍を務めていた家柄であり、楚王から項という土地の領主に封じられたために、項氏を姓にしたのである。 項籍(項羽)は若い時に学問(文字)を学んだが成し遂げることができず、学問をやめて剣の道を学んだがこれも成し遂げられなかった。 叔父の項梁はこれを怒った。 項籍は言った。 「文字は姓名を書くことができれば十分です。 剣術は一人の敵を倒す為のものであり、学ぶほどの価値はありません。 万人の敵を相手にするものを学びたいのです。 これを聞いた項梁は項羽に兵法を教えた。 項籍は大いに喜んで学んだ。 しかし、おおよその兵法の意味を知ると、またも最後まで兵法を修めようとはしなかった。 [補足] 『項羽本紀』は、『史記』の巻7、本紀12篇の7番目に当たります。 この部分では、項羽の出自・出身・親族関係について説明されていて、前232年に生まれた項羽が前209年に秦を打倒し天下を制覇するために決起したことが分かります。 項羽の叔父の項梁、項梁の父の項燕について書かれていますが、楚の将軍・項燕は『陳勝・呉広の乱』で呉広が自称した名将であり、当時の中原では知らない者がいないほどに有名な楚の復興を目指した将軍でした。 項羽は名将・項燕の孫という名門一族の血統に連なる武将ですが、学問を学んでも剣術を学んでも中途半端に終わってしまうという『飽きやすい性格』を持っており、その事がライバルである劉邦との戦いでも『詰めの甘さ』につながってしまったのかもしれません。 項羽が自ら進んで学んだという『兵法』でさえも、大まかな内容を学んでしまうと、それ以上の努力をしてまで兵法を極めるということはしなかったのでした。 楽天広告 [書き下し文] 秦の始皇帝会稽(かいけい)に游び(あそび)、浙江(せっこう)を渡るに、梁(りょう)籍(せき)と倶(とも)に観る。 籍曰く、「彼取りて代わるべきなり」と。 梁その口を掩いて(おおいて)曰く、「妄言するなかれ。 族せられん」と。 梁これを以て籍を奇とす。 籍は長(ちょう)八尺余り、力能く鼎(かなえ)をあげ、才気人に過ぎ、呉中の子弟と雖も、皆已(すで)に籍を憚る。 秦の二世元年の七月、陳渉等大沢(だいたく)中に起つ。 その九月、会稽守(かいけいしゅ)の通梁(とうりょう)に謂ひて曰く、「江西(こうせい)皆反す。 これ亦天秦を亡ぼす(ほろぼす)の時なり。 吾聞く、先んずれば即ち人を制し、後るれば(おくるれば)即ち人の制する所と為ると。 吾兵を発し、公及び桓楚(かんそ)をして将たらしめんと欲す」と。 この時、桓楚亡げて(にげて)沢中(たくちゅう)に在り。 梁曰く、「桓楚亡げ、人その処(ところ)を知るなく、独り籍これを知るのみ」と。 梁乃ち出でて籍に誡め(いましめ)、剣を持ちて外に居りて待たしむ。 梁復た(また)入り、守と坐して曰く、「請う、籍を召し、命を受けて桓楚を召さしめん」と。 守曰く、「諾」と。 梁籍を召して入れ、須臾(しゅゆ)にして、梁籍にめくばせして曰く、「行うべし」と。 ここに於て籍遂に剣を抜きて守の頭を斬る。 項梁守の頭(こうべ)を持ち、その印綬(いんじゅ)を佩す(はいす)。 門下大いに驚きて擾乱し、籍の撃殺(げきさつ)する所は数十百人なり。 一府の中(うち)、皆慴伏(しょうふく)し、敢えて起つものなし。 [現代語訳] 秦の始皇帝が会稽に巡狩(じゅんしゅ)して浙江を渡った時、項梁は項籍(項羽)と供にその様子を見ていた。 項羽が言った。 「俺があいつに取って代わることになるだろう。 項梁は項羽の口を押さえて言った。 「妄言をするでない。 一族皆殺しにされてしまうぞ。 項梁はこの件によって項羽が並みの人物ではないことを知った。 項羽は身長が180センチ以上もあり、鼎を持ち上げる怪力の持ち主で、才気がずば抜けていて、呉の若者たちもみな、項羽に一目置いていた。 秦の二世皇帝の元年(前209年)七月に、陳勝らが大沢地域で蜂起した。 その九月に会稽郡守の殷通(いんとう)が項梁に言った。 「長江の西ではみんなが反乱を起こしている。 これは天が秦を滅ぼそうとしている時を意味している。 私は『先んずれば人を制圧することができ、遅れれば人に制圧されてしまう』と聞いている。 だから私は先手を取るために挙兵して、あなたと桓楚とを将軍に任命しようと思っている。 この時、桓楚は逃亡して沼沢地帯に隠れていた。 項梁が言った。 「桓楚は逃亡して誰も居場所を知りませんが、甥の項籍(項羽)だけが知っております」と。 項梁は外に出て項羽に事の次第を言い聞かせ、剣を持たせたまま外で待たせた。 項梁はまた入室して、郡守の前に座ってから言った。 「項籍をお召しになって、桓楚を呼び寄せるように命令して下さい」と。 郡守は「分かった」と言った。 項梁は項籍を呼び入れて、暫くしてから項籍に目配せして言った。 「やるべきだ」と。 項籍は遂に剣を抜いて、郡守・殷通の首を斬り落とした。 項梁は郡守の首を持って、その印綬を自分が身に付けた。 郡守の配下たちが驚いて騒動になったが、項籍が撃ち殺した者は百人近くにもなった。 役所の中の者はみんな恐れて降伏し、敢えて逆らおうとする者は一人もいなかった。 [補足] 前210年の始皇帝の巡狩の時に、項梁と項羽は始皇帝の姿を見ており、その際に項羽は最高権力者の始皇帝に対し『あいつは俺に取って代わられるべきだ』という大言壮語を吐いています。 元々、項羽は呉の地域でも若者たちから只者ではないと畏怖されていましたが、叔父の項梁は項羽のこの傲慢不遜とも言える発言を聞いて、その天下を狙わんとする気宇壮大さに感化されたようです。 項羽の好敵手である劉邦のほうは、始皇帝を見て『ああ、大丈夫、当にかくの如くなるべきなり(ああ、男というものは、始皇帝のように立派でありたいものだな)』というやや控え目な言葉を残しています。 項羽は項梁の用心棒のような所から決起しますが、その手始めは会稽郡守・殷通の殺害でした。 秦の郡県制において会稽郡を支配する権限を持っていた郡守・殷通は、項梁を自分の家来の将軍にして天下を狙おうと企てていましたが、項梁は殷通に従うことを拒絶して、破壊力が抜群の豪傑である甥・項羽に殷通を殺させます。 会稽郡の役所には数百人の郡守の部下がいましたが、項羽が圧倒的な怪力を発揮して百人近くを殺害すると、残りの兵士たちは恐怖に慄いてしまい、すぐに降伏してしまいました。 前209年9月に、項羽は叔父の項梁と供に決起して、破竹の勢いで次々と都市を攻め落としていきますが、項羽は自分に逆らう勢力や住民を皆殺しにしてしまうような残酷さ・苛烈さを持った気の荒い短気な人物でもありました。

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