きみ ちゃん モデル。 きみちゃん像と「赤い靴」

赤い靴の女の子 きみちゃん

きみ ちゃん モデル

この赤い靴の女の子にモデルのあることが明らかになったのは、昭和48年(1973)11月、北海道新聞の夕刊に掲載された、岡そのさんという人の投稿記事がきっかけでした。 「雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」。 この記事を当時北海道テレビ記者だった菊地 寛さんは5年あまりの歳月をかけて「女の子」の実像を求め、義妹である岡そのさんの母親の出身地静岡県静岡市清水 区をかわきりに、 そのさんの父親の出身地青森県、雨情の生家のある茨城県、北海道各地の開拓農場跡、そして横浜、東京、ついにはアメリカにまで渡って幻の 異人さん、宣教師を捜し、 「赤い靴の女の子」が実在していたことを突き止めたのです。 (赤い靴をクリックすると バリトン歌手山本健二さんの「赤い靴」が聞けます。 ) 女の子の名は「岩崎きみ」。 明治35年 1902 7月15日、日本平の麓、静岡県旧不二見村 現 静岡市清水区宮加三)で生まれました。 きみちゃんは赤ちゃんのとき、いろいろな事情で母親「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡ります。 母親に再婚の話がもちあがり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場 (現北海道、留寿都村)に入植することになります。 当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。 かよと鈴木志郎は開拓農場で懸命に働きますが、静岡から呼んだかよの弟「辰蔵」を苛酷な労働の中で亡くし、また、開拓小屋の火事など努力の甲斐なく失意のうちに札幌に引き上げます。 明治40年 1907 のことです。 鈴木志郎は北鳴新報という小さな新聞社に職を見つけ、同じ頃この新聞社に勤めていた野口雨情と親交を持つようになります。 明治41年 1908 、小樽日報に移った志郎は、石川啄木とも親交を持ったことが琢木の「悲しき玩具」に書かれています。 「名は何と言いけむ、姓は鈴木なりき、今はどうして何処にゐるらむ」 大正12年発刊の赤い靴の楽譜 雨情は明治41年 1908 に長女を生後わずか7日で亡くしています。おそらくそんな日常の生活の中でかよは世間話のつれづれに、自分のお腹を痛めた女の子を外人の養女に出したことを話したのでしょう。 「きみちゃんはアメリカできっと幸せに暮らしていますよ」。 こんな会話の中で、詩人野口雨情の脳裏に赤い靴の女の子のイメージが刻まれ、「赤い靴」の詩が生まれたのではないでしょうか。 雨情は 、また夭折した長女を「・・・生まれてすぐにこわれてきえた・・・・」と「シャボン玉」に詠ったと言われています。 後年、赤い靴の歌を聞いた母かよは、「雨情さんがきみちゃんのことを詩にしてくれたんだよ」とつぶやきながら、「赤い靴はいてた女の子・・・」とよく歌っていたそうです。 その歌声はどこか心からの後悔と悲しみに満ちていたのです。 ヒュエット夫妻 ところが、赤い靴の女の子は異人さんに連れられていかなかったのです。 母かよは、死ぬまできみちゃんはヒュエット夫妻 右写真 とアメリカに渡り、幸せに元気に暮らしていると信じていました。 しかし、意外な事実がわかったのです。 きみちゃんは船に乗らなかったのです。 ヒュエット夫妻が任務を終え帰国しようとしたとき、きみちゃんは不幸にも当時不治の病といわれた結核 に冒され、身体の衰弱がひどく長い船旅が出来ず、東京のメソジスト系の教会の孤児院に預けられたのです。 薬石の効無く一人寂しく幸薄い9歳の生涯を閉じたのは、明治44年 1911 9月15日の夜でした。 きみちゃんが亡くなった孤児院、それは、明治27年 1894 に開設された鳥居坂教会の孤児院でした。 麻布十番に住む貧しい三人の子のうち一人が売られようとしているのを知った東洋英和女学校の生徒が、有志をつのり、その子と他の一人を引取って明治27年頃に開設したのが始まりでした。 この子供のための施設は、はじめ麻布一本松にありましたが、明治37年に麻布本村町に孤児院として開設され、明治41年には麻布永坂町50番地へ移転、「永坂孤女院」とよばれました。 昭和3年には「永坂ホーム」と改称ています。 今、十番稲荷神社のあるところ、旧永坂町50番地に女子の孤児を収容する孤女院があったことは、「麻布区史」にも書かれています。 3歳で母かよと別れ、6歳で育ての親ヒュエット夫妻とも別れたきみちゃんは、ただひとり看取る人もいない古い木造の建物の2階の片隅で病魔と闘いつづけました。 熱にうなされ、母かよの名を呼んだこともあったでしょう。 温かい母の胸にすがりたかったでしょう。 それもできないまま、秋の夜、きみちゃんは幸薄い9歳の生涯を閉じたのです。 母かよがきみちゃんの幸せを信じて亡くなったであろうことが、ただ救いでした。 この街、麻布十番に眠ったきみちゃんを思うとき、赤い靴の女の子「きみちゃん」の心安らかなことを祈り、今、私たちの幸せを心から喜び感謝しなければならないと思います。 母と子の愛の絆をこの「きみちゃん」の像に託し、皆さまの幸せを祈って、平成元年2月28日 1989 麻布十番商店街はパティオ十番に「きみちゃん」の像を建てました。 像が出来てから、また始まったのです。 像が出来たその日の夕方、誰かがきみちゃんの足元に18円を置きました。 それがチャリティーの始まりでした。 1日として途絶えることなく、きみちゃんの足元には幾らかのお金が置かれました。 麻布十番納涼まつりでは、きみちゃんの傍らにチャリティー広場が作られ、子ども達へのチャリティーを呼びかけました。 あれから 29年、悪役俳優の山本昌平さん、女優の紅 理子さん、作曲家の横山太郎さんたちは毎年ボランティアでこのチャリティーを手伝っています。 多くの人々に支えられたチャリティーの輪は、 29年間途絶えることなく続き、1円、5円、10円という小さな、けれどもとてもきれいな浄財の積み立ては、毎年世界の恵まれない子ども達のた めに全額ユニセフに寄付されてきました。 2020年は50万円をユニセフに、2011年は東日本大震災の義援金として30万円をユニセフに送りました。 これまでに子ども達のためにユニセフに寄付された浄財は 1269万円、阪神大震災の義援金に70万円、スマトラ大震災の義捐金として60万円をユニセフニ贈りました。 総額 1479万円にもなります。 そして、今日も、途絶えることなくチャリティーは続いています。 明治35年 1902 生まれのきみちゃんですから、もし、今きみちゃんが生きていたら、118歳になっています。 明治44年 1911 9月15日、9歳で亡くなったきみちゃんは、今も9歳のまま、私たちの心の中に生き続け、世界の恵まれない子ども達のために歩きつづけています。 青山霊園の鳥居坂教会のお墓。 大正初め頃と思われます。 児童文学書として小学校中級以上向けに書かれた本。 このほかにも「きみちゃん」についての本はいくつかあります。 わざわざ北海道からとびっくり、感激でした。 小樽はもう雪の中、それでも親子の像を見に大勢の方が運河公園を訪れているそうです。 ありがとうございました。 累計1,479万円になりました。 累計1429万円になりました。 累計1389万円になりました。 累計1359万円になりました。 累計1334万円になりました。 累計1304万円になりました。 累計1274万円になりました。 累計1241万円になりました。 累計1211万円になりました。 累計11 86万円になりました。 累計1156万円になりました。 累計1116万円です。 ありがとうございました。 累計1083万円になりました。 ありがとうございました。 函館、東浜桟橋に予定されています。 はじめて親子3人の像です。 累計1043万円です。 ありがとうございました。 ありがとうございました。 ¥1200.に紹介されました。 クリックするとバリトン歌手山本健二さんの歌が聴けます。

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きみちゃん♡祝 1歳

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印象深い景色 史 跡 建築・構造物 自 然 産業・交通 四季の景色 歌の舞台・祭・他 管理人 赤い靴 きみちゃんの像 東京都港区 < 赤い靴の女の子 きみちゃん> 誰もが知っている野口雨情の「赤い靴」。 この童謡は大正10年に書かれ翌11年に本居長世が作曲したものです。 女の子の名は「岩崎きみ」。 明治35年7月15日、日本平の麓、静岡県旧不二見村(現在の清水市宮加三(清水市は静岡市と合併し静岡市となる))で生まれました。 きみちゃんは赤ちゃんの時、いろいろな事情で母親「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡ります。 母親に再婚の話がもちあがり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場に入植することになります。 当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールズ・フュエット夫妻の養女に出します。 かよと鈴木志郎は開拓農場で懸命に働きますが、静岡から呼んだかよの弟「辰蔵」を過酷な労働の中で亡くし、また、開拓小屋の火事など努力の甲斐なく失意のうち札幌に引き上げます。 夫志郎は北嶋新報という小さな新聞社に職を見つけ、同じ頃この新聞社に勤めていた野口雨情と親交を持つようになります。 かよは世間話のつれづれに、自分のお腹を痛めた女の子を外人の養女に出したことを話したのでしょう。 「きみちゃんはアメリカできっと幸せに暮らしていますよ」。 こんな会話の中で、詩人野口雨情の脳裏に赤い靴の女の子のイメージが刻まれ「赤い靴」の詩が生まれたのです。 後年、母かよは「雨情さんがきみちゃんのことを詩にしてくれたんだよ」とつぶやきながら、「赤い靴はいてた女の子ーーー」とよく歌っていたそうです。 その歌声はどこか心からの後悔と悲しみに満ちていたのです。 ところが赤い靴の女の子は異人さんに連れられていかなかったのです。 母かよは、死ぬまできみちゃんはヒュエット夫妻とアメリカに渡り、幸せに元気に暮らしていると信じていました。 しかし、意外な事実が分かったのです。 きみちゃんは船に乗らなかったのです。 ヒュエット夫妻が任務を終え帰国しようとしたとき、きみちゃんは不幸にも当時不治の病といわれた結核におかされ、身体の衰弱もひどく長旅ができず、東京のメソジスト系教会の孤児院に預けられたのです。 薬石の効無く、一人寂しく幸薄い九歳の生涯を閉じたのは、明治44年9月15日の夜でした。 きみちゃんの亡くなった孤児院、それは明治10年から大正12年まで麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院でした。 今、十番稲荷神社のあるところ、旧永坂町50番地にあったこの孤児院は女子の孤児を収容する孤児院として「麻布区史」にも書かれています。 三歳で母かよと別れ、六歳で育ての親ヒュエット夫妻とも別れたきみちゃんは、ただひとり看取る人もいない古い木造の建物の二階の片隅で病魔と闘い続けました。 熱にうなされ、母かよの名を呼んだこともあったでしょう。 温かい母の胸にすがりたかったでしょう。 それもできないまま、秋の夜、きみちゃんは幸薄い九歳の生涯を閉じました。 母かよがきみちゃんの幸せを信じて亡くなったであろうことが、ただ救いでした。 この街、麻布十番に眠ったきみちゃんを思うとき、赤い靴の女の子「きみちゃん」の心安らかなことを祈り、今、私たちの幸せを心から喜び感謝しなければならないと思います。 母と子の愛の絆をこの「きみちゃん」の像に託し、みなさまの幸せを祈って、平成元年2月、麻布十番商店街はパティオ十番に「きみちゃん」の像を建てました。 赤い靴の女の子「きみちゃん」の像は、生まれ故郷の静岡県日本平、歌詞に詠まれた横浜の波止場、そして、母かよさんが入植した開拓農場のあった北海道留寿都村にもあります。 (以上の説明は、麻布十番商店街振興組合の「赤い靴の女の子 きみちゃん」の説明文より引用。 ) 「 赤い靴 」 ( 作詞 野口雨情 作曲 本居長世 ) 赤い靴はいてた女の子 異人さんにつれられて 行っちゃった 横浜の埠場から船に乗って 異人さんにつれられて 行っちゃった 今では青い目になっちゃって 異人さんのお国に いるんだろう 赤い靴見るたび考える 異人さんに逢うたび 考える 「 赤い靴はいてた女の子に・・・マフラー巻いて行っちゃった」 (朝日新聞 2007. 3) 東京・麻布十番に立つ野口雨情作詞の童謡「赤い靴」のモデルの少女とされる「きみちゃん」の像に、赤いマフラーが巻かれている。 誰かが編み、きみちゃんの首に巻いたのか分かっていない。 麻布十番商店街振興組合の元副理事長で、像の目の前で紳士用品店を営む山本仁寿さんが、マフラーに気付いたのは10日ほど前。 朝、店の6階の自宅の窓を見下ろした時、赤いものが付いているのに気付いた。 いたずらかと確かめに行くと、マフラーだった。 像がある広場は交差点の真ん中にある。 マフラーに気付いた通行人は、足を止めて眺めたり触ったり。 「マフラーが取れかかっていたのに、翌朝巻き直してあったこともあった」と山本さん。 これまでも夏に帽子がかぶせてあったこともあるという。 山本さんは言う。 「気持ちがうれしいよね。 」 「赤い靴」の歌詞から、親子一緒に暮らせることの意味を考えてみたい。 完成した日の夕方、像の足元にだれかが置いた18円から始まった募金活動は今も続く。 毎年ユニセフに寄付を続け、昨年1千万円を達成した。 (朝日新聞の記事より) < 赤い靴はいてた女の子は 今、この街に眠っています。 > 野口雨情の童謡「赤い靴」の詩にはモデルがありました。 その女の子の名前は「きみちゃん」。 きみちゅんは赤ちゃんの時、いろいろな事情でアマリカ人宣教師の養女に出されます。 母 かよさんはきみちゃんがアメリカに行って幸せに暮らしていると信じて雨情にこのことを話し、この詩が生まれました。 しかし、きみちゃんは病気のためアメリカには行けませんでした。 明治44年9月、当時麻布永坂町、今の十番稲荷神社のあるところにあった孤児院で、ひとり寂しく亡くなったのです。 まだ、9歳でした。 母と子の愛の絆を、この「きみちゃん」の像に託して、今、みなさまの幸せを祈ってやみません。 (きみちゃんの像に台座に書かれている文) < 横浜・山下公園にある「きみちゃん」の像> 横浜港の海の方を眺めるように座っています。 明治37年(1904)7月15日清水市宮加三(旧不二村・現静岡市)に生まれた「岩崎きみ」がその子です。 「きみ」とその母親「かよ」とは、故あって北海道にわたりますが、この地で母は、まだ2歳になったばかりのわが子を、アメリカ人宣教師ヒエット夫妻に、その養育を託すさだめとなりました。 やがて宣教師夫妻には母国への帰国が命ぜられますが、このときすでに、「きみ」は不治の病におかされており、夫妻はやむなくこの幼子を孤児院に残して旅立ちました。 「きみ」はひとり、癒えることのない病の床にあって相見えることもかなわぬ母を慕いながら、わずか9歳の短い生涯を終えたのでした。 いま、この女の子は、東京六本木にあり鳥居坂教会の共同墓地に眠っております。 私たちは、この幸せ薄い母と子のかなしみに思いを寄せ、母と子をふるさとの地、不二見村を見おろすこの日本平山頂に、再び相いあわせようと考えました。 ここに全国数万人に及ぶ人々からの浄財を得て、この像の建立ができましたことに、人間の善意と尊厳に大きな感動と希望をおぼえるものであります。 母と子よ、永遠に安らかなれ 昭和61年3月31日 「赤い靴」の女の子母子像建設委員会 (「赤い靴をはいていた女の子」の像の説明文より) 「きみちゃん」の像がある4つのうち、亡くなった東京六本木、歌詞に詠まれた横浜の波止場、生まれ故郷の静岡県日本平の3つまでたどってきました。 いつの日か、母かよさんが入植した開拓農場のあった北海道留寿都村を訪れ、「きみちゃん」と対面したいものです。 秋に北海道を旅する。 ニセコ〜洞爺湖〜昭和新山へと走る。 赤い靴の像のことはすっかり忘れていた時、ガイドさんの説明にはっとして急いでカメラを出して撮る。 一瞬の出来事できみちゃんの像が不鮮明であるが、念願の開拓農場のあった北海道留寿都村で出会うことができた。 北海道留寿都村役場の近くにある赤い靴公園にある。 きみちゃんの像は、以上の他に、北海道小樽市、函館市にもあることを知る。 小樽は、かよさん夫妻が晩年を過ごした地、函館は母親のかよさんと赤ちゃんだったきみちゃんがはじめて北海道に渡った地です。 きみちゃんとぜひ対面してみたいですね。

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きみちゃん(芸能)ブログ

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歌詞 [ ] 1. 赤い靴(くつ) はいてた 女の子 異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった 2. 横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って 異人さんに つれられて 行っちゃった 3. 今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろう 4. 赤い靴 見るたび 考える 異人さんに 逢(あ)うたび 考える 4番の詩は原稿段階では「赤い靴 見るたび 思い出す」だったものを「考える」と直した跡がある。 また、発表はされなかったものの、(53年)になって発見された草稿には、以下の5番もあった。 生まれた 日本が 恋しくば 青い海眺めて ゐるんだらう(いるんだろう) 異人さんに たのんで 帰って来(こ) 「定説」としての『赤い靴』 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2018年5月) 歌詞は、実話を題材にして書かれたという話が定説化していた。 (現在の宮加三)出身の岩崎かよの娘・佐野きみ (35年) - (明治44年))がその赤い靴を履いていた少女のモデルとされた。 その「定説」は次のとおりである。 岩崎かよは未婚の母としてきみを育てていたが、に渡り、と結婚する。 きみが満3歳の時、鈴木夫妻は、運動の一環として当時注目されていた北海道のへ入植する。 しかし、生活の厳しさもあり、かよは義父・佐野安吉の仲介により、娘・きみの養育をアメリカ人の夫妻に託すことにした。 やがてヒュエット夫妻は本国に帰る事になるが、その時きみはに冒されており、アメリカに連れて行く事が出来ず、そのまま・のの「永坂孤女院」に預けられてしまう。 きみは孤児院で母親に会うこともできず、9歳で亡くなったという。 母親のかよは、きみはヒュエット夫妻と一緒にに渡ったものと思いこんでいて、きみが東京の孤児院で結核で亡くなったことは知らされないまま、一生を過ごした。 (明治36年)に社会主義として出発していた野口雨情は、その後、(明治40年)、の社に勤めていたときに、同僚の鈴木志郎やその妻のかよと親交を深め、「かよの娘のきみが宣教師に連れられて渡米した」という話をかよから聞かされた。 乳飲み子の長女のぶ(きみには異父妹)を抱えて、鈴木夫妻は開拓生活に挫折していた。 じつはこの時点では、きみは鳥居坂教会の孤児院にいたが、かよはそのことを知らない。 その後、(大正10年)に、この話を題材にして『赤い靴』が野口雨情によって作詞され、(大正11年)に本居長世作曲でになった。 (48年)、きみの異父妹・岡その(鈴木志郎とかよの三女)が、新聞に「私の姉は『赤い靴』の女の子」と投書。 この記事に注目した記者のが調査を開始した。 菊地は5年にわたる取材ののち、上記の事実を確認し、(昭和53年)に『ドキュメント・赤い靴はいてた女の子』という番組を北海道テレビで・放送した。 その後、菊地は、ノンフィクション小説『赤い靴はいてた女の子』(刊)を(昭和54年)に発表、この本の記述が「定説」として定着したとされる。 [ ] 「定説」への異議 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2018年5月) この「定説」には「」が含まれているという説が作家のによって提唱された。 阿井は、(昭和61年)、静岡・に「母子像」が建立された際、地元テレビ局が制作した記念番組『流離の詩・赤い靴はいてた女の子』の構成を依頼され執筆したが、このとき菊地本や、『ドキュメント・赤い靴はいてた女の子』に示された「定説」の事実関係に不審を抱き、のちに「定説」の点を追究するに至ったという。 そして、著書『捏像 はいてなかった赤い靴』( 2007年12月 )において、「定説」には根拠がないとする批判を明らかにした。 阿井による説は以下の通りである。 きみの実父を佐野だとする菊地本には根拠がない。 きみが上、佐野のになっているのは、を祖父の戸籍に入れる措置に準じて考えるべき。 菊地本で養親に比定されている宣教師の名前は、正しくはヒューエット。 ただしヒューエット夫妻と、きみの間には全く接点がない。 「きみが宣教師の養女となった」という話は佐野がかよを安心させるためについたであり、実は佐野が2歳のきみを東京の孤児院に預けて、きみはそこで一生を過ごしている。 この時期、北海道で布教を行なっていたヒューエット夫妻が、北海道に渡ってもいないきみを養女とすることはありえない。 菊地本は「宣教師の養女になったきみのことを、かよから聞いた雨情が詩にした」とするが、かよが雨情夫妻と言葉をかわす機会はそう多くなかったはずで、自分が結婚前に私生児を産んだと進んでするとも思えない。 野口家と鈴木家との親交は、夫同士の仕事上のつきあいに限られたものとおぼしい。 雨情の『赤い靴』は社会主義的()の挫折のと解すべきで、社会主義者の伝道行商を象徴する『赤い箱車』と結びつけて考えるべきである。 阿井は、菊地は自分の取材不足をで埋めたとして「捏造」と論難しているが、これに対して菊地は自説の骨子には誤りはないと主張している。 また阿井は、野口雨情の実息であるによる研究をもとに「童謡『赤い靴』を含む雨情の童謡に特定の個人を謳ったものはない」と主張している。 一方、菊地は、『赤い靴』以外にも特定を謳った童謡は存在するとしている。 『』の詩にある「生まれてすぐにこわれてきえた」という一節に、雨情はした長女への哀悼をこめたとしており、詩の解釈論でも両者は対立している。 なお、「きみは宣教師の養女となって渡米したものと、かよは生涯信じきっていた」という「かよの観点からの真実」については両者に争いはない。 その宣教師が「実在するヒュエット師」(菊地説)であるか、「佐野がでっちあげた架空の存在」(阿井説)であるかで、両者およびその支持者は対立しており、阿井は「きみと会ったこともない、全く無関係のヒューエット夫妻のを、菊地はテレビ番組制作のための作り話で傷つけている」としている。 また、阿井は、雨情の『赤い靴』は「きみを謳ったものではない」と作家論からのを試みると共に、「宣教師の養女になったきみのことを、かよから聞いた雨情が詩にした」という話は、「かよの思いこみによる自慢話を、娘そのや菊地が更にしたもの」と批判している。 ただし「雨情さんがきみのことを詩にしてくれた」と、かよがそのに語った事実は「あった」としている。 そのため、「かよによる『赤い靴』の詩歌解釈」そのものは否定しきれていない。 この点では「雨情の作家論」と「かよによる詩歌受容」と「菊地の追跡取材のプロセスの是非」を、両派ともに整理できず混交して論じているため、議論は噛み合っていない。 なお、「かよが雨情夫妻にきみのことを話した」とする、岡そのの証言および菊地本への反駁として、阿井は「かよが雨情夫妻と言葉をかわす機会はそう多くなく、打ち明け話をするほど親しくはなっていない」ことについて綿密な検証を行なっている。 だが、その一方で「鈴木が雨情にきみのことを話した」か、あるいは「雨情のほうから鈴木に家族のことを取材した」可能性の有無については両派とも論じていないため、「きみのことを雨情が知る機会があったか否か」についての検証はいまだ不充分である。 (21年)8月、北海道に「定説」に基づいて『きみちゃん像』が建てられたが、それを伝える新聞記事の中には、『赤い靴』をめぐっては諸説あることを指摘するものがあった。 は「平民農場開拓を指導したらによる社会主義ユートピア運動の「挫折」を歌ったものとする指摘もあり、野口の親族らからは「実在のモデルはなかった」との主張もされている」と報じている。 なお、雨情の童謡に特定の個人を謳ったものがあるかないかについては、親族間でも意見が分かれている。 雨情の孫で代表のは、『シャボン玉』に雨情は夭折した長女への哀悼をこめたと講演で語っている。 「定説」に対するスタンスも、野口存彌と野口不二子では対照的で、野口存彌は「定説」に対して一貫して否定的だが、野口不二子は函館の『きみちゃん像』建立に向けての祝賀会で記念講演を行なっている。 ただし野口存彌も、童謡ではない雨情初期の詩作については、の社会主義論に傾倒していた(雨情の一つ年下のいとこ、(明治38年)に横浜から渡米して(昭和29年)にで)の影響が大きかったとしている。 雨情を研究しているは、「社会主義を信じ、自由の天地アメリカに横浜から渡っていった、雨情の従兄たちの面影が『赤い靴』には投影されている」としており、この意見には阿井も半ば賛意を示しつつも、『赤い箱車』のイメージのほうを優先している。 野口不二子も近著『郷愁と童心の詩人 野口雨情伝』( 2012年11月 )の中で、『赤い靴』の4番は、茂吉を「ベースにして書いたとも思われる」としている。 また「定説」については、「確証はない」としながらも、『赤い靴』について「何か下地になるような」体験が雨情にあったことは十分考えられるとしている。 阿井説には全く触れていない。 異見前史 [ ] 『捏像 はいてなかった赤い靴』の刊行以前にも、当曲の解釈の相違が表面化したことがあった。 (15年)2月、の教養番組『』の「人はなぜ歌うのか」シリーズに出演したは、から聞いた話として、「『赤い靴』の赤は実はのことで、「そのソ連、社会主義がどこかへいっちゃった」と雨情は謳っているのだが、によるを逃れるため隠喩を用いたのだ」と紹介した。 だが野口不二子は、(平成16年)6月17日号所載の記事中で、「永さんと雨情の童謡について何かを話したということはありません」とこれを否定、「私はたしかに聞きましたからねえ」とする永との間で差を生じている。 また同記事は、「治安維持法の成立は『赤い靴』の発表の数年後である」と永の誤解を指摘する作曲家のコメントや、「雨情の名作をであるかのように曲解している」と永を批判する作曲家のコメントを掲載している。 また同記事中、雨情研究家で元理事長のは、雨情が鈴木史郎から聞かされた話が詩作のキッカケになったと「定説」を紹介し、「永さんの赤はソ連という解釈はどうかな、と思いますね」とコメントしている。 同記事の結論部分は、「歌というものは作った人がどんな気持ちだろうが、後世の人々の思いに左右されてしまうものですよ」と詩歌受容論に逃げようとする永六輔を、「童謡は理屈によって歌詞の判断を許されてはをりません」という雨情自身の文章を引用して記者が切り捨てている。 ただし同記事は、雨情が社会主義詩人として出発したこと、鈴木史郎が平民農場に関わっていたことについては一言も触れていない。 その後の雨情の作風の変化が、心底からし社会主義を捨てたことによるものなのか、それとも転向はで社会主義が詩作の根っ子に残っているのか、という論点の検証もなされていない。 また野口不二子は後日、『赤い靴』は社会主義者・野口茂吉を「ベースにして書いたとも思われる」としていて(前述)、永六輔の論考と多少の食い違いはあっても、「赤い靴=社会主義」説を否定するものではない。 2007年(平成19年)、『捏像 はいてなかった赤い靴』出版のにあたって、阿井渉介は当初、を頼りにしたのだが、週刊朝日の記事は必ずしも阿井の菊地批判に全面的な賛意を示さなかった。 このことを不満とした阿井は週刊新潮に話を持ち込み、週刊新潮は「週刊朝日への揶揄」を中心とする記事を掲載した。 阿井は週刊新潮が「赤い靴=社会主義」説を否定する立場にあることを知らず、週刊新潮の編集部は『捏像』が「赤い靴=社会主義」説に立脚していることを読み落としたと思われるが、結果、週刊新潮は「誌内不統一」を自ら招いたのである。 なお、(平成21年)12月にオンエアされた「」の中では、ゲストのが「定説」を紹介している。 『国語論集』誌上での論争 [ ] 者のは、その著書『「敗者」の精神史』(岩波書店 1995年7月 分冊文庫本のISBN: 978-4006001445)の中で、雨情の『青い目の人形』と『赤い靴』について論じている。 この山口本に触発された(元館長)は、校国語科教育研究室が刊行している『国語論集・9』(2012年3月)に、『「赤い靴」をめぐる言説』 を投稿した。 この論文の中で亀井は指摘する。 『赤い靴』の像を建立した人々は、自分が作っているのは『赤い靴』から誘発された虚構の像であることを認識している。 しかし、その想像力は赤い靴の少女と異人さんとの暮らしに向かわず、平民農場における母子再会という虚構の物語を構築して、この母子の不幸を癒してやる方へのみ向かっている。 そして、その出発点には岡そのがいて、そのの新聞投書『幻の姉「赤い靴の女の子」』こそ雨情の童謡から言葉を借りた表現であり、ここから菊地寛のドキュメント、山口昌男論文、各地での記念像建立の動きが始まったと結論づけている。 これに対して、阿井渉介は反駁を試み、『国語論集・10』(2013年3月)に『「赤い靴」をめぐる言説」について』 を投稿した。 ただ阿井は、記念像建立に携わった者はすべて菊地説を妄信しているとして、「テレビの低劣なこしらえ物を基に、高次の文学論争をすることに意味があるとは思えない」「文芸的ではない人々を文芸的な思惟で囲い込まないほうがいい」としている。 岡そのの投書を、赤い靴現象の根幹とする亀井の立論はまったく無視されている。 一方で、阿井は、自らが唱えていた「赤い靴=赤い箱車=社会主義」説は撤回すると言い出している。 「赤い箱車」についての自らの立論が、鈴木志郎の社会主義運動に対する雨情の共感を前提とする点では菊地説と同根であると、亀井論文を読むうち遅まきながら気づいたとしている。 そして、『赤い靴』の発表は雨情と鈴木志郎の出会いから14年後のことであり、その間、雨情は鈴木志郎を忘れずにいたとする山口昌男の憶測は安易ではないか、とする亀井の指摘も尤もだという。 『国語論集・11』(2014年3月)には(元・校長)が 『童謡「赤い靴」のモデルについて』 を投稿、改めて、きみは『赤い靴』のモデルにはなりえないとしている。 阿井らが既に指摘していたことに加えてさらに、• 野口雨情、鈴木志郎(および)がに入社したのは事実だが、それより前、三人が札幌ので同僚だったとする岡そののには誤りがある。 同社に勤めていたのは志郎と啄木であり、雨情が勤めていたのはである。 岡そのは、雨情と志郎が札幌・で一軒家を借りていたとするが、その言葉の裏づけは皆無である。 菊地は、岡そのの証言の矛盾を解消するため、志郎が北鳴新報社に勤めていた時期があるとする説を唱えているが、この新説の裏づけもない。 雨情は(昭和20年)に亡くなるまで、きみが『赤い靴』のモデルであるとは一言も言及していない。 の諸点である。 赤い靴の像 [ ] 山下公園の『赤い靴はいてた女の子像』 、横浜に『赤い靴はいてた女の子の像』が作られた。 これは純粋に雨情の詩のイメージをモチーフにしたもので、赤い靴を愛する市民の会(後にと改称)から寄贈されている。 また同会は、この像の版(999個制作されたうちの1個)を(昭和57年)8月にへ寄贈、当初は同駅南口に設置されていたが駅改良工事に伴い(平成10年)に撤去となり、その後は保管されていた。 (平成22年)12月に同駅(中央通路)に移設されている。 2010年(平成22年)、山下公園の少女像と同型の像が、横浜市との・の海辺に建てられ、に関係者が出席して除幕式が行われた。 以下の6つの像は、前述の「定説」に基づいて建てられた。 『母子像』()• 『きみちゃん像』()• 『母思像』()• 北海道『赤い靴 親子の像』()• 北海道『赤い靴 少女像』()• 『赤い靴 親子像』() の事務所には『赤い靴 少女の像』(か?)が置かれた。 には、(平成9年)に、かよを描いた『開拓の母』象も建てられている。 (平成27年)6月には、雨情夫妻と鈴木夫妻が住んでいたとされる札幌市地区(当時は大字)の山鼻公園に、『赤い靴の歌碑』が建立された。 この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2018年5月) 『』(2014年度前期)の原案となった、 の著書『アンのゆりかご-村岡花子の生涯-』には、と佐野きみの出会いについて触れた一節がある。 [ ] (明治36年)、村岡はな(花子の本名)はにとしてしており、毎週日曜日は給費生の必修として、東洋英和が運営している永坂孤女院のに教師として出向いている。 その時、はなが物語を語り聞かせていた孤児たちの中に、はなより9歳年下のきみがいたはずというのだ。 きみが永坂孤女院に預けられた時期については議論(前述)もあるが、(明治44年)9月のきみのに、東洋英和女学校在学中であったはなが接していたことは確かなようである。 なお、『アンのゆりかご-村岡花子の生涯-』は、きみの生涯については「定説」に拠っている。 その他 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 「さん」、「にんじんさん」、「いい」、「」等と誤解されることがある。 清水市(現:静岡市清水区)出身の漫画家による『』にこれを題材にした挿話がある。 [ ] 漫画『』には、童謡『赤い靴』の女の子をにした『赤いくつの女の子』が収録されている。 後にアニメ版で『赤いくつの女の子』『赤いクツの思い出』が発表されている。 [ ] 阿井渉介は、『流離の詩・赤い靴はいてた女の子』以前にも、『赤い靴』をモチーフにしたテレビを阿井文瓶(本名)名義で執筆している。 『』の第45話「日本の童謡から 赤い靴はいてた…」(〈昭和49年〉)は、幼い頃、に連れ去られて、地球のためのにされてしまった女性とその幼なじみのを描いた話である。 『』の第349話「ギリシャから来た女! 」(〈昭和59年〉)では、扮する特命課刑事と少女の交流が描かれ、横光が当曲を歌う場面もある。 なお、「定説」に対する運動のために発足した「赤い靴の会」(のち「日本赤い靴の会」と改称)は、阿井が会長、横光らが、福地順一らが顧問を務めているが、横光は「テレビ出身の」としての参加であるという。 (平成15年)にNPO「日本童謡の会」が全国約5800人のアンケートに基づき発表した「好きな童謡」で、「赤い靴」は293票を獲得し第3位に選ばれた。 映画『』 〈平成20年〉 は、開港150周年の前祝作品として製作され、山下公園の女の子像も作中に登場した。 さらに、一見ふつうの人間のような「赤い靴の少女」が、を超越してウルトラマンを導く存在として登場したが、その正体は不明である。 〈平成19年〉に放映されたテレビドラマMenu. 3「プヨプヨちょっとカタ〜いを食い荒らす!」では、の母親から引き離され外国へ行った男性が自分の境遇とこの歌を重ねており、山下公園ロケも行われている。 で夏に開催されるというイベントの中で、を元にした「」と呼ばれる踊りの大会が催される。 その踊りのルールの一つに、楽曲に童謡『赤い靴』を入れるというものがある。 脚注 [ ] []• (はまれぽ. com 2011年12月25日)• 、四国新聞社、2003年6月27日 21:56。 関連項目 [ ]• - が運行する、横浜の観光スポットなどを巡る周遊バス。 外部リンク [ ]• - (歌:)• [ ]• - (2002年2月21日アーカイブ分) [ ]• [ ] このサイトは一貫して菊地寛を批判していたが、菊地からの反論は寄せられていない。 一方、岡そのの孫と称する人物が自分ら親族への取材なしに立論した阿井渉介らを掲示板で咎めていたが、阿井が自論について説明を試みようとしていた。 (2016年2月15日閲覧)(2016年10月2日に閲覧するが、掲示板に動きなし).

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