さだまさし cm。 さだまさしの歌詞一覧リスト

明治安田生命

さだまさし cm

この にはなが不足しています。 の提供に協力をお願いします。 存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的にあるいは有害となるものは すぐに除去する必要があります。 ファンとスタッフの間では「 まっさん」の愛称で親しまれている。 フォークデュオのでメジャーデビュー。 「」のヒットにより全国にその名を知られるようになった。 ソロシンガーになってからも「」「」「」「」など、数々のヒット曲を生み出す。 2013年7月19日時点で、日本で最も多くのソロ・コンサートを行った歌手でもあり、その回数は実に4,400回を越えている。 トークの軽妙さは大きな魅力とされており、それで自身のコンサートのお客を楽しませ、またテレビ・ラジオ番組のやなどとしても活躍。 小説家としても活動し、『』『』などの作品を発表している。 経歴 [ ] 生い立ち~青年期 [ ] 父・佐田雅人と母・喜代子の長男として、4月10日、で生まれる。 佐田家の本家は(現:)にあり、本家の二男だった祖父・繁治はやに渡りに従事したのちの大臣秘書官を務めた経歴の持ち主である。 その繁治とした祖母エムもまた(現:)ので料亭を営んでいたという当時の日本人女性としては異色の存在である。 父・雅人 1919 - 2009 は終戦後、長崎出身の戦友とともにし、そのまま長崎に住み着いた。 その後、戦友の妹・喜代子 1926 -2016 と結婚し、その結果、雅志が誕生したのであった。 (なお、雅志誕生のおよそ2年半後には弟のが、およそ5年後には妹のも誕生し、雅志は三人兄弟の長男として成長してゆく。 ) 雅志の幼少時は、父・雅人は材木商を営み、自宅は部屋が10以上もある豪邸だった。 3歳よりを習い始め才覚を現す。 (ただし1957年のによって父の事業は失敗し 、一家は豪邸を失い小さな住まいとなる。 )1963年、小学校5年生のとき毎日学生音楽西部地区(九州地区)大会で3位、翌1964年、小学校6年生で同大会2位。 ヴァイオリン指導者として高名なに認められ、長崎市立西北小学校卒業後、中学1年生のときヴァイオリン修行のため単身上京する。 以後、で下宿し、葛飾区立中川中学校に通い、吹奏楽部に所属していた。 中学3年生からの約20年間はで過ごした。 最初の一年間は大邸宅の離れで叔父と下宿し、後に一人暮らしをする。 叔父は市川男声合唱団に入っていて、その仲間が土曜になると集まり、さだは覚えたてのでフォークソングの伴奏をしていたという。 中学生時代にやに影響され、ギターを奏でながら歌を作るようになる。 駅前で弾き語りする勇気が無く、ギターケースを担いで高架や市川橋の下に行っていたという。 (なお当時はNHK『』にはまって38日間連続してしていた 、といった調子の生活をしていたという)。 上京の本来の目的であったヴァイオリニストの道のほうはどうなったかと言うと、(それなりにレッスンを受けつつ)ヴァイオリンの腕を磨く努力はしていたものの、「純粋なクラシック音楽のヴァイオリニスト」の道の厳しさや困難さは当人や家族が当初想像していた程度をはるかに越えていて当人は苦しみ、(途中で芸術科に志望校を変更)の受験は失敗という結果になってしまい、家族や自分自身の期待にこたえられなかったという深い失意の中、に入学。 以降ヴァイオリンへの熱意を失う。 とはいえ生来の豊かな才能は高等学校在学中にも遺憾なく発揮され、ギターや・以外にも、小説作り、、スポーツなど数々の方面で頭角を現す。 グレープでデビュー [ ] 國學院大學法学部に進学するが大学には行かずに中退し、など、数々のをしながらの生活を送るが、を患ったことをきっかけに長崎に帰郷する。 1972年、高校時代からの友人(現:政美)が東京から長崎にいる さだを訪ね、そのまま さだ家に住むこととなった。 その際、吉田は仕事を無断退職して失踪状態で長崎にやって来たことから、さだは吉田を叱責して東京に帰るよう諭すつもりでいたが、彼の姿を見て思わず「おい! よく来たなあ」と言ってしまったため叱責することができなくなったという。 以後二人は意気投合し同年11月3日、「」を結成、音楽活動を開始する。 11月25日、で開かれた初めてのコンサートには定員300余りの客席に250名程度の聴衆しか集まらず、さだの弟・繁理が通りすがりの人を無理にでも引き込むようなこともあったという(このやり方をさだは「キャバレー方式」と呼んだ。 やがて音楽プロデューサーにスカウトされ、1973年10月25日に「雪の朝」でワーナー・パイオニア(現:)より全国デビューした。 所属事務所()は、 などを当たるが不採用となり、最終的にはからの採用を受け、デビューに至った。 デビュー曲「雪の朝」は8000枚しか売れず、友人らがレコードを買い込んで知り合いに無理に買わせるといった状況であったという。 1974年4月25日に第2作目のシングル「」を発表するが、まだ無名のフォークデュオであったからか、当初の売り上げは芳しくないものだった。 しかし、の『』の中で、・が担当の曜日で毎週のように流し続けた。 これが助力となって、同番組の放送エリアの地区のみならず全国的なヒットとなり、この年の作詩賞を受賞することとなった。 1975年11月にリリースした「」もヒット曲となった。 しかし、そのころからさだは再び肝炎を患いプロデューサーに1年間の休養を打診したが、聴衆から忘れられるという理由で断られている。 また「縁切寺」(アルバム曲)のヒット、「雰囲気を変えるため」に出された、「」が思うようにヒットしなかったことが重なってしまったこと、つまり「グレープの音楽は暗い」というイメージがついてしまい、自分たちのやりたい音楽と受け手との齟齬(そご)が生じたため、1976年春に解散した。 なお、さだは解散コンサートにて解散の理由を「精霊流し、無縁坂、縁切寺ときたらあとは墓場しかない」と述べている。 ソロ歌手への転向 [ ] この節には、過剰にが含まれているおそれがあります。 内容の増大は歓迎されません。 をで検討しています。 ( 2010年8月) 1976年のグレープ解散後、一時業界からはなれる。 体調を崩していたさだは、療養と共に就職を考えるも活動が上手くいかず、同年11月、「線香花火」でソロ活動を始める。 その際、グレープ時代の所属事務所であったザ・バードコーポレーションから離れ、自身のプロダクション会社であるを設立。 1977年に、雨やどりがきっかけで恋に落ち、結婚まで繋がる姿をコミカルに歌ったシングル「」が1位になる大ヒットとなる。 それまで一番売れた「」でも最高同チャート2位であり、さだにとってグレープ時代から通じて初めての首位獲得となった。 後に異ヴァージョン(「」、「雨どりや」、ライブにて、との自虐コラボレーション「雨昴」)が作られるほどの大ヒットとなった。 その後、山口百恵に提供した「」や「」などがヒットする。 1978年10月に個人レーベル「フリーフライト」を設立し、1979年1月に同レーベルから初のシングル「」をリリースした。 同年7月にリリースした「」は150万枚を超える大ヒットとなる。 以後「」「」「」「」など、数々のヒット曲を放つ。 1980年、映画『』(主題歌は「道化師のソネット」。 共演は)に団のの青年役として主演、音楽も担当。 一方、中国大陸を流れる大河を舞台にしたドキュメント映画を制作することを構想し、『』(主題歌は「生生流転」)の企画・監督を行い、同作品は1981年11月に公開された。 映画自体は120館上映というヒットであったものの、(さだは映画制作の世界の一般的な資金調達のしくみを知らず、うかつにも さだ自身の支出で映画を制作しようと考えてしまったことが原因となり )さらに中国での撮影でのさまざまな障壁もあいまって撮影期間が延びたこともあってさだの予想を超えて制作費が膨らみ、結果として約28億円(さだ曰く金利を含めると35億円)もの()が残ってしまった。 (大抵の人ならば、このような額だと手続きを進めることを考えるところだが)さだはそのようには考えず、ひたすら律義に、これを返済してゆくことを決意する。 1981年、系ドラマ『』の音楽を担当する。 テーマ曲「」は歌詩のないものだが非常に有名な曲となる。 1985年、ソロ・コンサート通算1,000回()を達成する。 血液型による恋愛模様を描いた「恋愛症候群」をリリースしている。 ちなみに、本人はA型で、父と妹はAB型、母と弟はB型、妻はO型、息子と娘はA型である。 1987年8月、故郷で「長崎から広島に向って歌う」無料平和祈念コンサート『』を開催した。 以後2006年までの20年間毎年8月6日に長崎でコンサートを行い、地元市民だけではなく全国からファンが集まる長崎市の夏の一大イベントとなった。 1993年、ソロ・コンサート通算2,000回()を達成した。 1995年、長崎市に平和祈念のミュージアムを作る「ナガサキピーススフィア貝の火運動」を開始する(2003年4月に開館)。 1996年、長崎県県民栄誉賞を受賞した。 2000年4月1日、開幕戦にて「」を独唱した。 ・にて日本人男性歌手では初となるコンサートを行う(女性は1994年のが初)。 2001年9月、小説『』を発表した。 後にで化され、さらに映画化もされた。 さらに、小説にのっとって選ばれた音楽をまとめたアルバム『』を発売した。 児童書『おばあちゃんのおにぎり』発刊、2002年にを受賞する。 2002年3月21日、ソロ・コンサート通算3,000回()という前人未到の偉業を達成。 9-12月、デビュー30周年記念コンサート・ツアー『MOON-BOW at THE 30th』を・・にて各8夜構成で開催。 グレープ・デビューからの時系列に沿って8日間掛けて足跡を辿っていくという趣向で曲目、バンド編成が日替わりのスペシャルコンサート。 12月、小説集『(げげ)』発表。 2004年に映画化、枠で『』としてドラマ化。 2004年12月、長編小説『』発表。 2005年8月17日、予選対の試合にて「」を独唱。 9月6・7日、「ソロ通算3333回記念コンサート」をにて2日間開催。 同7日に32作目のオリジナルアルバム『』発売。 10月、「冬物語」で初のパッケージデザイン。 2006年1月1日未明にNHK総合テレビでさだ司会の生放送特番『』が放送される。 その後も続編が制作され、2018年現在も月に1回程度の放送が続いている。 2006年4月、シングル「(長崎弁ヴァージョン)」をリリース(他のヴァージョンが収録されているわけではない)。 2006年8月6日、最後の『夏・長崎から』である「2006 夏 長崎から さだまさし ファイナル」を行う。 その際に「来年は8月9日に広島から長崎に向かって歌うコンサートをやるよ」と宣言する。 2006年、『夏・長崎から』の活動に対し、・特別賞を受賞する。 2007年8月9日 開設50周年記念 「」を開催。 広島市民球場でコンサートを行うのは2004年のに次いで2人目。 2008年秋、の曲をカバーしたアルバム『』をリリース。 トップ10入りを果たす。 出続けていたに落選するが、『』は行われた。 2009年12月31日、21年ぶりの年またぎカウントダウンライブをにて行う。 コンサート終了直後に『年の初めはさだまさし』の生放送を現地にて行った。 2010年7月16日、さだまさし3776回記念 ライブを山梨・山中湖交流プラザきららにて開催。 2012年6月10日に横浜の妙深寺、法深寺主催。 パシフィコ横浜で行われた「東日本大震災 復興祈願、開導会 併 先住御十三回忌 報恩記念大会」に一切無償で出演。 2012年、デビュー40周年記念ツアー「さだまつり」を6月のからスタート( - 2013年1月)。 二夜構成で1日目が「前夜祭 〜しゃべるDAY〜」として9曲程度しか歌わずにトーク中心、2日目が「後夜祭 〜うたうDAY〜」として逆に殆ど喋らずに歌中心という内容だった。 2013年7月17日、日本武道館で、自身の記録を塗り替えるソロ・コンサート通算4,000回目を達成。 2017年1月1日、「さだまさし=カワイイ」をテーマとしたプロモーションの展開をスタート。 公式開設と「〜和風バージョン」と題した動画を「YouTube」上に発表。 2018年より自身のデビュー45年を期に所属レコード会社をに移籍することが決定。 同年夏発売の自身通算45枚目のオリジナルアルバムから同社からのリリースとなる。 5月27日、第85回で国歌「」を独唱。 パーソナルデータ [ ] 卒業、中退。 趣味は、、など。 身長は165cm。 はA型。 家族 既婚。 1983年に結婚し、一男一女の父である。 弟は社長で「日本人初のプロ選手」の。 妹は歌手の。 長男はユニット「」のメンバーとして2010年にメジャーデビューした・TAIRIKUこと。 長女は2011年にメジャーデビューしたピアノ・デュオ「Pretty Bach」のメンバーで・の妻・。 シンガーソングライターとして [ ] メロディーの傾向 [ ] 西洋のやの技法を駆使した作品が多い。 彼は前述のように元々に憧れたヴァイオリン少年であり、単旋律楽器であるヴァイオリンに親しんだことは彼の音楽性に大きな影響を残すこととなった。 自分のコンサートでヴァイオリンを弾くことも多い。 また、時にクラシックからの引用が見られる。 活発なコンサート活動 [ ] さだのコンサート回数は2013年7月には4,000回に達し(オリコン調べによる、3,000回を超えている日本人のプロ歌手はさだまさしのみ)、日本記録を伸ばし続けている。 さだがこれほど多くのコンサートを行うようになったのは映画『長江』で多額の借金を抱えたことが一つのきっかけだった。 さだはこれ以後、返済のために年間100回以上、多い年には162回(1982年実績)ものコンサートを行うようになった。 なお、30年以上をかけ最終的に債務は完済している。 さだの作品には、「飛梅」「まほろば」「修二会」など的なモチーフや日本の古典・民族的な題材を用いた歌も多く、やなどの神社仏閣の宮司・管長らとも親交がある。 このためか東大寺大仏殿・・など、寺社でのコンサートも数多く行っている。 たまたま地方へコンサートに行った際、その日に地元高校の野球部が県大会で優勝して甲子園出場を果たし、コンサート当日にはその高校の野球部の帽子をかぶり校歌を歌うというサプライズを行ったこともある。 1980年代前半、へのコンサートの際には使用する音楽機材を運搬するためにの貨物機をチャーターしている。 現在では海外の大物アーティストが来日するときは当然のことになっているが、日本人アーティストで貨物機をチャーターしたのは2012年現在、さだのみである。 全体の音をリードしていく楽器であり、単旋律楽器であるヴァイオリンとは対極にあるところに感激したと語っている。 が1970年代末に「たかが音楽、いつだってやめられる」と言った時にはさだはショックを受け、まで行ってサイモンにその真意を問い質したことがある。 その次にさだが大きな影響を受けたのがだった。 「」を聞いて衝撃を受け、すぐさま下宿先に住んでいた青年のギターを借りて全く同じコード進行の曲を作ったのが彼の最初の作品だという。 その時初めてギターを弾いたのだが、幼少時代からずっとヴァイオリンを弾いていたため比較的簡単に弾けたという。 他に()のタイプのナンバーにも非常に好感を寄せている。 また、の影響を大きく受けているとも語っている。 「噺家」として [ ] さだは歌から受ける印象とは違い明るく喋り好きな性格であり、高校・大学とに所属していた。 本人は「人生は明るく、歌は暗く」がモットーと話す。 コンサートでは「トーク」や「噺(はなし)」と呼ばれるMC(曲との間の喋り)を「3時間のなかの1時間」喋りと言う。 時には歌よりも長い時間繰り広げることもあり、その内容はほとんど落語かのようである。 本人は「とある落語家が弟子に『さだまさしのコンサートに勉強しにいってこい』と言った」と話す。 落語の演目のように定番となっているネタも多く、1994年にファンクラブ会員向けにオールリクエスト・コンサートを行った際には、歌だけでなくどのネタを喋るかまでリクエストで決めるという、普通の歌手ではあり得ないようなことまで行われた。 このため、ほとんどのライブ・アルバムでは「トーク」までノーカットで収録されており、さらには「トーク」単体で音源や本としてリリースされているほどである。 コンサートでトークをするようになったのは、自身を嫌っているかのように見えた最前列の観客が話をしたときに笑ってくれ、嫌われていなかったとほっとしたことがきっかけだという。 自身のトークはコンサートにおける必需品ではないが、アイスクリーム(歌)をおいしく食べるためのウエハース(トーク)という意味で「アイスクリーム屋のウエハース」だと喩えている。 2012年のデビュー30周年ツアー「さだまつり」では、第1日目はバンドメンバーもなしでほとんど歌わずしゃべるだけ、歌う時もさだのギター1本。 そして第2日目はほとんどしゃべらず歌うだけで、しかも「きだまきしとテキトージャパン」によるショーまである、という2夜連続コンサートを行った。 ツアーを終えてさだは「非常に疲れた。 やっぱり歌としゃべりが適度に混じっているのが一番いい」と語っている。 その喋りの才能は、ラジオの深夜放送(『さだまさしの』1981年 - 1994年)のパーソナリティとしても遺憾なく発揮された。 2006年の元日には『セイ! ヤング』時代の雰囲気をテレビで再現した『新春いきなり生放送!! 「年の初めはさだまさし」』なる生番組をNHK総合テレビで担当した。 放送時間は2時間強だったが、番組内で歌われた歌はたった3曲で、ほとんどの時間をトークで進め、裏番組の番組名を読み上げたり、NHK紅白歌合戦を暗に批判するなどした。 同年5月6日深夜には同じコンセプトで『横浜から突然生放送! 大型連休もさだまさし』を同じくNHK総合テレビで放送したが、こちらは1時間の番組内で歌ったのは実質的に唱歌「故郷」1曲のみであった。 どちらの番組もやはり自虐ネタとして「低予算」を前面に押し出していた。 以降も多くの生放送番組が放送されている。 これらの番組に関しては「」を参照。 内容はこの歌もあの歌も売れなかったといった自虐ネタが多い。 自らが企画した映画『長江』がヒットしたものの予算オーバーで30億円前後もの借金を作りコンサートで返済するようになって以降髪の毛が薄くなっていることも恰好の題材であり、「谷村新司、さだまさし、は『フォーク界御三毛』」などと話す。 小説家として [ ] 小説のデビュー作はグレープ解散時期に出版した『本-人の縁とは不思議なもので…』(1976年3月、)収録の「超人達のコーヒーブレイク」である。 その後ファンクラブ会報『まさしんぐworld』に「泣いた赤鬼」、「出雲路」などを連載する(その後「さまざまな季節に」 1981年11月、 に収録)。 2001年、で放送されていた『』の番組企画をきっかけに、社長の指導のもと、自伝的小説『精霊流し』を刊行し、ベストセラーになった。 2002年には短編小説集『解夏(げげ)』を刊行した。 『精霊流し』はNHK・として2002年にドラマ化(『』)、2003年に映画化もなされた。 『解夏』は映画化(2004年)され、さらにフジテレビ系ドラマ『』(2004年)の原作となった。 2004年には、第3作『』を発表。 NHK-FMでラジオドラマ化され、漫画雑誌のシルキーでコミック化された。 2007年には制作で、監督により映画化された。 さだは『精霊流し』以前にもアルバム『』と『』に曲のタイトルを題材にした短編小説を歌詩カードに掲載している(後に新潮文庫から『自分症候群』として出版)。 このほか、上記2アルバム以外のオリジナル・アルバムの殆どに、各曲毎に自らの手による「」が付されているのも特徴的であり、これを通じて、各楽曲の成立過程、さだの想い入れ、背景、テーマ等をよく知ることができる。 童話作家としても活動しており、自身の体験を基にした数冊の絵本を出している。 コンサートのMCでもお馴染みの噺である、2作目の『おばあちゃんのおにぎり』は歌手として初めてを受賞した。 さらにも数多く、やの雑誌『』(完了)、の雑誌『』などへの連載も行っている。 ファンクラブの会報にも毎回さだの短編が掲載されている。 読み切り形式でジャンルは不定。 人物 [ ] 持論 [ ] さだは長崎県出身で親族に原爆被災者がいることもあって、戦争の悲惨さや凄惨さを痛感している故に平和を求める気持ちが強く、そうしたテーマの楽曲が制作されたりイベントが開催されることも多い。 前述の仏教的なモチーフや日本の古典・民族的な題材を用いた歌などにもあるように、日本の将来を憂い、失われていく日本の伝統的な文化・道徳を大事にしようとする傾向もある。 こうした一面の一部分しか知らない者から批判を受けることもあり、かつては『防人の詩』で「」、『しあわせについて』で「」と批判されたほどであったという。 ウィキペディアに対して「ネットに書いてあることは、実に怪しげです。 ウィキペディアっていうネット百科事典に、『さだまさし』に関する記事が載ってるんですけど、嘘ばっかりです」と批判している。 詩へのこだわり [ ] アルバムのクレジットなどでは、「作詞」ではなく「作詩」と表記されている。 さだの詩へのこだわりは、保有する長崎県長崎市(旧)の内にある「寺島」と呼ばれていた小さな島が、1995年4月1日にさだの意向で(うたじま)と改名されたことにも現れる。 島には「飛梅」という曲の舞台ともなったから勧請した「詩島天満宮」がある。 スポーツの応援 [ ] では、監督が1980年に解任されるまでファンだったが、その後はファンとなった。 ヤクルトの初代オーナー・が長崎県出身だったのが理由である。 ヤクルト優勝時に同ナインが『さだまさしのセイ! ヤング』に電話出演したこともあり、元選手兼任監督のとは毎年一緒に酒を飲む仲だという。 2015年3月31日のスワローズ本拠地開幕戦では「スワローズCREW名誉会員」としてに登板した。 またを舞台にした曲『絵画館』の歌詞には「スワローズのユニフォーム」というフレーズがあり、『つばめよつばめ』ではスワローズファンの悲哀も歌っている。 「」でも直前のスワローズの試合結果によく言及している。 その他、も九州出身者として連載のコラムで「わがホークス」と表現しており、ファンが試合中に「北の国から」を大合唱しているのを聴いて、思わず心が揺れたとも発言している。 親交のある監督の要請で、2013年の北海道日本ハムファイターズ本拠地開幕戦()にゲスト参加。 「北の国から」を観客と共に歌い、国歌斉唱も行った。 ファンでもあり、1995年には「浦和花色木綿」というサポーターズクラブを結成。 浦和レッズ発行のハンドブックには2008年版までオフィシャルサポーターズクラブ代表者として掲載されていた。 かつてのバックメンバーも浦和サポーターである。 自身のラジオ番組『有限会社 さだまさし大世界社』で、地元・長崎市が等の企業城下町であり、前身の以来のファンと公言している。 また1991年から2010年まで使用されたのSG・G1・一般競走の優勝戦のはさだが作曲したものであった。 甲子園で、千葉県の多古高校と滋賀県の伊香高校が対戦し、伊香高校が10対8で多古高校に勝利することが夢である、とテレビ番組で語った。 飲食店の経営 [ ] 1980年代の前半に・付近(地下)に「さすらひの自由飛行館」というカフェを経営していた。 店先(地上)にはののパロディで、さだまさし自身の立像が据えられていた。 地下に降りて行くとドアがあるが、そこはダミーのドアで、まごついていると横のところが開くようになっていた。 壁には音響装置があり、ヘッドフォンでさだまさしの曲を聴くことができた。 トイレの壁には「便訓」という張り紙が貼ってあった。 メニューには「あみんセット」(・シナモンティー・の形の角砂糖)や、アルバム『うつろひ』収録の「分岐点」に因んだ「分岐点セット」(とソーダ水)があった。 この他、に「モンペトクワ」というレストランを友人と共同出資していた(2004年9月末で閉店。 の夫であるが店長をしていた)。 故郷長崎市に「自由飛行館」がある。 その他 [ ] NHK『』のファンであり、1番好きな作品は中学生の時に観た1966年度の『』と話す。 人気・評価 [ ] ファンクラブ「まさしんぐWORLD」の会員数は、現在約25,000人。 未だにコンサートの観客動員力は高く、チケットが発売後すぐに売切れてしまうことも多い(実際に、武道館で3,333回記念コンサートを行った時は2日間分が9分で売り切れた)。 東京・大阪などの大都市圏で行われるコンサートの場合は、ファンクラブの会員でも1人2枚しか先行予約できないことも多い。 2004年に長崎市栄誉市民となった。 存命中の人物に贈られたのはさだが初めてである。 NHKが行った「出場歌手に関する」では15位にランクインした。 2005年のNHK紅白歌合戦で歌ってほしい歌のアンケート()でも「関白宣言」が男性歌手の中で82位になった。 交友関係 [ ] ミュージシャン [ ] さだ曰く「フォーク界御三毛(ごさんけ)」の長兄。 日本武道館でジョイント・コンサートを行ったこともある。 グレープがデビューする前に、長崎放送のラジオ番組に、谷村新司ととが来て、公開コンサートで共演している。 その後、谷村新司が所属している事務所にグレープのテープが回ってきて、所属させるかの検討の上、事務所社長のが「さだまさしってのは不吉な予感がする」と思い断ったとのこと。 『』などで共演する機会も多い先輩。 イベントなどで共演する度に「」の前奏・間奏のヴァイオリン演奏を依頼され、そのたびにさだが「精霊流し」のイントロをわざと間違えて弾く、というギャグをかましている。 グレープ時代、北海道で(小田・鈴木二人体制時代)とのジョイント・コンサートを行ったこともあるほか、「佐世保」では小田がバックコーラスを務めている。 また、2007年12月には小田が毎年出演している特番『』にさだが出演し、2人で共同制作した楽曲『たとえば』を披露した。 「フォーク界御三毛」のもう一人。 コンサートなどではお互いに親しいがゆえの悪口を言い合って会場を盛り上げたりしていた。 過去さだが松山の実家に遊びに行ったこともある仲だったが現在は疎遠になっている。 『』の最終回では各々がコンサート先の系列局から中継で顔を出し、例の如く漫才のような罵倒合戦を展開。 司会のに「往年の(『』における)とのようです」と揶揄され、出演者の笑いを誘った。 1970年代以来の友人。 「みゆき」「まさし」と呼ぶ間柄で 、『今夜も生でさだまさし』でも度々さだが名前を出している。 「あの人に似ている」を共作しているが、この曲は男の歌(さだ担当)・女の歌(中島担当)がそれぞれ同じコード進行の別メロディーで進行し、サビで一緒になるという複雑な構成になっている。 これは、当初さだ・中島で作詞・作曲のどちらかをそれぞれ分担するというオファーになっていたものを、さだが「せっかく中島みゆきとやるのだから」と中島に提案し、あえて複雑にしたものである。 その後、中島の要請で2人でのセルフ・カヴァーが実現し、中島のアルバム『』に収録されている。 この時のインタビューではお互いに「ファンだ」と言い合っていた。 また、妹の玲子のデビュー曲「くらやみ乙女」は中島が提供している。 なお、さだは中島の表現力と感受性を大いに称賛しており、中島の作品を「良質な流行歌」と評す。 息子の直太朗とは会報誌でさだとの対談が行われる等の親交がある。 さだが原作を手掛ける『解夏』のドラマ版『愛し君へ』の主題歌を担当したことから互いのライブ等に行くようになる。 多くのライブ本数をこなすさだを尊敬しており、自身もライブこそが最大のコミュニケーションと活動の場をステージに置くことを大切にしている。 さだが自身の番組『』に複数回出演させるなど親交が深く、2017年からは大晦日にももいろクローバーZが主宰する『』に、さだが中継で出演するのが恒例に。 楽曲提供もしており、グループを花で喩えて「」(の一種)というタイトルの楽曲を書き下ろした(アルバム『』に収録)。 親への感謝を歌った曲で、さだとももいろクローバーZのメンバーが食事に行って話し合う中で制作された。 さだに憧れシンガーソングライターとなる。 自身のユニットの名称も、『』収録の「パンプキン・パイとシナモン・ティー」に登場する喫茶店の名前から採った。 2005年にはNHKの音楽番組『』で共演し、岡村の「」ではさだが詩を提供した。 なお、岡村との共演が2007年のあみん再結成のきっかけとなった。 誕生日が同じで、で共演している。 同レコード会社所属当時(ワーナーパイオニア時代)から40年来の親交があり、芸能界では小林が先輩に当たるが年下のためにさだを「お兄ちゃん」と呼び慕っている。 さだも「約束」と「茨の木」を提供している。 中学時代、初めて歌を作るきっかけを作った人物(後述)。 さだの憧れの人物の一人である。 『夏・長崎から』などコンサートでも度々共演している。 父親のが何度かさだのバックメンバーとしてコンサートやレコーディングに参加しており、親子で親交があり、綾香自身もさだのファンだと公言している。 「」「ひまわり」をカヴァーしているほか 、2006年正月のNHK『新春いきなり生放送!! 「年の初めはさだまさし」』や最後の『夏・長崎から』にもゲスト出演した。 『夏・長崎から』に2度ゲスト出演。 『長崎から』に影響され、2001年から故郷・沖縄で『うたの日コンサート(後にカーニバル)』を行い、さだもゲスト出演した。 自ら「まさし教信者」と公言する 程のファンで、「まさし」「宏美」と呼び合い ファンクラブ向けの「まさしんぐWORLDコンサート」にゲスト出演するなど親交も深い。 岩崎はさだを「私にとって生神様」としている。 岩崎の2012年のアルバム『Dear Friends VI』は全曲さだの曲のカヴァーで構成されている。 さだと親交が深く、さだの本質は「ロック」であると語る。 2014年のさだのアルバム『』では、「死んだらあかん」「君は歌うことが出来る」の編曲を担当したほか、THE ALFEEとしても『』で「まほろば」をカヴァーしている。 () さだへの尊敬の念を公言しており、ライブイベントなどで何度も共演している。 さだを慕うミュージシャンの一人。 2018年のさだのアルバム『』では、「きみのとなりに」「パスワード シンドローム」の2曲を「ナオト・マサシ・インティライミ」名義で共作したほか、楽曲の編曲・プロデュースも行っている。 幼稚園児の頃に親戚の結婚式の余興として『』を歌ったのをきっかけにさだを聴き初めて以来、さだには大きな影響を受けたと語っている。 2018年のさだのアルバム『Reborn ~生まれたてのさだまさし~』では、「黄金律」の編曲・プロデュースを手掛けている。 同郷の後輩。 さだに対し敬意を払い、福山が言及する際はほぼ必ず「偉大なる」と前置きする。 「秋桜」をカバーしたほか、自身のラジオ番組で「雨やどり」をかけ「好きでよく歌うのだが、歌うと泣いてしまう」と語った。 他にも「関白宣言」「精霊流し」などをラジオのとして使用している。 アレンジャー・バックメンバーなど [ ]• (妹)• (息子) - 2007年のアルバム『』で初共演。 (元グレープ)• - さだまさしばんどで参加。 2016年2月8日没。 田代耕一郎 - コンサートではで初めて参加• - さだまさしばんどから参加したがでは名前はあるものの常には参加していない。 さだの高校の時の先輩である。 - さだが関係するテレビやラジオの放送作家• - さだが出演するNHK「今夜も生でさだまさし」の音響担当 上記の人たちによるものではあるが、コンサートに至ってはサポートバンドを結成し参加している。 名称も、サーカス、元祖サーカス、ふりーばるーん、、さだばんど、と変化している。 さだ工務店のメンバーは公益財団法人風に立つライオン基金の理事でもある。 その他 [ ] 公私共に仲が良く、お互い「先生」「まさし」と呼び合う仲である。 さだは倉本が脚本を手がけた人気ドラマ『北の国から』の主題歌「北の国から〜遥かなる大地より〜」を作曲している。 また、倉本が骨折した際、さだはライブツアー中で見舞いにも行けず、倉本と再会できたのはギプスも外れてほぼ完治に近い状態であった。 しかし、ギプスが装着されていた部分の体毛が以前より濃くなっていたことに気がつき、「まさし、おまえ頭を骨折しろ! 」と叫んだとのこと。 これも、さだが得意とするステージトークでの自虐ネタとして使用していると共に2人の仲の良さを証明しているものである。 現在は名番組として鶴瓶の代表作となっている『』は、NHKからさだまさしに持ち込まれた企画であった。 初回はさだがホストで鶴瓶はパートナーであったが、コンサートによる多忙のため、番組の続編を鶴瓶に任せて、現在の形態となっている。 このとき、さだは「鶴瓶ちゃんなら」ということで彼に司会をバトンタッチしたほど、お互いに信頼しあっている。 なお、主題歌はさだが担当している。 前述の『防人の詩』が批判された時期にはさだを批判する発言をしていたが、さだとホテルで遭遇し、真意を聞かされて以降はさだに理解を示すようになった。 また、おすぎがまだ映画評論家としての地位を確立していなかった頃、おすぎの映画評論に感銘を受けたさだが自らのラジオ番組におすぎの映画評論コーナーをレギュラーで持たせていたこともある。 原田が書いた『さだおばさん』 をたまたま書店で目にしたことから交流が始まり、ついにはさだが原田の故郷である諏訪に引っ越し、原田の家の近くに自宅を建ててしまったほどの仲である。 1990年代初頭の『さだまさしのセイ! ヤング』では競馬予想を展開する度に「的場(が来る)! 」と断言していた(ちょうど当時の的場はに騎乗し、数々の重賞レースを制している時期だった)。 的場が通算一千勝を達成した際にはさだが作った「」を的場が歌ったCDが作られ、関係者に配布された。 元の役員で、「」の作者 、古代史研究家。 さだの父雅人の友人であったことから親交があり、さだは幼い頃から「マー坊」と呼ばれていた。 宮崎が没した際には、彼の著書『』にちなんだ楽曲「邪馬臺」(アルバム『』収録)を制作している。 宮崎はにさだの意に反する形で、「長崎に噺家になりたいという若者がいるから師匠を紹介してくれ」と相談しており、これがきっかけでさだと永の親交が生まれた。 元アナウンサーで、現・フリーアナウンサー。 「精霊流し」ヒットの立役者であり、さだは「蟹江おねぇさん」と呼んで慕っている。 名古屋からのさだの生放送番組の際には、スタジオ観覧に来ていた蟹江をさだが発見し、ハガキを読ませてしまうという異例の事態になった。 落語家。 上述のように落語好きなさだとは親交が深く、「セイ! ヤング」や2009年のファンクラブ向けコンサートにゲスト出演したこともあるほか、談春の著作『』にもさだの名前が出てくる。 『』ではさだのトークのネタ「父さんとポチ」を落語の演目としてカヴァーしている。 談春は、元々さだのファンである。 落語家。 「らくごカフェ」の代表の青木伸広の紹介がきっかけで交流を持っている。 春蝶自身さだの大ファンである。 また、さだは3代目春蝶の実父ののファンであった。 元会長。 長崎県出身で「財界官房長官」と呼ばれた財界の実力者。 在東京長崎県人会の席で知己となり、彼の紹介でらの実業家や、、・といった・とも交流を持った。 特に山本健吉には多大な影響を受けている。 世界的な。 でさだまさしファンを自らカミングアウトした。 (池田貴史) 「影響を受けたアーティストはさだまさし」と自ら認めている。 () さだを「師匠」と呼び敬っている。 以前よりに影響を受けたとしていたが「」放送分に出演した際に尊敬する人物として発言したことで、松本がメインコメンテーターを務めるにさだがゲストに登場するなど共演が続いている。 芸能人の友人も多いが、最も仲が良いのは中学・高校の同級生、そして長崎にいた頃の小学校の同級生であり、今でも2週間おきに会って飲んでいる。 とコンサートで話している。 さだのコンサートで学生時代の話になるとその時の担任の先生や同級生の名前もファンに教えている。 さだまさし研究会(さだ研) [ ] この節には、過剰にが含まれているおそれがあります。 内容の増大は歓迎されません。 をで検討しています。 ( 2010年8月) さだの熱心なファンは全国各地に多く、その特色の一つとして、各地にファンの集まりである「さだまさし研究会」(略称:さだ研)なるものが数多く結成されていることが挙げられる。 かつて原宿・表参道にあったさだまさしの店「A・WEEK(ア・ウィーク)」には全国各地のさだ研の会報が置かれていてそこでの交流があったり、毎夏の『夏 長崎から さだまさし』に幟を持参して参加した各団体が一堂に揃って写真撮影する光景も見られた。 学生サークルの場合は同じ大学のさだファン同士で集まってのサークル設立が多いが、社会人や一部の学生団体には『』に投稿した「さだ研を作りたい」旨の葉書が採用されて設立されたものも少なくない。 『セイ! ヤング』では一時期、毎週のようにさだ研設立の葉書が読まれて一種のブームが巻き起こったほどである。 またパソコン通信やインターネット上に設立されたさだ研もある。 「さだ研」が『セイ! ヤング』でブームになるきっかけは、1990年に450回記念の一環で行われた東大・早稲田大・信州大の3大学対抗のさだにまつわるクイズの大会だった。 結果は東大さだ研が圧勝。 この番組企画の直後からあちこちで「さだ研を作りましょう」という葉書が番組に飛び込むようになっていった。 また番組側やさだ本人も好意的にそれらの葉書を採用し、1992年には550回記念で一般リスナー対象に「さだカルトクイズ大会」が行われることになった。 このクイズ大会のために一般のさだファン同士やさだ研内でも「勉強会」や「情報交換」などが行われた。 一部のサークルで一時期、「さだまさし研究会谷村新司派」が存在した。 最盛期には全国に数多くの団体が存在していたが、1994年の『セイ! ヤング』の番組終了とともに団体数は激減している。 現在既存の学生系さだ研の多くはすでに解散か、新入生がなかなか入ってこないために上級生のみ、もしくは現役学生がゼロに近いOB・OGのみの「OB・OG会」のような活動になっている。 全盛期には「さだ研に入る」ことを目標に大学受験を突破したさだファンも少なからず存在していたが、『セイ! ヤング』の終了と共に学生世代のファン人口が激減したこともあって継続してサークルを運営する世代が育たなくなっており、既存の各団体の現役生は毎年頭を悩ませているという。 早大の現役サークルも消滅の危機に陥ったが、他大生を加えたインターカレッジ・サークルとして存続させた。 部員が鎌倉女子大学の学生一人のみの時期もあった。 その後、2012年のさだまさし還暦祝いコンサート会場に早大さだ研のブースが設置されたのを機に関東近辺の大学生が多く集うようになった。 社会人系サークルも『セイ! ヤング』終了と同時期に活動停止・解散した団体が多かったが、中には10年以上も地道に活動を続けている団体や、サークルを10年以上続けて別の趣味をメインにしたサークルへの事実上の合併・組織改編を果たしてしまった団体も僅かながらある。 また逆に『セイ! ヤング』等による「全盛期」を知らない団体の中にはインターネットが普及したことによって地元会員以外のメンバーも掲示板などで集い会員を増やしているものもあり、さらにはmixi・インターネットさだ研のようにインターネット上のみで活動し、盛況となっているさだ研もある。 さだ研が独自にブログ を立ち上げていたり、さだ研が毎年長崎で配布する会報を会の公式サイト 上でPDFファイルで公開している。 1990年リリースのアルバム『』に収録されている「Song for a friend」の歌詩カードには、「コーラス:さだまさし研究会合唱部」という架空の団体名が記されている。 大学生活を描いたマンガ『』(著)」にて、主要登場人物の一人が「さだ研」に加入している。 ディスコグラフィ [ ] 「」を参照 主な著作 [ ] ステージトーク集• 噺歌集(全5巻 )• さだまさし 話のアルバム(新潮CD文庫) その他• 僕の愛読詩集(新潮社カセット文庫) - との対談付• さだまさしのセイ! ヤング(赤本・青本)()• アルバムライナーノート集『自分症候群』(新潮社)• ピクチャーブック『遙かなるクリスマス』(講談社)• 『落談まさし版三国志英雄伝』(自由書館 絶版 、文藝春秋);エッセイ• 本 人の縁とは不思議なもので…(八曜社) - 初の著作本• 時のほとりで()• さまざまな季節に(文藝春秋)• ゆめいくみはっぴい(夢行身発飛)(全3巻 )• 風待煙草()• せとぎわの魔術師(講談社)• 日本が聞こえる(毎日新聞社)• まほろばの国で(毎日新聞社)(『日本が聞こえる』単行本第二弾)• いつも君の味方(講談社)• 本気で言いたいことがある(新潮社)• 美しき日本の面影(新潮社)• もう愛の唄なんて詠えない(ダイヤモンド社)• まほろばの国で 終章(毎日新聞社)(『日本が聞こえる』単行本第三弾)• いのちの理由(ダイヤモンド社)• 酒の渚(幻冬舎)のち文庫• さだの辞書(岩波書店) 小説• (幻冬舎)• (幻冬舎)• (幻冬舎)• 茨の木(幻冬舎)• (幻冬舎)• (2012年4月5日、、)• はかぼんさん:空蝉風土記(2012年8月22日、、)• (2013年7月18日、幻冬舎、)• (2015年5月28日、、) 童話• ふうせんのはか()• おばあちゃんのおにぎり(くもん出版)• 23時間57分のひとり旅(くもん出版) 翻訳• とても温かで とてもせつない きみの絵本(2016年4月21日、ジュヌヴィエーヴ・カスターマン著、、) 歌詞と絵で綴るさだまさし絵本シリーズ• 秋桜()• 償い(サンマーク出版)• 親父の一番長い日(サンマーク出版)• 案山子(サンマーク出版)• 奇跡(サンマーク出版) また、1981年にはアルバム『』の発売に合わせて、「嫁入新聞」という新聞を発行している。 教育機関等への作曲 私公立学校の校歌を作曲し提供している。 夢ありてこそ(校歌)• 風光る(校歌)• 明成小学校校歌(金沢市立明成小学校校歌)• 緑豊かに(校歌)• 空はるか(長崎県南高来郡北有馬町立有馬小学校校歌)• 約束をしよう(栃木県大田原市立黒羽中学校校歌)• 千年の祈り(奈良県校歌)• 愛ありて(大学歌)• 花咲きぬ(川崎医療福祉大学大学歌) 出演 [ ] 主な映像作品など [ ]• 映画『』(主演・音楽、1980年)• 映画『』(原作・出演・主題歌、1980年) - 主演・佐田繁理• 映画『長江』(監督・主演、1981年)• 映画『』(原作 監督・音楽、1994年) - 「」の1本として(アニメ作品)• 映画『』 監督作品 1998年 職業訓練校教務 北• 『』(の絵本のアニメ版、日本語版の朗読、2001年)• 映画『』(原作・主題歌、2003年)• 映画『』(原作・主題歌、2004年)• 映画『』 刑事役、2005年)• 映画『』(原作、2007年)• 映画『』 (主題歌、2009年)• 映画『』 (原作、2011年)• 映画『』 (原作・主題歌、2014年)• 映画『』 (2014年) - 通りすがりの豆腐屋(アニメ作品) 主なラジオ番組出演 [ ]• 『』(グレープ時代)• 同『さだまさしの全力投球』(1979年9月 - 1980年3月)• 同『』(1981年10月-1994年3月)• 同『さだまさしのラジオまっぴるま』(1985年10月7日 - 1987年4月3日)• 同『』(1994年 - 1998年)• 同『さだまさしのゆく世紀くる世紀(笑)』(1999年 - 2001年・不定期)• 同『さだまさしの』(・2002年度 月曜担当)• 同『』(2007年4月2日)• 同『』(2010年 - )• 『さだまさしのトークシアター』(地方局向け番組。 1990年代前半に放送)• 『さだまさし 夢回帰線』(1990年代)• 『さだまさしの気まぐれ夜汽車』• 『さだまさしのサンデーパーク』• 『さだまさし WEEKLY 〜Mist〜』(2007年10月7日 - 12月30日 ) 主なテレビ番組出演 [ ]• 10(、1987年8月22日)SAVE THE CHILDRENコンサート• (、1991年)• さだまさし音楽工房(、1992年)作詞・作曲講座。 共演:・• 「さだまさしとゆかいな仲間」シリーズ(、1980年代中期)• (、1990年代初頭)ホスト役の一人。 2007年2月2日放送分にて、さだが希望していた「をゲストに呼び自身が司会」という形式が、番組の31周年記念番組として実現した。 タイトルは「まさしの部屋」。 また、30周年記念コンサートで紹介されたでのエピソードを盛り込んだ公開放送も、徹子の部屋では初めてのこと。 さらには、2日連続放映というのも番組初のことであった。 (日本テレビ 2000年)• 『』(、2003年12月21日)本人役で出演。 さだまさしの見るラジオ・聴くテレビ(、2001年8月5日・2002年6月5日)「今夜は生でさだまさし」の原型• シリーズ(NHK総合、2006年 - )• 元日テレビ〜今年は見せますNHK〜(NHK総合、2008年1月1日)• 元日テレビ〜お便りだけが頼りです〜(NHK総合、2008年1月1日)-『年の初めはさだまさし』とは別番組。 と共演• 正月テレビ! 〜これこそわが町元気魂! 〜(NHK総合、2008年1月2日)• まさしとタカトシのハッピー・モーニング・ショー(NHK総合、2008年1月3日)• まさしとタカトシのハッピー・ニューイヤー・ショー(NHK総合、2008年1月3日)• 共同制作番組「ふぞろいの魚たち」(、2010年2月11日) - 語り• (NHK総合) 前身となる番組はさだと鶴瓶による番組だった。 現在の形式になってからも複数回出演し、主題歌も担当している。 さだまさしドラマスペシャル• 『』(フジテレビ、2009年6月19日)理髪店主役(友情出演)• 『』(フジテレビ、2011年7月5日)本屋の店長役(友情出演)• 『』(NHK総合、2013年8月23日)• 風に立つライオン〜さだまさし・大沢たかお ケニア・命と自然の旅〜(NHK BSプレミアム、2015年1月4日)• TBS年末スペシャルドラマ『』(、2015年12月28日)すし屋の大将役で出演。 スペシャル『借金で潮漬けされた島』(、2017年4月2日) - さだ所有の詩島をリフォーム。 3,000回スペシャル(、2017年6月30日) - スペシャルゲスト NHK紅白歌合戦 [ ] 『NHK紅白歌合戦』には1990年から2007年までほぼ毎年出演していた。 1977年・にも「」で出場の打診を受けていたが、当時の紅白ではフル・コーラスを歌うことができないという理由で辞退したという。 (完了)• ダスキンのCMにはかなり長期間出演しており、3分間の仕立てのCM「ダスキン100番100番劇場」などにも主演している。 ダスキンのキャラクターとして定着し、子供達からは一時期「ダスキンのおじさん」と呼ばれるほどだった。 「パスビタンD」(1992年)• 『セイ! ヤング』で募ったファンのをホールに入れて「あなた三昧」を歌うコンサート風のバージョンと、マネージャー廣田泰永とさだとの楽屋での掛け合いの2バージョンがオンエア。 (2005年 - )ナレーションと音楽(案山子)• (2005年 - )音楽(愛)• (2009年)• CM内で「」を歌っている。 「サッポロ クリーミーホワイト」(2010年 - )音楽(北の国から2010)• ナレーターを担当したバージョンもある。 「クリーン・心のケータイ」(2012年)の歌唱• 3行詩「心のケータイ」募集を兼ねたプロモーションで、CFソングを担当。 「」(2018年)• (2019年)• (2019年)「2019年度支援キャンペーン『にゃんぱく宣言』」• CMソングを担当。 (2019年)• にゃんぱく宣言(2019年) 受賞 [ ]• 作詩賞(1974年)• 西条八十賞(1977年)• 長崎市政協力表彰(1989年)• 長崎県民栄誉賞(1996年・第2号。 ちなみに第1号は指導者の)• 長崎市栄誉市民(2004年4月、「長崎の魅力を全国に発信し、イメージアップを図ったことへの貢献」が認められる)• 特別賞(2006年)• 特別賞(2013年)• 第42回・放送文化部門(2016年) 役職 [ ]• 名誉館長• 名誉館長• 観光大使• 協会評議員 脚注 [ ] []• 國學院大學. 2019年10月27日閲覧。 2018年9月17日. 2019年4月20日閲覧。 さだまさし『もう愛の唄なんて詠えない』(、2007年、pp. 177-178)および、さだまさし『噺歌集V』(文藝春秋 1993年 pp. 62-70)• 出典:さだまさし『時のほとりで』1980年。 172-173掲載の「転宅」の解説より• さだまさし『時のほとりで』p. 172• この時のことを歌ったのがソロ・アルバム第1作目の『』に収録されている「転宅」である。 その際、ヤングジャパングループ所属だったアリスのはヤングジャパングループ代表のに採用を薦めるが、細川はプロフィール写真を見て「貧乏神のようだ」として採用を見送っている。 谷村は「その際に細川が『貧乏神』と譬えたのは吉田正美の方ではなくお前の方だった。 」とさだに語っている。 さだはミュージシャンで、映画制作については専門外(「畑ちがい」)で、映画制作の資金調達の一般的なしくみを知らなかった。 映画というものは大抵は製作費が膨らみ巨大化するもので、一般に(ある程度以上の規模の)映画の制作というものは、まずは多数の出資者候補に企画の概要を書いた文書を提示し、興業が成功した場合の利益分配の割合も提示した上で、出資を募って、(その中の、出資する気になってくれた出資者たちとの間に)まずは出資してもらうを結び、実際に資金を提供してもらい、それによって制作者側の金銭的リスクがほぼ無くなるような形で資金を確保しておいてからようやく制作に着手するものだ、という映画界の一種の常識を知らなかった。 (ハリウッドでも、イギリス映画界、韓国映画界でも、世界を見渡すと一般に、映画への出資者というのは、多数の映画に分散して出資(投資)し、ほとんどの映画は興業に成功せず出資した分がほぼ返ってこないが、5本~10本のうち1本ヒットすれば、それが一種の大きな「配当」をもたらし、結果として自分の資金がむしろ増える、という構図のもとに出資は行われている。 (投資として見返りを期待しつつ)出資をしたがっている人々、出資を受けて映画を制作したがっている人々、それら双方が互いに接触し契約を結ぶための、一種の市場(マーケット)のようなものもある。 後年、さだはと対談した時に、(たけしのほうは、映画の制作や監督業で成功を重ねたわけだが)たけしから世の中の映画の制作の金銭的なしくみを説明され、さだは当時の自分の未熟さをかみしめつつ、反省の弁を述べることになる。 なお韓国の映画制作の講座(映画制作を目指す人々のための講座)で、重きを置いて徹底的に教えられていることは(素人が想像するような、脚本づくり、演出方法、カメラワークなどではなく)特にの方法・テクニックなどである。 実に、講座で教える時間の半分ほどもの時間を割いて、資金調達について教えている。 映画制作をやりたがるような人々というのは、大抵、芸術的な面にばかり気をうばわれ、資本(お金)のしくみに疎く、それが盲点になりがちで、致命的なミスを犯しがちで、そのミスによって映画制作を試みる若者の人生が狂い再起不能になりがちなので、若者を愛すればこそ(芸術な要素で頭が一杯になりがちな芸術家志向の人々に対しては、彼らを護るために、彼らを愛すればこそ、なおさら)徹底して(彼らが、うかつにも関心を示さない)に重きを置いてそれのノウハウを教え込まなければならないわけである。 この借金については自身31作目のシングル「建具屋カトーの決心〜儂がジジイになった頃」の中の歌詩にも盛り込まれている。 本人は「ガビ山からゴビ砂漠に向かってションベンして、借金して、島の王様で、昔は歌手、と言っても『嘘つけ、このハゲ! 』なんか言われてしまうだろう」と述べている。 サンケイスポーツ. 2017年1月1日. 2017年1月2日閲覧。 ( 2013年7月17日、2013年7月20日閲覧)• ( 2017年3月15日)• それに対しサイモンは「やめられっこないよね、でもやめられる。 音楽は常に過去に向かって進行しているんだから」とのような哲学的な答えを述べたという(『さだまさし 全一冊』TOKYO-FM出版 p. ポール・サイモンについて「人がビートルズを基準に、その比較論で、音楽について評価する時に、僕はビートルズでなしに、彼を基準に、音楽を映してきた気がする。 」と述べている(『さだまさし 全一冊』TOKYO-FM出版 P60、元は1980年に書かれた文章)• 落研当時の高座名は「飛行亭つい楽」。 及川淳子 2007年5月25日. 友好新聞. 2016年8月28日閲覧。 さだまさし「さだ語録 あなたの心は元気ですか?」 pp. 140-189• さだまさし「笑って、泣いて、考えて。 永六輔の尽きない話」p. 173より。 グレープ時代は「作詞」とクレジットしているが、公式デビュー前のEP盤「Grape-1」(「蝉時雨」、「雪の朝」など収録)では「作詩」とクレジットしている。 産経新聞. 2002年2月22日時点の [ ]よりアーカイブ。 2013年8月2日閲覧。 なお長崎にもがある。 ,goo• 『週刊FM』昭和56年12・21-1・3号、p. 106、谷村新司とさだまさしとの対談にて。 さだまさし『さだまさし ステージ・トーク 噺歌集』(1986年、 pp. 129-130• 西日本新聞インタビュー(2016年2月7日)• 「」など、さだのプロデューサー・が関わる平原の楽曲も何曲か存在する。 2012年9月12日, at the. MSN産経ニュース 2012年5月26日。 2012年10月13日閲覧)• 『』2013年3月31日放送回で2人が明かした。 2020年5月29日閲覧。 ( 2014年8月29日 2018年7月16日閲覧)• ( 2015年5月15日 2018年7月16日閲覧)• 2018年5月21日 2018年7月16日閲覧)• 『』2017年25号 pp. ( 2017年5月15日 2018年4月29日閲覧)• 2018年6月7日 2018年7月16日閲覧)• さだまさし「笑って、泣いて、考えて。 永六輔の尽きない話」pp. 11-12より。 なお、元々は『さだおばさん』自体はさだまさしとは全く関係なく、の駅長になった行商の「さだ」さんと、村の人々のふれあいを描いた絵本である(苗字が「佐田」ではなく名前が「サダ」「定」などの「さだ」。 「さだ」さんは雪の中での線路点検作業中に雪崩に巻き込まれて亡くなってしまう)。 「映像作品」の項目にあるように、後にさだが監督となって映画化されている。 現在では「島原の子守唄」は山梨民謡「甲州縁故節」からの編曲であることが知られている。 さだまさし「笑って、泣いて、考えて。 永六輔の尽きない話」pp. 28-29より。 ライブドアブログ• 2016年8月29日, at the. ( 2016年8月23日)• マイナビウーマン 2013年5月11日• ニュースウォーカー 2015年11月21日. 2015年12月7日閲覧。 、、2020年5月24日 22時17分。 J-CASTトレンド. 2018年12月26日. 2019年2月6日閲覧。 atpress. 2018年9月6日閲覧。 プレスリリース , 公益財団法人 放送文化基金, 2016年6月8日 , 2016年6月8日閲覧。 関連項目 [ ]• (実弟)さだ企画社長、元サッカー選手• (実妹)歌手• (実子)ヴァイオリニスト(関連:「」・)• (実子)• つくば秀英高等学校• - 長崎県長崎市の島。 さだまさしが所有している。 外部リンク [ ]• ( MasaSingTown)-• - 創設者・理事•

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さだまさしの歌詞一覧リスト

さだまさし cm

ACジャパンによる「」のCMが話題になっている。 その名も「」。 さだまさしさんの名曲「関白宣言」を元にした作品だ。 「にゃんぱく宣言」はネコの適正飼育を訴えたキャンペーン。 「関白宣言」で歌われる「俺」から「嫁」への小言を、ネコから飼い主へのメッセージに置きかえた歌詞が秀逸だ。 にゃんぱく宣言 作詞・作曲 さだまさし お前を飼い主にする前に 言っておきたいことがある。 かなり厳しい話もするが 俺の飼い方を聞いておけ 俺の体、 俺より管理しろ 家の外に、出してはいけない 飼えない数を、飼ってはいけない にゃ〜 忘れてくれるな 俺の頼れる飼い主は 生涯、お前ただ一人 テレビCMでは、ネコの心の叫びを「関白宣言」によく似たメロディーに乗せてさださん本人が歌う。 「にゃ〜ん」という鳴き声が可愛い。 曲のラスト、「正しく飼って、ずっと一緒に」というメッセージが流れる。 CMは7月1日から放送され、1年間放送される。 「何度も見てしまう」「すごく頭に残る」「いい歌詞!」など、SNSでの反応も上々だ。 さだまさしさんにお手紙で依頼 ACジャパンの担当者によると、CMの原案を考えたのは広告代理店・東急エージェンシーの女性プランナー。 さだまさしさんに手紙を書いて、作詞作曲を依頼し、今回のCMが実現したという。 「関白宣言」は1979年(昭和54年)に大ヒットした。 「俺より先に寝てはいけない、俺より後に起きてもいけない」など、妻への過剰要求が話題となった。 担当者は「ヒットした当時を知らない人も多いと思うけれど、分かりやすいメロディーと歌詞。 時代を超えて面白がってもらえている」と手応えを語った。 動画はから視聴できる。

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