小林 旭 さすらい。 小林旭 さすらい 歌詞

小林旭 さすらい 歌詞

小林 旭 さすらい

略歴 1955年第3期日活ニューフェイスに合格し入社。 翌年10月に「飢える魂」で本格スクリーンデビューを飾る。 1958年の「絶唱」「完全な遊戯」などでその類い稀な表現力を見出され、1959年に後のイメージを決定づけた「ギターを持った渡り鳥」に始まる渡り鳥シリーズ「銀座旋風児(マイトガイ)」その他多くの作品に主演し日活の稼ぎ頭となる。 日活退社後はフリーとして「仁義なき戦い」ではそのストイックなまでの演技力を披露し東宝「青春の門」では男くさい男を演じ小林旭=アクションというイメージを払拭し本物の演技ができる俳優として確固たる地位を築く。 歌手としては1957年にコロムビアレコードより「女を忘れろ」を初レコーディング次いで「ダイナマイトが150屯」が大ヒット。 その後も「旭節」と名称までついた「ダンチョネ節」や「ズンドコ節」などが次々に大ヒット「さすらい」「北帰行」などの映画主題歌もヒットを飛ばし歌う映画スターから、演技と歌の両極を完成させる真のエンターテイナーに昇華。 1964年クラウンへ移籍後は「自動車ショー歌」がロングランヒット! 「ついて来るかい」「純子」そして「昔の名前で出ています」がメガヒットとなり日本カラオケ史の幕開けを告げる記念碑的歌となる。 その後も85年「熱き心に」、01年「昭和恋歌」、2011年「昭和・路地裏話」など時代時代に象徴的な歌を残す。 このように小林旭は他に類をみない役者としても歌手としてもメガヒットを持ち、薄っぺらなスターや大御所と呼ばれる偽物が多い中現在も輝きを放ち続けている本物のスター。 2013年2月テイチクエンタテインメントよりシングルCD「素晴らしき哉人生」発売。 2014年3月テイチクエンタテインメントよりシングルCD「ひとりの女に」発売。

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さすらい

小林 旭 さすらい

映画は昭和35年(1960) 9月公開で、翌月にはレコードがコロムビアから発売され、大ヒットしました。 この歌には原曲があります。 太平洋戦争中、フィリピン・ルソン島に駐屯・転戦していた兵士たちの間で歌われていた『ギハロの浜辺』です。 ギハロ(Guijalo) は、ルソン島南東部の地名だそうです。 この歌は、いわゆる兵隊節の1つで、作詞者・作曲者は不明です。 歌詞もわかりませんが、メロディが寂しいことから、別れか兵隊生活の悲哀を歌った内容かもしれません。 兵隊節については、『』の蛇足をご覧ください。 南方から復員してきた教師が生徒に教え、その記録をもとに狛林正一が曲作りをし、西沢爽が歌詞をつけたということです。 詳しくは下記・考古学者さんのコメントご覧ください。 (二木紘三) 「さすらい」と「ギハロの浜辺」について調べていたところ下記の通り判明しました。 東京丸高会・過去のニュース に下記の記載がありました。 29 12月29日に放映されたNHKの「そして歌は誕生した」で、 小林旭の昭和35年のヒット曲「さすらい」の原曲を巡る秘話として、 丸高の故 山上正雄先生を中心とした物語が紹介されました。 さらに、渡三郎さん coolman 8107. net 主宰の「帰ってきた渡り鳥」のサイトのなかで、NHKの「そして歌は誕生した」の内容をまとめられていますので、こちらで要約・引用してご紹介します。 なお、このページには原曲の歌詞も紹介されています。 香川県の旧丸亀第一高校の英語の先生が生徒たちに歌って聞かせた「ギハロの浜辺」が「さすらい」になったというもの。 作詞:西沢爽/補作曲:狛林正一/採譜:植内要(にわうち かなめ)とあるが、植内要とは、当時コロムビアの文芸部長をしていた方のペンネーム。 学生時代、丸亀高校出身の友人が、丸亀高の英語の先生に聞かされていた哀愁あるメロディーを、寮の友人であった植内氏に採譜を依頼した。 植内氏は後に小林旭の歌に相応しいと思い、コロムビアの当時の名ディレクター・馬淵玄三氏に託した。 馬淵氏は作詞家の西沢氏に「深い陰影のある男の寂しさを表現する詩に変えて欲しい」と依頼した。 一方、丸亀の地元では別の教え子であった方が、瀬戸内海放送の番組制作時のBGMに相応しい曲を探しているうちに恩師に教わった「ギハロの浜辺」を思い出し、当時の音楽の先生に編曲を依頼した。 「ギハロの浜辺」はラジオ放送として流れた。 そして、その歌を戦地から持ち帰られた先生はカセットテープに録音。 これは先生の遺品として譜面と共に発見されてる。 「ギハロの浜辺」を持ち帰られた先生は大ヒット曲「さすらい」に生まれ変わっていたことも知らずに亡くなられたそうだ。 「ギハロの浜辺」は英語の先生がフィリピンの収容所に抑留されていた際に京都の第十六師団の将兵から聞いたものではないかと関係者が証言した。 先生の譜面の記録には、作詞 第十六師団将兵 作曲 大西嘉武とあった。 編曲は後の上記の音楽の先生の名前が記されていた。 投稿: 考古学者 2009年8月14日 金 19時38分 「ギハロの浜辺」についての考古学者さんのコメントと管理人さんに触発され、感じたことを書いてみます。 このコラムは最近、拝見するに至った偶然のほかに、2つのことを偶然に知ったことが重なっています。 このコラムを知った直後に偶然、澤木興道(さわき こうどう)老師1880年6月16日 -1965年12月21日)は日露戦役において、1904年(M37年)8月31日に首山堡の戦闘において口から喉に抜ける銃創を負われたのですが、当時は、津の歩兵第33聯隊の伍長でいらっしゃいました。 歩兵第33聯隊と言いますと、「ギハロの浜辺」歌詞に出てくる2つの地名のGuijalo(鄙びた港)とMayon (火山)はいずれも、Legazpi付近のものですので、 第16師団将兵の作詞とされていますが、1941年12月にLegazpi飛行場を占拠・使用するために同地に上陸した同師団歩兵第33聯隊にまつわる方の作であるように思われます。 一方、Sulu諸島の玉砕地Jolo島で停戦も知らずに飢えと寒さの中で山中をさまよい、現地住民の襲撃に僅かに生き残った80余名が来島した米軍に救出されたのが1945年9月下旬ですが、この時にJolo島生き残りの方が一時期収容されていたのがレイテ島パロ高地にあった収容所です。 ここは、1944年10月に米軍上陸後4日目に歩兵第33聯隊が軍旗を焼き玉砕した場所として、1945年当時から収容者にはよく知られていたと聞いています。 つまり、16師団全体としてはレイテ島でそのような過酷な状況で壊滅したのであり、16師団将兵であられた方全員としても、戦中・戦後に米軍に収容・救出された方はきわめて少なく(1000名程度?)と思われます。 まして、さらに歩兵第33聯隊がLegazpiに上陸した1941年当時から1946年以降まで生き抜かれた部隊の関係の方は、在比収容所の中でもごく少数であったと思われるのです。 以上のことを考え合わせて、「ギハロの浜辺」は、戦中に兵員の間で謡われたというよりも、むしろ、その悲しい曲調から、「異国の丘」同様に、収容所の中で作られ、謡われ、収容されていた方々の共感を得たことにより、内地にもたらされた曲ではないかと思えるのです。 また、歌詞の中で帆船のことをバラオとしているようですが、これはスペイン語のveleroのことと思います。 ヴェレロという音ですが、タガログ語などで言うビンタという言葉を使わずに、veleroを使われたところに、作詞者の方のお人なりが偲ばれます。 長くなりましたが、この曲の旋律と言葉には、はほぼ全滅した人間集団の中で、辛うじて生き残られた方の悲哀、死者に対する思いがまざまざと感じられる、ということを申し上げたかったのです。 拙いながらも、こうして偶然をまとめてみて、改めて茫然とする思いでいます。 参考とした資料です: 1. 澤木興道聞き書き 年譜、 酒井得元、 講談社学術文庫。 2. 敗残の記、 藤岡明義、 中公文庫他。 3. レイテ戦記 全3巻、 大岡昇平、 中公文庫。 <この書込みは、先の19時39分の投稿の書き損ないを訂正したものです。 恐れ入りますが、先の投稿とこの但し書きの削除をお願いします。 尚、特に『さすらい』の「間奏」(1番-「間奏」-2番)は素晴らしいの一言です。 投稿: 焼酎百代 2015年7月18日 土 22時16分 少し前に老人は悲しい歌、淋しい歌が好きです、という投稿がありましたが私もその例にもれません。 この歌に魅かれて何度も繰り返して聴いています。 この歌とともに父が思い出されます。 父と母は別居していて小さい頃私は時々父の家に遊びに行き父と一緒の布団で寝るのが楽しみでした。 父は布団の中でいつも戦争の話をしてくれていたのですがあるときパタリと話さなくなりました。 何度も「話して!」と要求したのですがだめでした。 父は支那のある町の警備隊長をしていて町を去るときその市長から贈られたという書が田舎の家の掛け軸にかけてあります。 達筆で何が書いてあるのか分かりませんがいつか解読してみたいと思っています。 スポーツマンで怖い存在の父を私は子供の頃ずっと超えられない壁と感じ、いつしか憎しみも感じ遠ざけていましたが、人づてに「戦争で友達は皆死んだんだから俺もいつ死んでも良いんだ」と呟いていたと聞き、また玄関に並べてある父の靴をみてずいぶんと小さいんだな、と感じその超えられない壁がガラガラとくずれて行くような気がしました。 父もこの曲を寂しく聞いていたのかも知れない、などど思って聴いています。 私も戦争の経験はないのに戦友の気持ちが乗り移ったかのように感じています。 本曲に焼酎様が二度続けて投稿されていますね。 お体の具合はどうでしょうか。 一章様もお元気でしょうか。 投稿: yoko 2019年3月10日 日 23時05分.

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小林旭 さすらい 歌詞

小林 旭 さすらい

映画は昭和35年(1960) 9月公開で、翌月にはレコードがコロムビアから発売され、大ヒットしました。 この歌には原曲があります。 太平洋戦争中、フィリピン・ルソン島に駐屯・転戦していた兵士たちの間で歌われていた『ギハロの浜辺』です。 ギハロ(Guijalo) は、ルソン島南東部の地名だそうです。 この歌は、いわゆる兵隊節の1つで、作詞者・作曲者は不明です。 歌詞もわかりませんが、メロディが寂しいことから、別れか兵隊生活の悲哀を歌った内容かもしれません。 兵隊節については、『』の蛇足をご覧ください。 南方から復員してきた教師が生徒に教え、その記録をもとに狛林正一が曲作りをし、西沢爽が歌詞をつけたということです。 詳しくは下記・考古学者さんのコメントご覧ください。 (二木紘三) 「さすらい」と「ギハロの浜辺」について調べていたところ下記の通り判明しました。 東京丸高会・過去のニュース に下記の記載がありました。 29 12月29日に放映されたNHKの「そして歌は誕生した」で、 小林旭の昭和35年のヒット曲「さすらい」の原曲を巡る秘話として、 丸高の故 山上正雄先生を中心とした物語が紹介されました。 さらに、渡三郎さん coolman 8107. net 主宰の「帰ってきた渡り鳥」のサイトのなかで、NHKの「そして歌は誕生した」の内容をまとめられていますので、こちらで要約・引用してご紹介します。 なお、このページには原曲の歌詞も紹介されています。 香川県の旧丸亀第一高校の英語の先生が生徒たちに歌って聞かせた「ギハロの浜辺」が「さすらい」になったというもの。 作詞:西沢爽/補作曲:狛林正一/採譜:植内要(にわうち かなめ)とあるが、植内要とは、当時コロムビアの文芸部長をしていた方のペンネーム。 学生時代、丸亀高校出身の友人が、丸亀高の英語の先生に聞かされていた哀愁あるメロディーを、寮の友人であった植内氏に採譜を依頼した。 植内氏は後に小林旭の歌に相応しいと思い、コロムビアの当時の名ディレクター・馬淵玄三氏に託した。 馬淵氏は作詞家の西沢氏に「深い陰影のある男の寂しさを表現する詩に変えて欲しい」と依頼した。 一方、丸亀の地元では別の教え子であった方が、瀬戸内海放送の番組制作時のBGMに相応しい曲を探しているうちに恩師に教わった「ギハロの浜辺」を思い出し、当時の音楽の先生に編曲を依頼した。 「ギハロの浜辺」はラジオ放送として流れた。 そして、その歌を戦地から持ち帰られた先生はカセットテープに録音。 これは先生の遺品として譜面と共に発見されてる。 「ギハロの浜辺」を持ち帰られた先生は大ヒット曲「さすらい」に生まれ変わっていたことも知らずに亡くなられたそうだ。 「ギハロの浜辺」は英語の先生がフィリピンの収容所に抑留されていた際に京都の第十六師団の将兵から聞いたものではないかと関係者が証言した。 先生の譜面の記録には、作詞 第十六師団将兵 作曲 大西嘉武とあった。 編曲は後の上記の音楽の先生の名前が記されていた。 投稿: 考古学者 2009年8月14日 金 19時38分 「ギハロの浜辺」についての考古学者さんのコメントと管理人さんに触発され、感じたことを書いてみます。 このコラムは最近、拝見するに至った偶然のほかに、2つのことを偶然に知ったことが重なっています。 このコラムを知った直後に偶然、澤木興道(さわき こうどう)老師1880年6月16日 -1965年12月21日)は日露戦役において、1904年(M37年)8月31日に首山堡の戦闘において口から喉に抜ける銃創を負われたのですが、当時は、津の歩兵第33聯隊の伍長でいらっしゃいました。 歩兵第33聯隊と言いますと、「ギハロの浜辺」歌詞に出てくる2つの地名のGuijalo(鄙びた港)とMayon (火山)はいずれも、Legazpi付近のものですので、 第16師団将兵の作詞とされていますが、1941年12月にLegazpi飛行場を占拠・使用するために同地に上陸した同師団歩兵第33聯隊にまつわる方の作であるように思われます。 一方、Sulu諸島の玉砕地Jolo島で停戦も知らずに飢えと寒さの中で山中をさまよい、現地住民の襲撃に僅かに生き残った80余名が来島した米軍に救出されたのが1945年9月下旬ですが、この時にJolo島生き残りの方が一時期収容されていたのがレイテ島パロ高地にあった収容所です。 ここは、1944年10月に米軍上陸後4日目に歩兵第33聯隊が軍旗を焼き玉砕した場所として、1945年当時から収容者にはよく知られていたと聞いています。 つまり、16師団全体としてはレイテ島でそのような過酷な状況で壊滅したのであり、16師団将兵であられた方全員としても、戦中・戦後に米軍に収容・救出された方はきわめて少なく(1000名程度?)と思われます。 まして、さらに歩兵第33聯隊がLegazpiに上陸した1941年当時から1946年以降まで生き抜かれた部隊の関係の方は、在比収容所の中でもごく少数であったと思われるのです。 以上のことを考え合わせて、「ギハロの浜辺」は、戦中に兵員の間で謡われたというよりも、むしろ、その悲しい曲調から、「異国の丘」同様に、収容所の中で作られ、謡われ、収容されていた方々の共感を得たことにより、内地にもたらされた曲ではないかと思えるのです。 また、歌詞の中で帆船のことをバラオとしているようですが、これはスペイン語のveleroのことと思います。 ヴェレロという音ですが、タガログ語などで言うビンタという言葉を使わずに、veleroを使われたところに、作詞者の方のお人なりが偲ばれます。 長くなりましたが、この曲の旋律と言葉には、はほぼ全滅した人間集団の中で、辛うじて生き残られた方の悲哀、死者に対する思いがまざまざと感じられる、ということを申し上げたかったのです。 拙いながらも、こうして偶然をまとめてみて、改めて茫然とする思いでいます。 参考とした資料です: 1. 澤木興道聞き書き 年譜、 酒井得元、 講談社学術文庫。 2. 敗残の記、 藤岡明義、 中公文庫他。 3. レイテ戦記 全3巻、 大岡昇平、 中公文庫。 <この書込みは、先の19時39分の投稿の書き損ないを訂正したものです。 恐れ入りますが、先の投稿とこの但し書きの削除をお願いします。 尚、特に『さすらい』の「間奏」(1番-「間奏」-2番)は素晴らしいの一言です。 投稿: 焼酎百代 2015年7月18日 土 22時16分 少し前に老人は悲しい歌、淋しい歌が好きです、という投稿がありましたが私もその例にもれません。 この歌に魅かれて何度も繰り返して聴いています。 この歌とともに父が思い出されます。 父と母は別居していて小さい頃私は時々父の家に遊びに行き父と一緒の布団で寝るのが楽しみでした。 父は布団の中でいつも戦争の話をしてくれていたのですがあるときパタリと話さなくなりました。 何度も「話して!」と要求したのですがだめでした。 父は支那のある町の警備隊長をしていて町を去るときその市長から贈られたという書が田舎の家の掛け軸にかけてあります。 達筆で何が書いてあるのか分かりませんがいつか解読してみたいと思っています。 スポーツマンで怖い存在の父を私は子供の頃ずっと超えられない壁と感じ、いつしか憎しみも感じ遠ざけていましたが、人づてに「戦争で友達は皆死んだんだから俺もいつ死んでも良いんだ」と呟いていたと聞き、また玄関に並べてある父の靴をみてずいぶんと小さいんだな、と感じその超えられない壁がガラガラとくずれて行くような気がしました。 父もこの曲を寂しく聞いていたのかも知れない、などど思って聴いています。 私も戦争の経験はないのに戦友の気持ちが乗り移ったかのように感じています。 本曲に焼酎様が二度続けて投稿されていますね。 お体の具合はどうでしょうか。 一章様もお元気でしょうか。 投稿: yoko 2019年3月10日 日 23時05分.

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