島倉 千代子 この世 の 花。 島倉千代子 花なら花らしく 歌詞&動画視聴

この世の花: 二木紘三のうた物語

島倉 千代子 この世 の 花

作詞:西條八十、作曲:万城目正、唄:島倉千代子 1 あかく咲く花 青い花 この世に咲く花 数々あれど 涙にぬれて つぼみのままに 散るは乙女の 初恋の花 2 想う人には 嫁がれず 想わぬ人の 言うまま気まま 悲しさこらえ 笑顔を見せて 散るもいじらし 初恋の花 3 君のみ胸に 黒髪を うずめた楽し 想い出月夜 よろこび去りて 涙は残る 夢は返らぬ 初恋の花 《蛇足》 昭和30年(1955) 3月に公開された松竹映画『この世の花』(穂積利昌監督) の主題歌で、島倉千代子のデビュー曲。 原作は、集英社の芸能月刊誌『明星』に連載された北條誠の長編小説。 最初にラジオ東京で連続ドラマ化され、大人気を博したので、松竹大船撮影所が映画化しました。 愛する人の子を宿しながら、偽りの結婚に身を委ねなければならなかった富豪の令嬢・久美子の悲恋物語です。 菊田一夫原作『君の名は』と並ぶ戦後メロドラマの傑作と言っていいでしょう。 好きな女性がほかの男性と結婚した場合、彼女は何らかの事情で「想う人」の私をあきらめ、やむをえず「想わぬ人」と結婚したのだと思いたいものですが、実際には結婚した相手が「想う人」だったというのが、この世のおおかたの真実です。 あなたの奥様もそうでしょう、たぶん。 ……いや、きっと。 (二木紘三) やっぱりいいですねー、この頃の歌。 特に万城目正さんの歌のリズミカルなところが大好きです。 私は、この歌が世に出た頃はまだ小学生でしたが、母親がえらく感動していたのを覚えています。 まだ戦前の歌手が健在で、美空ひばりが全盛期を迎えようかと言う時代でしたが、ラジオから流れてくる島倉千代子の、あのか細く透明感のある声が、子供心にもなんとも新鮮に感じましたね。 ところで二木先生の「蛇足」にはいつも感動と尊敬の念を抱いておりますが、この歌に関する限り、最後の部分の「あなたの奥様もそうでしょう、たぶん。 ……いや、きっと。 」というところがちょっと懐疑的にならざるを得ませんね~。 投稿: 佐野 2008年3月19日 水 19時54分 ちょうど高校3年生の頃、学校の帰りに滋賀県の長浜市で見た映画です島倉千代子さんが透明な声で歌うのに恋心を抱きました。 初々しかったですね。 私の妹と同級生でしたから随分と身近に感じていました。 長浜の町は、今は昔の面影はなく都会と変わらない店舗が並んでいますがこの唄が流行った頃は今のような不安な時代ではなく川にも滔々と水が流れ、琵琶湖にもたくさんの魚が住んでいました。 素朴な町でした。 固いボーロ、丁稚羊羹、さざれ石、そんなお菓子の甘みと一緒にあの目をキラキラと輝かせていた島倉さんを思い出します。 島倉さんも苦労に苦労を重ね最近では声に昔の透明さがなくなり、年をとる過酷さは特にk歌の方には厳しいですね。 「赤く咲く花青い花、花は色々あるけれど、」西条八十という方もすごい方ですね、一日にいくつ歌の詩作したのでしょうね。 そしてすべてが素晴らしい。 どの歌にも人としての深い情愛を感じますね。 投稿: 早崎日出太 2010年1月14日 木 16時32分 さる8日、島倉千代子さんがなくなりました。 熱心なファンではなく、ゆるやかなファンくらいですが、ひとつの時代の終わりを感じ、さびしく思いました。 「この世の花」が流行った時、私は小学校生でした。 家にテレビはなく、ラジオで聞いた記憶があります。 歌詞の意味もよくわからず、歌の題「この世の花」におどろおどろしいものを感じました。 対比表現として、「あの世の花」というのもあるのかな?あるとすれば、それは蓮の花以外何があるのか?とあらぬことを考えたりしました。 歌詞に「想う人には嫁がれず」とありますが、はたしてそれが、なげくようなことでしょうか、と思ったりします。 「想う人」といっしょになって、その人のイメージがどんどん変わっていくのを見るのも、そこそこつらいですよ。 「女房(亭主)にしたのがおおまちがい」(植木等の歌にありました)というケースもあるでしょう。 きれいな花は、その場でながめておしまいにするのがいいんですね。 家に持って帰ったら、しおれて枯れていく花の姿をみなくてはいけません。 きれいな花であればあるほど、摘んではいけません。 とはいうものの、それができれば、人生の達人です。 60過ぎてから、それがわかっても意味がない話なんですが・・。 「蛇足」のご意見、なるほどです、実際に結婚した人を「想う人」だったと考えることですね。 「山のあなたの空遠く」ではなく、「幸せは足元にありですね」。 なにか禅僧のお言葉のようでもあります。 ですが、古女房に対し、場合によっては結婚生活50年以上の方もいます、そういう考えをもちつづけるのも少々無理があると思います。 いや、まてよ、幸せを得ようと思ったら、少々無理な考え方を保持しなくてはいけないのでしょうね。 投稿: 越村 南 2013年11月 9日 土 14時12分 この歌は『越後獅子の唄』で戦後ヒットを飛ばした西條八十・万城目正コンビのヒット曲ということになるわけですが、昭和60年頃某民放で、この歌を映画化した『この世の花』(昭和30年公開松竹映画)のTV放映版を観たことがあります。 後年東宝の森繁久弥社長シリーズなどで妖艶なクラブママ役などを当たり役(はまり役)とした淡路恵子女史の可憐な乙女像が印象に残る作品でした。 この歌を唄った島倉千代子女史が後年(昭和59年頃)週刊誌で豊満なセミヌードを披露したのは衝撃的でした。 投稿: 焼酎百代 2015年11月13日 金 16時04分 今日初めてこの歌を開けて聴きました。 二木様のお説に純情をみつけましたが、女性の心はもっと複雑かもしれません。 初恋の人は容姿端麗、頭脳明晰、完璧に近い人です。 この人の欠点を見たくないためにあえて、結婚を避けるかもしれません。 一緒にいると息苦しいからです。 ところが離れていると切なくて恋しくて夫が情けなく見えて仕方がない。 結婚というものは難しいものですね。 奥様が時々ため息をついて涙ぐんでいたら、初恋の人を思っているのかもしれません。 憧れは幻なのに半世紀経っても払拭できないのです。 先日私は憧れの君に年賀状を書きました。 もう先が短いと思っての事です。 意外と心は冷静です。 投稿: ハコベの花 2016年1月 1日 金 23時41分 小学生の頃、正月になるとよく父が「おばさんの家に行こう」、と言って松江のおばさんの家に遊びに連れて行ってくれました。 私より一つ年上で、私より背も高く綺麗な女の子でした。 しかしいざ彼女に会うと話しかけることができず、いつも、会えた、という半端な満足感が残っただけでした。 大学卒業後は彼女に会う機会もありませんでした。 40数年ぶりですが、このたび、彼女に初めて年賀はがきを書きました。 彼女からは「懐かしい」、との返事を頂きました。 嬉しいです。 本当に嬉しいです。 島倉千代子さんの歌は大好きです。 特に、「逢いたいなァあの人に」の歌が好きです。 小生がまだ小っちゃかった頃、姉がいつもこの歌を歌っていたのをよく覚えています。 島倉千代子さんの数あるヒット曲、名曲の中でも特に「この世の花」が小生は一番好きです。 実は、最近ユーチューブで偶然、映画「この世の花」を観ました。 この映画を観て非常に驚きました!!ヒロイン役は何とあの淡路恵子さんだったんです。 淡路恵子さんと云えばちょっと妖艶で姉御肌の、小生の記憶では脇役的な役柄が多かった女優さんで、それほど印象に残る方ではなかったのです。 ところが「この世の花」では、あの「君の名は」の岸恵子さんも及ばない程、強烈に淡路恵子さんが心に残ってしまいました。 純情で、可憐で、どこか憂いを含んでいて、あの淡路恵子さんのイメージと全く違ってました(淡路恵子さん22~23歳頃の作品だと思います) 田中絹代さんや岸恵子さんなどはヒット作のイメージを引き継いで女優をやっておられましたが、淡路恵子さんはどしたんだろう!・・・なんて思ってしまいました。 また映画の挿入歌、島倉千代子さんのこの世の花のB面「おもいでの花」も初めて聴きました。 哀愁と可憐さを含んだ、島倉千代子さんにぴったりの、大変良い歌で、ヒットしなかったのが不思議です。 投稿: 60年代大好き人 2016年1月26日 火 18時12分 私はもの心着いた頃からお千代さんのファンです! この世の花の詩とは違い、思う人と一緒になりたくて駆け落ちをしました。 いろいろ有りましたが、今はどうにか幸せに暮らしております。 1994年島倉千代子40周年記念に発売された441曲を収録したCDを購入できた喜びと、はやる気持ちを抑え未だ16才の声で歌うお千代さんのこの世の花を聴いた時の感激は忘れません。 また2013年11月8日は東京にいる次男の結婚式に出席をしたのですが、終えて愛知県に帰るために乗った新幹線車内のテロップで島倉千代子さんの訃報を知りました。 息子の結婚記念日がお千代さんの命日になりました。 何か不思議な感じがします! 投稿: 芳勝 2017年10月22日 日 02時47分 私も小学生の時から島倉千代子さんのファンで来ました。 大ファンとまではいきませんでしたが、当時は美空ひばりさんの人気がすごく、でも私は歌い方の旨さとかよりも、島倉さんの女性的な声と歌いまわしというか、つまり真に女性的な優しさや可憐なものに、小学生ながら惹かれていたように記憶しています。 やがて地方都市新潟で学生として青春期を過ごした頃も、好みの子はやはりこのタイプでしたよ。 相手は成人したばかりの子が多かったですが、皆様もご存知のように、女の子というのは、そのくらいの若さで、島倉さんみたいなのが結局は、男の希望なんでしょうね。 初めて付き合った子も、数年後に結婚した家内も、同じくこの線でした。 人の好みは千差万別といいますが、やはり いいものはいい、というのが世の実態なんでしょうかね・・。 投稿: 福田 健治 2018年2月12日 月 16時08分 2012年ご投稿の relokun 様へ いつぞやのコメントではカウントダウンとかありましたが、お元気でご活躍でしょうか。 仰る通り、島倉千代子さんの「この世の花」、もう理屈抜きでGOOD ですね! それはなるほどプロ歌手の姿とはいえ、この世にあるべき女性としての理想を具現化したかの如く、我々男からすれば女とは斯くあるべし、また言い換えれば男の気を惹きたければ島倉さんのように見せかけるだけでなく、常にこれを念頭に置き行動すべし、ですよね。 されば恋は結ばれ世は幸福な男女で溢れ、「鎮魂歌」なんて無用の長物になってる筈なんですけどね。 ・・ 投稿: 福田 健治 2018年2月21日 水 00時52分 「この世の花」島倉千代子はある雑誌の対談で、この唄は私の運命を決めたと語っています! この松竹映画の主題歌はもともと初代コロンビアローズが吹き込む予定だったはずが、彼女のスケジュールの都合で映画の封切に間に合わず、その大役が自分に回ってきたそうで、しかもその話を聞いたのは後年のデビュー三十周年記念番組の収録中のスタジオだったそうです。 それを聞いたとたん、気が遠くなりそうだったと話しています。 また初レッスンを作曲家万城目正から受けた時、歌のへタな子だね!と叱られたと、そのころの想い出を語っています。 いずれにしてもこの唄は高音部に独特の哀愁の声を持つ島倉千代子のその声なくしては、ここまでの大ヒットにはならなかったのではないでしょうか! 昭和30年16才で吹き込んだ「この世の花」20代で吹き込んだ「哀愁のからまつ林」30代で吹き込んだ「涙の谷間に太陽を」40代で吹き込んだ「鳳仙花」そして昭和62年52才で吹き込んだ「人生いろいろ」など、昭和時代に数えきれないほどの曲を、アルバムをとおして私に聴かせてくれたお千代さんのその唄声はどれも絶品でした。 投稿: 芳勝 2019年1月24日 木 16時10分.

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この世の花

島倉 千代子 この世 の 花

略歴 [ ] デビュー以前 [ ] 1938年3月、品川区北品川にの父・島倉 壽雄 ( としお )、母・ナカの二男四女の四女として生まれる。 (7歳)、へ。 両親の実家があるにも半年間、疎開していた事がある。 井戸から水を運ぶ途中に転倒、水の入ったビンを割り、左手首からひじまでを負傷。 母・ナカが「女の子だから(腕を)残して欲しい」と医師に懇願し、切断は免れたが47針を縫い 、感覚も無く、動かすこともできなくなる(後に不自由ながらも動かすことができるようになる)。 この時のがのちに千代子が患ったの遠因となった。 気持ちの沈んだ千代子のために母・ナカは『』を聞かせるようになる。 後に『』で歌手デビューを遂げた千代子だが、『この世の花』の作曲は『リンゴの唄』の作曲と同じくによるもの。 (9歳)、東京に戻る。 姉の敏子は歌唱力があったがを患っていたために歌手にはなれなかった。 大好きな姉のために自分が歌手になると決意。 敏子により声楽を学び、近所の「若旦那楽団」に入団。 左手に負担の無いを担当。 歌唱力があったためボーカルにも起用されていた。 地元ので催されたのど自慢大会には毎回姉妹で参加していた。 3月、童謡『お山のお猿』がから発売される。 ただし(レコード会社の社員によるミスとされている)により「戸倉千代子」名義となってしまったため、「島倉千代子」のデビュー作とはならなかった。 1950年代 [ ] (15歳)、品川区のへ入学。 歌謡コンクールにも積極的に参加するようになる。 、全国歌謡コンクールで優勝し、同社と専属契約。 3月 (16歳)、本名「島倉千代子」で歌手デビュー。 デビュー曲『』(同名の映画の主題歌)は半年後に200万枚達成、人気歌手になる(後にテレビドラマでカバーされ、に同名の映画の2作目で再度カバーされる)。 1955年23曲、34曲、1957年37曲、1958年33曲と驚異的な速さで新曲を発表。 (19歳)、『』が150万枚のヒット。 映画化もされ、自ら主演する。 この年初めてに初出場(曲目は『逢いたいなァあの人に』。 その後、1976年、1979年にも歌唱)、1歳年長で憧れのと競演してその後生涯にわたり実妹のように可愛がられるようになる。 当時大卒サラリーマンの給料が1万円であったが、千代子は常に財布に2千円入っていた。 この年の3月、島倉を殺害しようとした16歳の無職少年が逮捕される。 (20歳)、(北品川の隣町)に一戸建てを購入。 同年には『』が130万枚のヒットとなった。 1960年代 [ ] 島倉千代子の墓碑の背面 (22歳)、美空ひばりと一緒に『つばなの小径・白い小ゆびの歌』を発表。 同年、ひばりを抑えて初めて紅白の紅組トリを務める(1960年から1962年、1973年から1975年の計6回に渡り紅組トリを務める。 1975年は唯一の大トリ)。 (23歳)、ファンの投げたテープが両目に当たって失明の危機に陥る。 このとき、品川区「守屋眼科」の医師・守屋義人の助けでを回復。 (24歳)、何者かによって後援会事務所に爆発物が送りつけられ、負傷者が出る()。 (25歳)、父・壽雄が他界。 悲しみにくれる中、支えてくれた元のと母親の反対を押し切り結婚。 結婚前に妊娠したが中絶、結婚後も二子をもうけたが中絶した。 後年、この三人の子を合わせて「忍」と名付け、その名を小さな地蔵に付けて肌身離さず持ち歩いた。 忍の名は、島倉の墓碑にも千代子と並んで刻まれている。 (30歳)、「泣き節」を売り物としていた彼女にとり異色の作品である『』が幅広い世代の間でヒット。 この曲で・特別賞をと共に受賞。 すれ違いの多い生活により別居を経て離婚。 家族の元に戻るも反対を押し切って結婚したために門前払いされ、自分だけの戸籍を作る。 1970年代 [ ] (34歳)、母・ナカがにより他界。 (37歳)、以前かかった眼科医に頼まれを貸してしまう。 その知人だけではなく、島倉が知らない間にマネージャーや全く面識のない赤の他人まで多数の人々のにされてしまう。 島倉を保証人に借金を重ねた人々はその後行方不明になり、その借金が雪だるま式に膨らんでいき当時総額16億円といわれた莫大な借金を抱える。 後に美空ひばりから「実印は貸すな」と注意を受けたという(ひばり自身も実印を押してしまった経験を持つため)。 (39歳)、今度は島倉に信頼され、島倉にのをさせていた守屋義人が事業に失敗して、手形を出し蒸発。 島倉は借金の連帯保証人にされ、これにより更に2億4000万円(当時判明分)の債務を負う。 20億近くもの莫大な借金返済のため、写真集の発売や全国各地の回りや地方興行などをしながら、足掛け7年程で完済した。 このような活動をしている最中でも島倉の人気は全く衰えを知らず、NHK紅白歌合戦の連続出場記録は続く。 1980年代 [ ] (46歳)、歌手生活30周年を迎える。 (48歳)、で紅白歌合戦への30年連続30回出場を達成。 当時の紅白史上最多記録だった。 (49歳)、『』を発表。 出場辞退表明の記者会見で若手記者から「結局、落選するのが怖かったということですか」と辛辣な質問をされ、「その通りです」と返答した。 『紅白50回』のインタビューで本人は「辞退は前年の時点で決めており、前回身に纏った白色の着物はその表れだった」「ここ数年紅白に出られるか出られないかで不安だった。 もし落選したらショックで歌えなくなると思った。 そのため、余力のあるうちに辞退しようと思った」と語った。 島倉は出場辞退をこの年発売の『人生いろいろ』の作曲者で当時療養中のに報告したところ、「紅白で『人生いろいろ』が聞けないのか」と返されたことを明かしている。 (50歳)、『人生いろいろ』が前1987年からこの年にかけて130万枚の大ヒットを記録。 当時の人気バラエティー番組「」でのやによるをきっかけに『人生いろいろ』が若者にも受け、再びブレークする。 同年ので最優秀歌唱賞を受賞。 100万枚記念パーティーでは、山田とコロッケが本人の目の前で、島倉の物真似による『人生いろいろ』を歌唱。 これに対し島倉は、「山田邦子さんとコロッケさんのおかげで、『人生いろいろ』が若い方にも親しまれるようになり、光栄です」と二人を賞賛する。 同年末のに2年ぶり31回目の復帰出場となる。 この復帰出場に対しては「一度降りたのに」と批判の声も上がった。 出演を決めた背景には当時療養中だった浜口 に「歌う姿を見て元気になって貰いたい」との思いがあったためである。 借金返済の目処がたつ。 姉の敏子がで投身自殺。 6月(51歳)、美空ひばりが52歳の若さでによるで他界。 自身の後援会で愛知県に滞在中に訃報を聞いた島倉はその後のスケジュールを切り上げて目黒区のひばり邸に駆けつけ、息子のに頼み3日間ひばりのそばに張り付いて離れなかったという。 1990年代 [ ] (55歳)、初期のであることが判明。 芸能人で会見を開き、自ら癌であることを発表したのは島倉が初めてだった。 手術は成功する。 ライブハウスなど歌謡曲の枠をはみ出して活動。 (61歳)、歌手生活45周年を迎える。 45周年コンサートではタキシードで全国を廻る。 賞を受賞。 同年、を受章した。 2000年代 [ ] 初頭 65歳 に、慢性肝炎の進行とストレスにより声が出づらくなる傾向に陥ったため、この頃を境に晩年は歌唱曲のキーを下げるなどした。 治療と並行しつつも精力的に仕事をこなす。 (66歳)、歌手生活50周年を迎える。 に生涯最後となった35回目の出場を果たした(当時の紅組史上最多記録)。 (69歳)、事務所のスタッフに資産を奪われ再び多額の借金を抱える。 同じ過ちを犯すのは自分のせいと責任を感じ、自らの誕生日に事務所を解散。 しかし周りの協力により心機一転スタートすることになり、経理も全部自分でやるためにを勉強。 同年、映画『ララ、歌は 中山晋平物語』にナレーターとして出演し、の世界を表現した。 またから機種『CR島倉千代子の千代姫七変化』が発表され、全国のパチンコ店に導入された。 (70歳)、『人生いろいろ』が出身地である品川区ののに採用される。 このニュースを聞きつけた島倉自身が、翌2009年1月に青物横丁駅を訪れて実際に流れるメロディに耳を傾けた。 後日、京浜急行電鉄に宛てて礼状を改めて送付したという。 (71歳)、歌手生活55周年を迎える。 この頃、を本拠地として九州各地で営業するリフォーム会社・野田建工のテレビコマーシャルに着物姿で出演していた。 なお、野田建工は求人雑誌に大きなカラー広告を多く掲載しており、島倉の写真を求人情報誌で見ることができた。 2010年代・死去 [ ] 東海寺の墓碑。 後ろにはが植えられている 持病の慢性肝炎が進行していた中で12月にを発症したことが判明、手術・入退院を繰り返していた。 肝臓癌発症はごく少数の関係者にしか打ち明けていなかった。 その間、3度の肝動脈塞栓術を受けたが、前半にはに至っていた。 同年3月30日、75歳の誕生日にはコロムビアレコードの100周年を記念し復活したイベント「コロムビア大行進2013」に出演し、数千人の聴衆を前にトークを交えながら『人生いろいろ』など数曲を歌った。 同年5月から仕事をセーブするようになり、同年6月21日、宮崎県延岡市で開催したコンサートが生涯最後のステージとなった。 同年6月、「」の取材を受けた(生涯最後のテレビ取材となった)。 同年9月14日にブログを更新した(最後の更新)。 同年10月中旬に一時退院、のデビュー60周年に向け復帰への意欲は衰えず、死去3日前の2013年11月5日に自宅で記念曲『』を録音した。 レコーディングは当初、11月15日に行う予定だったが、島倉自身から「その日まで待てない」と関係者に連絡を入れて11月5日に急遽吹き込みが行われた。 同曲の作曲を担当し、レコーディングにも立ち会ったは「(島倉の具合から)1回位しか歌えないかと思ったが、3回も歌われた。 奇跡の歌声だった」と語った。 11月6日、「体調が悪いので来てほしい」と自宅からスタッフに電話してのに再入院。 入院先から島倉本人が南こうせつへ電話をかけ、感謝の意を伝えたという。 翌々日の2013年11月8日朝に容体が急変。 午後、東京共済病院の病室にて所属事務所の女性スタッフに看取られ、眠るように息を引き取った。 死因は肝臓がんだった。 満75歳没(76)。 周囲の関係者にはあらかじめ、通夜は密葬とし、香典は断るように伝えていた。 島倉の訃報を受けて・ を始め、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 など島倉を敬愛していた後輩の演歌歌手達、また 、 らものまねタレントも追悼のコメントをそれぞれ発表した。 島倉の死去から6日後の2013年、葬儀がので営まれた。 会場には、『からたちの小径』の録音後に涙声で次の言葉を語る、島倉の生涯最後となる肉声テープが流された。 「私の部屋の中にスタジオができて、そこで私はできる限りの声で歌いました。 自分の人生の最後に、二度と見られない風景を見せて頂きながら歌を入れられるって、こんな幸せはありませんでした。 人生の最後に素晴らしい時間をありがとうございました」 また告別式では、島倉に憧れて演歌歌手となったが代表として「本当に寂しいです。 もっともっと、お元気で歌っていて欲しかった。 優しく、時に厳しく、叱ってくれる人が、居なくなってしまいました…」「これからも、私達後輩を、空高くから見守っていて下さい」と、涙で時折言葉を詰まらせながら弔辞を読んだ。 『からたちの小径』はにあたる12月18日に発売された。 同曲はとなったが、「来年発売の記念CDボックスに入れたい」と関係者は語っていた。 同年のでは石川の『』の歌唱前に島倉の追悼コーナーが設けられた。 当初、番組側は石川に島倉の持ち歌である『東京だョおっ母さん』や『人生いろいろ』の歌唱を要請していたが、石川が「島倉さんとは親しいですが、都はるみさんや五木ひろしさんなど、自分よりも仲の良かった先輩歌手がいるのに、そんな出しゃばった真似はできない」とその打診を断ったとされる。 戒名は寳婕院千代歌愛大姉。 故郷・北品川の大山墓地に生前に建てていた墓に眠る。 エピソード [ ] 島倉千代子と地方との結びつき [ ] 島倉は、地方小唄や音頭といったを数多くレコードに吹き込んでいた。 それらの中には、『小唄』『まつり音頭』『七夕おどり』など地元の人以外にも広く親しまれ、全国的によく知られた歌もある。 それぞれの地元では、大スターである島倉がレコードに吹き込んだこともあって、親しまれている場合が多い。 当時の音源を祭りの際に使用し続けているところもある。 また、仙台市の『』(のカバー)や、大阪市の『小鳥が来る街』などといった、地方の愛唱歌の類もレコードに吹き込んでいる。 また、民謡で『の粉ひき節』『』『』などをレコードに吹き込み、ヒットさせている。 美空ひばりとの秘話 [ ] 7歳の時の怪我で左手が不自由になって以来、引きこもりがちとなった島倉には友達が一人もいなかった。 そんな彼女が夢中になったのが1歳年長のである。 アルバイトをしてはひばりのコンサートに行く、となった。 1953年の落選を経て、1954年憧れのひばりが所属するコロムビアレコードのコンクールに合格。 しかし既に大スターだったひばりにはなかなか会えなかった。 1961年、それまではひばりが不動の1位だった雑誌『』のファン投票で島倉が1位となってからは、ますますひばりに会う機会が失われていく。 「ひばりさんが出る番組には島倉は出られない。 という空気が築かれていた」と島倉自身が語っている。 周囲の仲間たちがひばりと交友関係を築いた後も、島倉はひばりとは歌番組などの仕事で共演はしてもプライベートでは交流することはなかった。 両者とも親しかったは島倉に「今度、一緒にひばりさんに会おう」と誘ったが「恐れ多くて…」と遠慮していたという。 1984年2月2日、長年憧れながらもひばりとの距離が縮められずにいた島倉に思わぬ出来事が起こる。 コロムビアレコード主催で島倉のデビュー30周年記念パーティーに今まで一度も飛び入り出演をしたことがなかったひばりが島倉やコロムビアレコードの役員や関係者などに一切連絡もなく島倉に手渡す花束を持参して一人でパーティー会場へ突如やってきたのである。 驚きと嬉しさで涙が止まらない島倉にひばりは「これからは人に騙されない人生を送って欲しい。 私は実印は絶対離しません」と述べ会場の笑いをとっていた。 その頃、ひばりは自身を深く理解してくれる家族を相次いで亡くしており、今一番に自身を理解できるのは妹分の島倉かもしれないと考えていたという。 2人には共通点が多々あったからである。 同学年で若くしてスターになり、ファンに塩酸をかけられ負傷したひばりとファンが投げたテープがあたり失明の危機に陥った島倉。 離婚経験、金銭トラブル、家族の死、そして歌への熱意。 翌年の3月3日毎年極親しい女友達だけを集め美空ひばり邸で行われる「ひな祭り」に島倉は初めて参加する。 その時ひばりに頼んで書いて貰ったサイン色紙には「舞う鳥も私と同じこの世にも生きてこそあれ歌ひとすじ一筋の道」という短歌が書かれており島倉の宝物となった。 1987年夏、ひばりが病気で福岡の病院に入院した直後に島倉が「面会謝絶は重々承知の上で、ひばり姉さんに逢えなくても病室の前を一目見るだけでいいから直ぐにでも駆けつけたい。 」とひばり本人やコロムビアレコード役員などの関係者に直訴したところ直ぐ様「お千代なら来てもいいわよ」とひばりが了解して即見舞いに訪れた。 島倉本人は大変緊張しながら「ひばり姉さんを励ますつもり」で病室に入ったら、病室のひばりが「お千代、良く来たわね」と生来の明るさで島倉を迎え、「お千代が来てくれたから鍋焼きうどん(島倉の好物)の出前でも取って食べよう」と食欲がなかったのにも関わらず完食したそうで病人とは思えない元気さを島倉の前に見せた。 そのひばりの姿に「私が励ますつもりで行ったのに、逆に私の方がひばり姉さんに励まされちゃって…… こっちの方が恐縮でした」と後にテレビのインタビューで語っていた。 島倉が紅白出場辞退をした際、ひばりから「お千代、(辞退したことに)後悔はない? ここからが見せどころよ」とアドバイスを受けたという。 晩年、闘病生活を送っていたひばりはどんなに親交の深い芸能界の友人、親友などが見舞いに訪れても、プライベートでも実妹のように大変可愛がっていた島倉と以外の面会は拒否していたとされる。 声優 [ ] 、『』内アニメ『』(「歌は心・人生いろいろ」の巻)において、本人役で自身初のに挑戦。 この回のストーリーはまる子の祖母・こたけからの「病に倒れた友人に一目会ってあげてほしい」という手紙を受け取り、変装をして清水にやってくるという設定だった。 挿入歌として「からたち日記」(1番を(無伴奏)で歌うシーンもある)、エンディングテーマには「人生いろいろ」が起用された。 、DVDとして発売されている。 その他 [ ]• 59年間の歌手生活において、ステージで一度もはしなかった。 人を疑わない性格のため多くの人に「騙された」「裏切られた」と言われる島倉に対し作詞家は「その分、騙した人の数の何倍もの音楽関係者、芸能関係者が彼女を助けてきた」と語った。 なかにしは彼女の代表曲のひとつである「愛のさざなみ」を作詞している。 結婚後ミリオンから遠のき、離婚により暗いイメージがつきかけた島倉のために作ったこの異色の曲は久々のミリオンとなった。 横文字が苦手で『』に出演した際、正解発表前の言葉「 ファイナルアンサー」が言えず、代わりに「 おしまいアンサー」と言っていた。 『』への出場経験も有しているが、結果は「鐘一つ」に終わったとされている• よりの当時 荻野拓海が島倉千代子の歌を継承し として活動を開始。 兄弟 島倉は八人兄弟で姉二人が一歳、六歳で逝去している。 弟二人は俳優デビューしたものの引退や作詞家に転身した。 NHK紅白歌合戦出場歴 [ ] 1957年(第8回)の初出場以来、1986年(第37回)まで紅白史上初の30回連続出場を達成。 1987年(第38回)は一旦出場辞退したが、「人生いろいろ」で久々のヒットを記録したことを背景に、1988年(第39回)へ2年ぶりに復帰出場。 1994年(第45回)には「紅白歌合戦45回の歴史を象徴する歌手」として6年ぶりのカムバックを果たし、1996年(第47回)まで3年連続して出場した。 2004年(第55回)に「紅白歌合戦に出場してほしい歌手」アンケートで上位歌手15組の中に入ったことから、8年ぶり通算35回目の出場で66歳の当時の紅組最年長出場となったが、これが生涯最後の出場となった。 通算出場回数では、1973年(第24回)に17回目の出場を果たして以降 、白組歌手・が1998年(第49回)で通算35回目の出場を果たし、島倉の記録を追い越すまで20年以上もの間歴代第1位の記録を保持していた。 さらに女性歌手では、同じく1973年(第24回)以降、2012年(第62回)にが36回目の出場を果たすまで、39年もの間島倉が史上最多出場記録を保持していた。 1960年(第11回)では、それまで3年連続で大トリを務めていた美空ひばりを抑えて初めて紅組トリを務め、1962年(第13回)まで3年連続で紅組トリを担当した。 その後はひばりが10年連続でトリを務めたが(島倉は中盤に固定されていた)、1973年(第24回)にひばりが落選すると再び紅組トリに返り咲き、1975年(第26回)まで3年連続で紅組トリを務めた(1975年は唯一の大トリ)。 紅組において通算トリ回数6回という記録は、美空ひばり(13回)、石川さゆり(8回)、和田アキ子(7回)に次ぎ、歴代4位である。 また、3年連続トリという記録も、上述したひばりの10年連続に次ぐ記録である。 対戦相手の歌手名の 内の数字は、その歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある はトリ等を務めた回数を表す。 前半トリとは1990年以降の紅白において、前半戦(ニュース中断まで)で両軍の締めくくりを務めたことを指す。 音楽作品 [ ] 多くの楽曲を発表しており(およそ2,000曲)、委託制作版や当時のアルバムにしか入っていない曲もあるため、持ち歌の数を正確に数えるのは困難である。 シングル [ ] 全て日本コロムビア発売。 発売日 品番 売上枚数 曲順 曲目 作詞 作曲 編曲 備考 1950年代 [ ] 1955年 A-2229 200万枚 A 西条八十 万城目正 松尾健司 デビュー曲、同名の映画の主題歌。 3月臨発 A-2250 A 乙女船 丘灯至夫 米山正夫 B 別れの夜船 西沢爽 田村しげる 9月 A-2373 130万枚 A りんどう峠 西條八十 古賀政男 B 布良(めら)の娘 A- お役者がらす 西條八十 上原げんと 片面は、中村錦之助の「やくざ若衆」。 11月1日 A- A おもいでの花 西條八十 万城目正 B 浪花の雨 1956年 A-2412 A 温泉(いでゆ)の姉妹 丘十四夫 古賀政男 片面は、青木光一「都に花の散る夜は」。 2月 A-2457 A 山のけむりよ、いつまでも 西條八十 宮川まこと 西出次郎 B 母恋い京人形 奥野椰子夫 川端正章 A- A さすらいの花 西條八十 万城目正 B 夕月子守唄 8月 A- A さすらいの浜辺 西條八十 万城目正 A-2504 A 東京の人さようなら 石本美由起 竹岡信幸 片面は、青木光一「ふるさとの駅」。 12月 A- 120万枚 A 逢いたいなァあの人に 石本美由起 上原げんと 紅白初出場曲。 B 東京のお兄さん 12月10日 A- A この世の花 西条八十 万城目正 松尾健司 B おもいでの花 1957年 1月1日 A- A 花嫁峠 西條八十 船村徹 B 山の分教場 丘灯至夫 1月 A-2583 A 乙女流しは寂しいね 高野公男 船村徹 片面は、青木光一の「早く帰ってコ」。 1月 A-2680 A 青い潮(牧場の姫百合) 西條八十 万城目正 B 青い潮(青い潮に夢乗せる) 長谷川公之 A- A 日本橋から 浜田広介 古賀政男 片面は、青木光一の「東京娘」。 3月15日 A- A 逢いたいなァあの人に 石本美由起 上原げんと B りんどう峠 西條八十 古賀政男 6月1日 ASS-296 A 永遠に答えず 西沢爽 古賀政男 片面は、霧島昇「愛情一路」。 6月15日 A-2710 150万枚 A 野村俊夫 船村徹 発売当時はセリフなし。 B 5月 A-2828 A 初恋の人さようなら 西沢爽 古賀政男 B あの人は優しかった 石本美由起 上原げんと AK-573 A 祇園まつり音頭 とのデュエット。 ので今でも流れる。 B 長刀鉾祇園囃子 A-2907 A 忘れ得ぬ人 石本美由起 上原げんと B 街に咲く花 1958年 A-2934 A お別れ波止場 西沢爽 船村徹 片面は、神戸一郎「男の哀愁」。 3月1日 A-2986 60万枚 A 思い出さん今日は 星野哲郎 古賀政男 片面は、神戸一郎「港のギター」。 A-3052 A 北京の小鳥売り 野村俊夫 竹岡信幸 若木みのる B あの人いつ来るかしら 5月15日 SA-93 A 島原の子守唄 宮崎一章 B 岳の新太郎さん 佐賀県民謡 SA-110 A 祇園小唄(春・夏) 長田幹彦 佐々紅華 松尾健司 B 祇園小唄(秋・冬) SA-148 130万枚 A 西沢爽 遠藤実 牧野昭一 セリフ入りの歌は売れないというジンクスがあったが、大ヒットした。 B 待ち呆けさん 1959年 SA- あなたと別れて 岡田銕夫 上原げんと 雑誌「平凡」募集当選歌。 片面は、神戸一郎「君に逢いたくて」。 SA-159 A さよなら地蔵さん SA- 70万枚 A 海鳴りの聞こえる町 6月15日 SA-205 60万枚 A おもいで日記 西沢爽 遠藤実 台詞が話題になった。 B 風ッ子さんどこの子サ 春生香織 SA-270 60万枚 A 哀愁のからまつ林 西沢爽 船村徹 片面は、神戸一郎「青い落葉の街」。 SA-297 白い小ゆびの歌 関沢新一 古賀政男 片面は、「つばなの小径」。 1960年代 [ ] 1960年 2月20日 SA-300 A 日本よいとこ 村田英雄、花村菊江、五月みどり、岡田ゆり子と。 片面は、「ニコニコ踊り」。 3月 SA-338 A 白樺物語 谷真木彦 遠藤実 泊林正一 雑誌「平凡」当選懸賞作詞曲。 片面は大野一夫の「人生峠」。 SA- A 他国の雨 の「涙のグラス」の歌詞を変えて吹き込まれたもの。 B 初恋の丘 SA-402 A 遠い人 北条誠 船村徹 B 紫いろの夢 星野哲郎 SA-432 70万枚 A 花散る下田 同名歌舞伎まつり主題歌。 片面は、守屋浩「風そよぐ丘」。 SA- A 炭坑(やま)の子守唄 SA-447 A 哀愁の信濃路 星野哲郎 上原げんと B 雨降り峠 西沢爽 船村徹 SA-479 A マツリカの花言葉 星野哲郎 古賀政男 B 銀杏が星に恋をした 内藤京 1961年 SA-514 泣きべそ電話 片面は、の「さよなら電報」。 2月5日 SA-531 A 日本晴れだよ B お手をつないで SA-605 A かるかやの丘 B 小島の母灯台 10月1日 SA-722 A 十国峠の白い花 石本美由起 宮田東峰 B 里の夕焼 船村徹 11月1日 SA-736 80万枚 A 恋しているんだもん 西沢爽 市川昭介 島倉の口癖をアイデアに作詞。 B サフランの旅愁 12月20日 SA-788 100万枚 A 夕月 菊田一夫 古関裕而 島倉の主演ドラマの主題歌。 片面は中山千夏は「ハモニカ小僧」。 SA-792 A 君は東京へ帰る人 第13回コロムビア全国歌謡課題曲。 片面は、佐賀次郎の「湯の町流し」。 SA-811 日本一だよ 西条八十 古賀政男 村田英雄とデュエット。 片面は、花村菊江・中尾の「仲良し音頭」。 5月5日 SA-824 100万枚 A 丘灯至夫 遠藤実 山路進一 B との(1974年)は同名異曲である。 1962年 SA-833 A お顔みたいな逢いたいな B 哀愁岬 4月20日 SA-837 A 祭の夜は 関沢新一 遠藤実 B 裏町の唄 SA-872 A 愛と死のかたみ 山口久代 船村徹 B なみだの福音 星野哲郎 6月1日 SA- A お早よう青空さん 星野哲郎 古賀政男 B 雨の坂道 石本美由起 7月1日 SA- A 明日もきっといいことが 西沢爽 船村徹 B コスモスの駅 石本美由起 竹岡信幸 7月20日 SA-916 A 郡上恋しや 藤江英輔 藤江英輔 片面は、唐品由美の「恋の八丈椿」。 7月5日 SA-936 A 七夕おどり 丘灯至夫 遠藤実 を歌った曲で、現在も会場周辺で流れ、盆踊りの定番曲として仙台市民に親しまれている。 片面は、フォーク・ダンス用に唄なし。 8月1日 SA- A 大阪のお母さん 星野哲郎 船村徹 B 加茂川 七浦渚 10月1日 SA-950 A 別れるときは死ぬときよ 西沢爽 市川昭介 B さよならとさよなら 10月1日 SA- A 恋ゆえの花 関沢新一 古賀政男 B 小っちゃな幸せの歌 10月1日 SA- A 愛の悲しさ 道下きく絵 船村徹 B 女ごころの片瀨波 高木順子 1963年 1月1日 SA- A 愛のうず潮 西沢爽 船村徹 片面は、北島三郎の「亜矢子の唄」。 1月1日 SA- A あなたに私に雨が降る 鳥羽俊三 髙木東六 B 砂山のひぐれ 宮中雲子 2月1日 SA-1049 A 愛情 丘灯至夫 万城目正 B 一人ぽっちになっちゃった 関沢新一 山路進一 SA-1052 A あの橋の畔で 菊田一夫 古関裕而 松竹の同名映画の主題歌。 B 海を遙かな 3月20日 SA-1064 A 雨の降る日の午後でした 久米行雄 服部克久 片面は、コロムビア・ローズの「夜が泣かせる」。 SA-1115 A 大阪音頭 のデュエット。 片面は、大阪繁昌ぶし。 4月5日 A 北九州盆唄 片面は、村田英雄の「くろい太陽」。 5月1日 A むらさきの慕情 西沢爽 古賀政男 B あわれ君ゆえに SA-3107 A 祭り酒 西條八十 古賀政男 とのデュエット。 片面は、古賀沢小志寿と二葉あき子の「幻抱いて」。 SAS-48 A わかれ渚 石本美由起 遠藤実 B 二人だけの砂丘 9月1日 SAS- A 花散りぬ 西沢爽 古関裕而 B せせらぎの唄 9月1日 SAS-125 70万枚 A 星空に両手を 西沢爽 神津善行 とのデュエット。 B かなしみの歌 11月1日 SAS-140 A 武蔵野エレジー 嵯峨哲平 遠藤実 B 未練の雨 西沢爽 SAS-167 A いつもふたりは 星野哲郎 山路進一 B ありがとうお母さん 1964年 SAS-237 A ふたりだけの太陽 西沢爽 市川昭介 松竹の同名映画の主題歌。 B いまのまんまでいいんじゃな SAS-250 A 星影のエアー・ポート B おもかげ岬 SAS-296 A 舞すがた 西沢爽 船村徹 B 夕顔 高月ことば 3月5日 SAS-200 A ニッポン音頭 西條八十 古賀政男 片面は、「さあさ踊ろよ」。 4月20日 A 石竹の歌 安部幸子 宮田東峰 片面は、三鷹淳の「僕の恋人」。 7月1日 A 愛するゆえに 結束信二 市川昭介 B 女はいつも 西沢爽 7月20日 SA-1148 A 四季の新津 箱岩周平 B 新潟音頭 野村俊夫 上原げんと A 下田の千鳥 奥野椰子夫 平川英夫 片面は、中島孝「花の森蘭丸」。 SAS-337 A 雪国 西沢爽 船村徹 B 愛のくもり空 小島胡秋 遠藤実 SAS-355 小鳥が来る街 西沢爽 市川昭介 片面は、舟木一夫「青春の大阪」。 9月20日 B 心ブラブラリはエヽヤナイカ 北原謙二とのデュエット。 片面は、養田勝彦の「大阪スーベニア」。 12月1日 SAS-383 A ゴンシャン紅帯 野村俊夫 下川博美 B あなたの手紙 SAS-394 A 恋人さん 西沢爽 土田啓四郎 B 花のワルツ 船村徹 1965年 2月1日 SAS-417 A 旅ははてなく 石本美由起 遠藤実 B 花のゆくえ 門田ゆたか 古賀政男 5月1日 SAS-450 A 夜道は一人じゃ帰れない B ふたりの虹 SAS-543 A つぎの世もあなたと 西沢爽 土田啓四郎 B 花咲く平野 12月1日 SAS-626 A 佐藤惣之助 古賀政男 同名NTVテレビ映画主題歌。 戦前に&二葉あき子が歌ったものをカバー。 B サトウハチロー 1966年 2月1日 SAS- A まわり道 B 赤いキャンドル 4月 SAS-681 60万枚 A 岩谷時子 土田啓四郎 B 西沢爽 和田香苗 5月1日 SAS- A 小雨の陸橋 B 愛して恋して夢を見て 7月 SAS-735 A クラブがはねたら B 赤坂の月 10月1日 SAS-786 50万枚 A 涙の谷間に太陽を 西沢爽 和田香苗 B 愛の星空 戸塚三博 12月1日 SAS-805 A そっとおしえて 吉田央 いずみたく B しのび逢う人 西沢爽 和田香苗 1967年 2月1日 SAS-837 A 哀しみの川のほとりに 西沢爽 和田香苗 B ああ室戸岬 石本美由起 平川英夫 5月1日 SAS-893 A 永遠に答えず 西沢爽 古賀政男 B 涙の十字架 6月1日 SAS-903 A 二人が好きになった夜 B 風の足あと 7月1日 SAS-914 50万枚 A ほれているのに くるみ広彰 くるみ敏弘 B アモーレ東京 7月1日 SAS-936 A 星より遠く別れても 西沢爽 河村利夫 同名NTVテレビ映画主題歌。 B その人の名をいえない 10月1日 SAS- A 女の慕情 B 女のレピート 11月1日 SAS-1015 A 大阪夜曲 西沢爽 山本丈晴 戸塚三博 B バラ色の風に乗って 土田啓四郎 1968年 SAS-1026 A 女の幸せ 白鳥朝詠 宮田東峰 B こころの湖 4月1日 SAS- A 私を忘れて 滝口暉子 和田香苗 B 真白い東京 西沢爽 狛林正一 4月1日 SAS-1078 A いのちある限り 伊田順 山本丈晴 B 夕映えの想い出 4月25日 SAS-1099 A 道博音頭 高柳公 三浦康照(補) 山下丈晴 佐伯亮 片面は、赤坂小梅の「北海音頭」。 6月1日 SAS-1114 A 今日からは二人 西沢爽 和田香苗 B 泣きませぬ 中村メイコ 神津善行 7月1日 SAS-1138 A なかにし礼 初ランクインの曲で最高位20位。 の助言により、バックの音は海外でレコーディングされた。 1992年に、2001年にがカバー。 1998年9月20日のカーネーションのライブ(渋谷クラブクアトロ)にゲスト出演し、同曲を歌っている。 B 浜口庫之助 11月 SAS- A 慕情はかなく 高峰雄作 市川昭介 B そっと愛して 石本美由起 竹岡信幸 12月1日 SAS-1230 A わかれ 和田香苗 小谷充 第1回古賀賞優勝曲。 B 涙をあげる 西沢爽 和田香苗 1969年 SAS-1247 日本うれしや 西沢爽 市川昭介 片面は、青山和子・大下八郎「ふるさと囃子」。 4月1日 SAS-1248 A 捧げる愛は 橋本淳 筒美京平 B 涙きざんで 7月1日 SAS-1300 A あの波の果てまで 大林清 船村徹 B 愛は涙にぬれて 横井弘 8月1日 SAS-1319 A 花のいのり 滝口暉子 和田香苗 B 忘れないで札幌 和田香苗 8月1日 SAS-1332 A ふるさとの子守唄 横井弘 河村利夫 B 乙女妻 10月1日 SAS-1348 A 天使が空を通る時 吉岡治 和田香苗 B 木屋町の夜 12月10日 SAS-1358 70万枚 A すみだ川 佐藤惣之助 山田栄一 山路進一 戦前のの代表作をカバー。 B 築地明石町 藤田まさと 長津義司 東海林太郎のカバー。 1970年代 [ ] 1970年 1月1日 SAS-1377 A 哀愁の湖 渡辺優美子 和田香苗 B 雨にうたれて あやのかつみ 3月1日 SAS-1388 A この愛が終るなんて みやもり純 中村泰士 山本幸三郎 B 誰かがやきもちやくかしら 時令二 7月1日 SAS-1428 A 柿の木坂の家 石本美由起 船村徹 B 雨の湯島天神 和田香苗 9月1日 SAS-1448 A 美しきは女の旅路 橋本淳 三木たかし B おんなの子守唄 1971年 SAS-1485 A 願いが、もしも 石本美由起 和田香苗 B 野薔薇のワルツ 4月1日 SAS-1506 A 沖繩音頭 ありむらけん 和田香苗 B 日本うれしや 西沢爽 市川昭介 4月10日 SAS-1512 壇の浦子守唄 石本美由起 和田香苗 片面は、杉良太郎「三日月の兜」。 B 風の宿 TBS愛の劇場「妻は告白する」挿入歌。 AA-54 A 愛の終り りゅうはじめ B 信じているから 石本美由起 四方章人 10月1日 AA-79 A 流し唄 りゅうはじめ 河村利夫 B 明日の別れ 佐伯一郎 りゅうはじめ 7月1日 AK-623 A 西條八十 古関裕而 (1936年)、(1962年)のカバー。 「七夕おどり」同様、仙台七夕まつりの時期に会場周辺で流れている。 B 丘灯至夫 遠藤実 1975年 5月1日 AA-107 A 悲しみの宿 山上路夫 船村徹 1000曲吹き込み記念曲。 1975年のNHK紅白歌合戦では、後年の再録音盤と同様に「」を「北日本」に変更した台詞で歌唱している。 B 女のともしび AA-114 A 日本晴ればれ音頭 石本美由起 古関裕而 佐伯亮 日本民謡指導者連盟監修、日本リクリエーション協会推薦、昭和50年記念曲。 美空ひばり、島倉千代子、舟木一夫、都はるみ、大川栄策。 片面は、コロムビア・オーケストラの「日本晴ればれ音頭」。 1976年 1月1日 AA-169 A 北の港で待つ女 山口洋子 菊野たかし 小杉仁三 B ギター流しでお客さん 岬二郎 三浦康照 5月1日 AA-188 A 星が流れました 佐藤順英 中島安敏 冒険家の哀悼歌。 B 追憶 関俊彦 8月1日 AK-20 A おじいさん おばあさん ありがとう 内与詩守 土肥寛展 B しゃっきり音頭 菊池俊輔 AK-23 A 霧の音 保富康午 船村徹 B 夕焼けの歌 島倉の母を歌った曲。 1977年 AK-64 A 想い出の舞扇 石川潭月 市川昭介 B お光紅梅 石本美由起 5月1日 AK-66 A 京都 北嵯峨 別れ寺 西沢爽 山野豊 京建輔 B 昭和のはじめのあの頃は 和田香苗 7月1日 AK-82 A ひろしまの母 石本美由起 古賀政男 佐伯亮 ひろしま音楽祭参加作品で、島倉にとって最後の古賀メロディーとなった。 B 海ぞいのふる里 11月 AK-100 A わたし京都へ 花登 船村徹 佐伯亮 朝日放送系テレビドラマ「」主題歌。 B はぐれ花 横井弘 船村徹 1978年 AK-106 A 女性 千家和也 伊藤雪彦 B 愛の花 土田啓四郎 2月1日 AK-108 A 日本の祭り 石本美由起 市川昭介 山路進一 B 木曽節 10月1日 AK-158 A 恋みれん 吉秋雅規 市川昭介 服部克久 B 手拍子さん 石本美由起 小杉仁三 1979年 AK-160 A 弾き語り 石本美由起 市川昭介 服部克久 歌手生活25周年記念。 B 愛呼ぶ渚 吉秋雅規 5月1日 AK-181 A 噂 光星龍 船村徹 B 女の私が得たものは 曽根幸明 CN-543 A サーシャわが愛 阿久悠 宮川泰 アニメスペシャル『』挿入歌。 B スターシャ・・・永遠に 1980年代 [ ] 1980年 1月1日 AK-215 A 春秋の舞唄 光星龍 紺野章 B 千歳扇の舞 山路進一 5月1日 AK-617 A 女がひとり 光星龍 伊藤雪彦 B あなたに愛を 木未野奈 7月10日 AK-677 A 綱わたり 光星龍 市川昭介 佐伯亮 B 滝の白糸 石本美由起 たきのえいじ 12月10日 AK-738 A 愛の砂漠 光星龍 市川昭介 佐伯亮 B さいはての宿 桜井義晃 三浦伸一 1981年 4月1日 AH-41 80万枚 A 鳳仙花 吉岡治 市川昭介 斎藤恒夫 B たそがれに 保富康午 たきのえいじ 1982年 8月1日 AH- A みちのく十綱橋 山口ひろし 市川昭介 B 飯坂小唄 西條八十 中山晋平 12月21日 AH-281 A ためいき橋 吉岡治 市川昭介 斎藤恒夫 B 命あずけて 1983年 8月1日 AH-355 A 積木くずし 穂積隆信 五輪真弓 映画『』主題歌。 B 愛とは何 たきのえいじ 8月21日 AH-360 A 流氷岬 丘灯至夫 遠藤実 B ふたりの港 1984年 AH-405 A 母子星 吉岡治 市川昭介 B しばれ酒 1月1日 AH-406 A 恋椿 中岡俊哉 岡千秋 B 涙 10月1日 AH-516 60万枚 A 夢飾り 里村龍一 浜圭介 B あなたの小樽 池田充男 市川昭介 1986年 4月21日 AH-724 A くちべに挽歌 石本美由起 浜圭介 池多孝春 この曲で紅白を一旦辞退。 B おんな橋 1987年 1月21日 AH-792 A 浅草メロドラマ 吉田旺 浜圭介 B 演歌づくし 荒木とよひさ 4月21日 AH-820 130万枚 A 中山大三郎 浜口庫之助 竜崎孝路 最優秀歌唱賞を受賞。 の電車到着案内メロディにも用いられている。 B 5月21日 AH-829 A 夢・浪漫・NARA 東海林良 星吉昭 なら・シルクロード博1988イメージソング。 姫神演奏。 B リラの頃・岬ホテル AH-870 A 浪花姉妹 たかたかし 岡千秋 とのデュエット。 B ぼたん雪 山上路夫 馬飼野康二 とのデュエット。 1988年 9月1日 AH-971 A 心うきうき 中山大三郎 浜口庫之助 NHK歌謡パレード'88オリジナル・ソング。 B 夢のつばさ 1989年 3月21日 AH-5017 A ゆずり葉の宿 星野哲郎 弦哲也 B 恋瀬橋 11月10日 AH-5075 A おんなの一生 阿久悠 弦哲也 B 雨音 巳木弘子 金子裕則 1990年代 [ ] 1990年 6月1日 COSF-40 1 祖谷の粉ひき節 2 一合まいた 12月29日 COSA-110 1 夢待人 荒木とよひさ 堀内孝雄 2 愛ひとすじに 1991年 9月1日 COSA-222 1 今日も初恋 浜口庫之助 TBS系ドラマ「花嫁」主題歌。 2 人生花ざかり 中山大三郎 浜口庫之助 1992年 6月1日 CODA-23 1 空蝉(うつせみ) たかたかし 弦哲也 2 柳橋情話 11月1日 CODF-117 1 それ行けダイエーホークス音頭 戸川勝喜 船村徹 片面は、水木一郎の「我らが覇者 福岡ダイエーホークス」。 1993年 3月21日 CODA-166 1 女の夢灯り たかたかし 伊藤雪彦 2 空蝉(うつせみ) 弦哲也 9月21日 CODA-228 1 ほれているのに くるみ広彰 くるみ敏弘 2 女の慕情 12月29日 CODA-289 1 あしたになれば 荒木とよひさ 浜圭介 2 この生命を授かって 1994年 1月1日 CODA-288 1 昔も今も…女 たかたかし 幸耕平 2 恋…女 7月21日 CODA-455 1 夢おまもり 荒木とよひさ 浜圭介 2 虹待ち人 9月1日 CODA-471 1 ちょっとだけ あかぎてるや 弦哲也 とのデュエット。 2 7月21日 CODA-653 1 片瀬月 美空ひばり 船村徹 美空ひばりが遺した小唄をもとに作った曲。 2 ラムプの宿で 12月1日 CODA-828 1 木枯らしのクリスマス 秋元康 三木たかし 若草恵 とのデュエット。 2 忘れていたクリスマス 12月29日 CODA-945 30万枚 1 火の酒 遠藤実 ディレクターとして「からたち日記」などを手がけ、その後1963年にコロムビアを離れたと久々に組んだ作品。 2 逢いたいよ~酒は涙か溜息か入り~ 1996年 11月21日 CODA-1076 1 島倉千代子 津城ひかる 三木たかし 主演の『素敵に女ざかり』主題歌。 2 1997年 5月21日 CODA-1226 1 美しき天然 9月20日 CODA-1319 1 私って 2 幸せの道しるべ 1998年 3月30日 CODA-1459 1 花なら花らしく 2 風の中で・・・ 12月30日 CODA-1679 1 柿の実ひとつ 2 あじさい坂の雨 12月30日 CODA-1680 1 人生はショータイム 2 悲しみにさよなら 1999年 9月10日 CODA-1777 1 ヨコハマ・ビギン 中山大三郎 中山大三郎とデュエット。 2曲目は西尾夕紀、岡千秋の「お父さんありがとう」。 2000年代 [ ] 2000年 2月19日 CODA-1797 1 三日月慕情 星野哲郎 弦哲也 2 感謝の旅路 永井龍雲 2001年 1月1日 CODA-1929 1 北どまり 木下龍太郎 伊藤雪彦 2 切符一枚 2002年 2月21日 CODA-2014 1 君 星野哲郎 永井龍雲 2 ほほえみの扉 安藤潤 和由希子 2003年 3月1日 COCA-15458 1 海かがみ 島倉千代子 山崎ハコ 2 夢だから 3 ちよこまち 2004年 3月3日 COCA-15645 1 風のみち デビュー50周年記念曲。 2 心がたり 2005年 3月23日 COCA-15743 1 ちよこまち 2 人生いろいろ 中山大三郎 浜口庫之助 3 ちよこまち(ライブ・バージョン) 2006年 3月1日 COCA-15844 1 それいけGoGo 2 そろそろり 2007年 5月30日 COCA-15989 1 おかえりなさい 友利歩未 杉村俊博 定年で職場から離れていく団塊の世代へ向けた応援歌。 岩手県釜石市の根浜海岸に歌碑が設立されている。 2 あの頃へ 2009年 1月1日 COCA-16211 1 風になる 友利歩未 杉村俊博 歌手生活55周年記念曲。 2 ひとりじゃないよ 2010年代 [ ] 2010年 1月1日 COCA-16324 1 私の小さな幸せの花 2 哀秋 2012年 2月1日 COCA-16536 1 愛するあなたへの手紙 2 光を感じて 2013年 12月18日 COCA-16844 1 喜多条忠 南こうせつ 南こうせつ 佐久間順平 歌手生活60周年記念曲として制作された。 体調を考慮して歌入れは自宅で行われたが、歌入れの僅か3日後に他界した為、遺作となってしまった。 2 委託制作版 [ ] 発売時期 品番 曲順 タイトル 作詞 作曲 編曲 備考 PRE-1181 A あゝ北の庄 西沢爽 古賀政男 PRE-1210 七夕音頭 戸川貞雄 米山正夫 青木光一とのデュエット。 片面は、永田とよこ「平塚恋しや」。 B 日本平音頭 静岡市・清水市観光協会推薦曲。 片面は、コロムビア・ローズの「君を呼ぶ日本平」。 PRE-1397 B 温泉小唄 西条八十 古賀政男 片面は、久保幸江・岡本敦郎の「日光小唄」。 1963年 FK-183 大阪音頭 のデュエット。 片面は、大阪繁昌ぶし。 FH-247 B 祇園まつり音頭 片面は、小野田実の「十三浜甚句」。 宇都宮音頭 栃木県宇都宮市市制60周年記念盤。 山中ひろしとのデュエット。 片面は、安西愛子・岡本敦郎の「宇都宮の歌」。 1984年 PES-8260 B 横浜山下町音頭 西条八十 万城目正 松尾健司 委託制作盤。 片面は、わかばちどりの「稲穂音頭」。 PES-7368 A 川越新小唄 片面は、「川越舟唄」。 PES-8152-CP A 結び文 八島義郎 加納光記 B 思い出 アルバム [ ]• 千代ちゃんの想い出(AL-267)• 千代子の花散る下田• 島倉千代子リサイタル(ACE-7003)• 流し唄(1975年3月5日、ACE-7104)• 島倉千代子のすべて(1976年10月5日、AB-7003)• 鳳仙花(1981年4月、AF-7039)• 新しき装い(1986年1月、AF-7398) 著書 [ ]• 花のいのち(自叙伝、みき書房、1984年。 歌ごよみ(自叙伝、読売新聞社、1994年。 島倉家-これが私の遺言(手記、文芸社、2005年。 プロデュース:。 ) 出演 [ ] 『』は映画化され、島倉自ら主演した テレビ [ ]• 〜親と子の200日戦争(1983年、TBS) - 本人 役()• (1986年、TBS)• VIII(1989年、フジテレビ)• (2003年、TBS) - 慰問者 役• (2005年-2006年、TBS)準レギュラー• (日本テレビ) ほか多数 アニメ [ ]• - 本人 役(特別出演) 映画 [ ]• (1956年、東宝)• (1956年、新東宝) - 本人 役• (1957年、東映) - 島村岐代子 役• (1960年、松竹) - 千鳥太夫 役• (1966年、東映) - 本人 役• (1978年、ATG) - サードのおふくろ 役(特別出演) ほか多数 CM [ ]• 野田建工• (「からたちの花」の替え歌を歌唱)• 京都きものプラザ 大B反市 脚注 [ ] []• 2002年10月から2010年9月まではコロムビアミュージックエンタテインメント• (2016年4月12日時点の) - スポーツニッポン。 2016年12月23日閲覧。 (日本コロムビア)• アネックス 2013年11月10日. 2015年7月1日閲覧。 『島倉家-これが私の遺言』108-109頁。 『島倉家-これが私の遺言』79頁。 2年後のに死去。 『紅白50回』、56頁。 「金曜プレステージ・独占秘話!初公開!秘蔵映像!島倉千代子最期の223日~今夜明かされる壮絶人生と「からたちの小径」誕生秘話~」フジテレビ、2013年12月20日• (2013年11月8日時点の) スポーツ報知 2013年11月9日閲覧• デイリースポーツ 2013年11月9日閲覧• スポニチアネックス 2013年3月21日• (2013年11月9日時点の) msn産経ニュース 2013年11月9日閲覧• 日本コロムビア アーティストインフォーメーション:島倉千代子 2013年11月8日付• スポーツニッポン 2013年11月8日閲覧• 日刊スポーツ 2013年11月8日閲覧• 日刊スポーツ 2013年11月8日閲覧• (2014年1月9日時点の) 2013年11月14日閲覧• デイリースポーツ 2013年11月13日閲覧• スポニチアネックス 2013年11月9日閲覧• msn産経ニュース 2013年11月9日閲覧• 日テレNEWS24 2013年11月8日閲覧• デイリースポーツ 2013年11月9日閲覧• デイリースポーツ 2013年11月8日閲覧• サンスポ 2013年11月9日閲覧• msn産経ニュース 2013年11月9日閲覧• シネマトゥデイ 2013年11月9日閲覧• msn産経ニュース 2013年11月14日閲覧• 毎日新聞デジタル 2013年11月14日閲覧• スポニチアネックス 2013年11月15日閲覧• 2013年12月19日. 2017年1月1日閲覧。 サンスポ 2013年11月9日• ,東スポWeb,2013年12月21日付• 『島倉千代子という人生』• DVD『ちびまる子ちゃん スペシャル「温泉に行こう!! 」の巻』に収録。 2010年5月14日. 2016年3月5日時点のよりアーカイブ。 2017年3月20日閲覧。 当時の最多記録保持者は美空ひばりだった。 1982年(第33回)までは、同じく連続出場を続けていたとタイ記録。 紅組歌手で3年以上連続でトリを務めた人物はひばり(3年連続および10年連続)と島倉(3年連続が2回)しかいない。 紅組出場歌手有志が島倉の後ろで応援• 『』2013年11月9日付、大阪本社版12版、26面。 「売り上げベスト10」『島倉家-これが私の遺言』168頁。 (該当ページには表記なし) 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - (2013年11月12日アーカイブ分)•

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この世の花 島倉千代子 歌詞情報

島倉 千代子 この世 の 花

Sponsored Link 出身は?本名は? 島倉さんは、1938年3月30日生まれ、 東京都品川区北品川のご出身、 血液型はA型、 学歴は、 日本音楽高等学校卒業、 ちなみに、「島倉千代子」は本名で、 愛称はお千代さんです。 幼少期に左腕を大怪我 島倉さんは、1945年、7歳の時、戦争中に疎開した長野で、 井戸から手押し車で水の入った瓶を運んでいる途中に転倒すると、 水の入った瓶が割れて、その中に左腕を突っ込んでしまい、 左手首からひじまでの血管を4本も切断する大怪我。 お母さんが、 女の子だから(腕を)残して欲しい と医師に懇願したことで、腕の切断は免れるのですが、 47針も縫い、腕の感覚はなくなり、動かすこともできなくなってしまいます。 (後に不自由ながらも動かすことができるようになったそうです) そして、そのせいで、島倉さんは、ものが持てなくなり、 ほかの子どもたちと同じことができずに、イジメられるようになったそうで、 家から外に出ず、笑わず、人とも話さず、学校の体操の時間も、 校庭の隅で膝を抱えてしゃがんでいるような、暗い子どもになってしまいます。 美空ひばりの大ファン ただ、そんな島倉さんを歌で心を通わせようと、 お母さんが、お風呂の中でよく歌を歌ってくれたそうで、 そのことがきっかけで島倉さんは歌が好きになっていくと、 歌が上手で歌手に憧れるも小児麻痺で歌手を断念した、 お姉さん(敏子さん)の夢を叶えようと、 島倉さん自身が歌手になる決意をされ、敏子さんから声楽を学び、 近所のアマチュアバンド 「若旦那楽団」に入団。 当初は、不自由な左手に負担のない、アコーディオンを担当されていたのですが、 島倉さんもまた、歌が上手だったため、やがて、ヴォーカルにも起用されたそうで、 地元の品川神社で催されたのど自慢大会には毎回姉妹で出場し、 さんの大ファンだった島倉さんは、 美空さんの歌ばかり歌われたのだそうです。 (最初にコロムビアのコンクールを受けた際にも、美空さんを真似て、 美空さんの曲 「リンゴ追分(りんごおいわけ)」を歌ったところ、 審査員に「ひばりは二人いらないよ」と言われて落とされたそうです) Sponsored Link 「この世の花」「逢いたいなァあの人に」「東京だョおっ母さん」が大ヒット そして、詳しい経緯は不明ですが、島倉さんは、1949年3月、12歳の時、 テイチクレコードから、童謡 「お山のお猿」を発売されると、 「お山のお猿」 (この「お山のお猿」は、レコードレーベルの歌手名表記が、 「島倉千代子」ではなく、 「戸倉千代子」と誤植されてしまっており、 そのため、島倉さんのデビュー作とは考えられていないようです) 1953年、15歳の時には、「日本音楽高等学校」へ入学し、 この頃から、歌謡コンクールにも積極的に参加されるようになると、 翌年の1954年 「第5回コロムビア全国歌謡コンクール」では見事優勝。 そして、1955年3月、16歳の時、本名の「島倉千代子」で、 ファーストシングル 「この世の花」でレコードデビューされると、 半年後には200万枚を売り上げる大ヒットを記録し、 たちまち、アイドル的な人気者に。 「この世の花」 その後も島倉さんは、同年に発売された、 「りんどう峠」が130万枚、 「りんどう峠」 1956年、18歳の時には、 「逢いたいなァ あの人に」が120万枚、 「逢いたいなァ あの人に」 1957年、19歳の時には、 「東京だョおっ母さん」が150万枚を売り上げる大ヒットを飛ばし、 「東京だョおっ母さん」 「東京だョおっ母さん」は、同名タイトルで映画化もされて、 島倉さんが主演を務められるほか、この年の 「紅白歌合戦」にも初出場。 (歌唱曲は「逢いたいなァ あの人に」 ) 1958年、20歳の時には、 「からたち日記」が、 またまた130万枚の大ヒットを記録するなど、 「からたち日記」 島倉さんは、あれよあれよと日本を代表する演歌歌手になられたのでした。 (この年には、一戸建ての家も購入されています) に続く.

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